本のムシ 7

【読書113】 教師の哲学
 (岬 龍一郎著、PHP研究所)       2005.10.28



 かねてから私は、「日本のすべての問題の根幹は教育にあり、日本に求められている答えのすべては教育にある!」と、教育の重要性を訴えてきたのだが、今日の教育界ではその教育をなすべき教師自身の精神的な拠りどころが示されていないところも、大きな気がかりのひとつであった。
 教師は生徒に対して、「人間に生まれてきたことの意義を説き、人生の素晴らしさを教えて、子どもたちの秘める心霊に点火する」という聖なる役割を負っている。しかし、今の教育界には、教師を教師たらしめる過程においても、「教師は聖なる使命を負う」ことの自覚を促そうとしてはいない。
 「哲学を持たない教師が、子供たちの人生を語ることが出来るのか」。この書は、教育界に対するその問いに、ひとつのかすかな答えをもたらしてくれるかも知れないと思い、ページをめくってみた。


 今日の日本の教育の危機を、著者の岬龍一郎氏は『とくに私が、日本の危機としてもっとも強く感じているのは、精神的価値観の崩壊、すなわち戦後日本人のモラルの喪失である』と書いている。もちろん、従来から再三指摘されてきたことで、その指摘自体は目新しくもないが、それでは戦前と比較して、われわれ平成の日本人は何をなくしてしまったのか。
 この書は、『かつての日本人が持っていた「伝統的精神文化の喪失」ではなかったのかと思っている。もっと具体的にいうなら、人が人として健全に生きていくために持たなければならない、「気概」とか「誇り」とか「道徳」とかいった、日本人としてのバックボーンを喪失してしまったのである。別言するなら、「身を修める」といった自分を磨くための教育や躾が、学校からも家庭からも社会からも消えてしまったことが最大の原因ではなかったのか』と説く。
 また「教育は国家百年の礎である」ことのゆえんを、『国家の存亡を決めるのは、それを維持する国家国民の一人ひとりの「見識」「教養」「道徳的気槻」である』と言っている。『だからこそ福沢諭吉はそれを「一身独立して、一国独立す」と言い換えて、国民の誰もが人格と知識教養を高めるためにと『学問のすゝめ』を書いたのである。いわば教育こそは国家百年の礎であり、どのような教育がおこなわれているかで、国家の命運は決まるということだ。そこに教育の重要性がある』と。
 かつての日本には、国の未来を見据え、日本人としての誇りある教育をほどこした教育者がたくさんいたとして、「米百俵の精神」の小林虎三郎、「修身教授録」の森信三、英文の「武士道」を著した新渡戸稲造、「歴代総理の指南役」安岡正篤、「独立自尊の教育」福沢諭吉、「諸賢の集会、木曜会」の夏目漱石、「アメニモマケズ」の宮沢賢治、「松下村塾」の吉田松陰、「適塾」の緒方洪庵を挙げ、その教育を紹介している。


 日本の教育の問題点を指摘し、再建を図る方策には、もはや新しいものは何もない。要は、それらの指摘を具体化し、再建策を実施に移すことである。ところが、教育界の動きの鈍いことは蝸牛の如しであり、保守的なことは不動如山である。教育委員会も学校も、組織は前近代的だし、責任体制も整っていない。求められることは、教育界に改革者が出現することであろう。


 近年、教育環境の整備や1学級の定員を少なく…などの議論もかまびすしいが、著者は『私はこの松陰先生が好きで、私の関係するある業界の若手幹部社員で構成する「塾生」を引き連れて、毎年、山口県萩市にある松下村塾へ詣でることにしている。その理由は、あの質素な松下柑塾を見せて、学問はけっして潤沢な環境から生まれるのではなく、松陰のいうところの 「
草莽崛起の精神」すなわち「志」と「気概」によってのみ向上するのだということを心に刻んで欲しいからである』と述べて、教育にとって設備や定員数は二次的なもので、教育の実は指導者の「志」と「気概」によってのみ養われることを示している。やはり、教師は哲学を持たねばならない。




【読書112】 信長の棺   (加藤 廣著、日本経済新聞社)        2005.09.28
  −信長の遺骸は、なぜ見つからなかったのか−       


 今回の選挙戦の最中、織田信長に傾倒して改革を叫ぶ小泉首相は、この本を愛読し、この本に触発されて、日本改革断行の決意を新たにしたと報じられた。これは読んでみなくてはなるまいと思って、今日、手がけてきた原稿が午後11時前に書き上がったのを幸いに本屋へ走って行って買い求め、412ページを夜を徹して一気に読んでしまった。
 




【111】 逆説の日本史12 −天下泰平と家康−(井沢元彦著、小学館)2005.09.26


 この巻の一節、日本仏教が宗教としての役割を放棄したのは、江戸時代の「檀家制度」にある…とする部分を紹介しよう。


 家康は三河一向一揆の際、門徒の武装集団に危うく殺されそうになった。もとより、武力を持つ宗教団体の骨抜きは、信長・秀吉・家康に受け継がれた政治課題であり、彼らは比叡山焼き討ち・石山本願寺の11年戦争・加賀の真宗王国・キリスト教の禁止・一向一揆…といった宗教勢力との戦いから、彼らを押さえ込むことの重大さを知ったのである。だからこそ、家康は准如と教如の争いに乗じて、真宗勢力本願寺を分断して、「自分を殺そうとした」本願寺の牙を抜いたわけだ。
 さらに、念仏にせよ、法華にせよ、中世の日本人は多くがその信者であり、まさに宗教のためには「自爆テロ」も辞さないような信徒があちこちにいた仏教徒たちが、江戸時代にはまったくおとなしくなった。これは世界史の分野でみたら、まさに奇跡ともいうべき出来事だ。「本願寺の分裂」が家康謀略の最高傑作なら、その後触者たちの行なった「檀家制度」は江戸幕府の謀略の最高傑作である。
 なぜ今、仏教の宗派は「元気がない」のか? たとえば新興宗教の団体のように、あるいはキリスト教の信者のように、社会に出て盛んに布教し活動し教勢を拡大しようとしないのか?
 それこそ中世には、どの宗派も盛んに活動した。人々は毎日のように寺へ出かけ坊主の説話を聞いたり、町へ出て友人・知人や見知らぬ人々に入信を呼びかけたり、あまつさえ対立している宗派と武器を取って殺し合うことすらした。


 それが、この檀家制度以来まったくなくなった。
 国民はすべてどこかの寺の檀家とならねばならず、それを離脱する自由はない。たとえば念仏の家に生まれ法華の教えの方が魅力的だと感じても、あるいはその逆でも改宗は許されない。寺の側からいえば、昔は自由競争だったから、魅力ある宗派となるために僧侶も日々研鑽し、信徒のことを真剣に考えなければいけなかった。だが、この制度以降はどんな不愛想な応対をしても「客」は逃げないし、「客」の側からの「付け届け」
すら義務付けられている(お定め書きに、「檀家は寺へ付け届けせよ」と定められていた)。こうなると、もう「お客さん」ではなく完全に人身支配したもの、つまり「扱隷」だ。
 この状態が二百年近く続いて、日本の仏教は完全に骨抜きにされてしまった。「葬式仏教」などと陰口を言われ、ほとんど葬式や法要しか寺との接点はない。「あなたの宗教は何ですか?」と問われて、多くの日本人は「私は無宗教ですが、家の宗旨は○○宗です」などと答えたりする。これは葬式は○○宗でやるということなのだが、そこには宗教としての日常規範となる戒律の意識も人生の指針となる哲学もない。「お経」といえば漢文の棒読みで、一般の人には何を言っているかわからないし、第一、「信教の自由」とは個人に属するもので、家とは関係ないはずなのだが、日本人は一般にそういう考え方はしない。
 日本人の宗教観が確立(喪失か…?)されてきた300年であった。




【105】 「 女  坂 」  (円地文子、新潮文庫)       2005.04.20

 円地文子著「女坂」を読んでみました。昭和の初期、不条理に耐えて家を守る倫(とも)の物語。当時は、地方の名家というのは主人に妾女がいて当たり前だったのですって…。その女を見つける世話までをして、家を守ろうとする倫の秘めたる願いは、理不尽な夫よりも長生きすること。しかし、好き勝手に生きる夫に先立つ倫は、なお家事一切を書き置く律儀さだったのです。
 
愛よりも、倫理に生きた日本の女性の生き様もすざまじく…かつ憐れ…というべきなのですが、その時代を生きた人たちは、それを悲しんでいなくて、もっと野太い、愛とか恋とかを越えた次元で、生を受け止めていたのかもしれません。
 身勝手な男の生き方を全うさせることに対する、どこか錯綜した快感にも似た献身を見るのは、男である僕の一方的な見方でしょうか。
 
円地文子の時代考証と、当時の世相をつづる言葉の豊かさにも、脱帽です。プロの作家の凄さを知らしめられました。 



【104】 ノラや   (内田百閨Aちくま文庫)           2005.3.21


 日本語の天才、内田百閧フ愛猫記である。そこはかとない百鬼園先生のペーソス溢れる描写に、猫好きはたまらない。
『猫は煙を気にする様である。消えていく煙の行方を、ノラは一心に見つめている。「こら、ノラ、猫の癖して何を思索するか。」。「ニャア」と返事をして、こちらを向いた。ノラはこの頃返事をする。 …』
 変にべったりした愛猫家でない内田百閧フ淡々とした文が快かったのだが、段々と百閧熹Lの魔性のとりこになっていく。ある日突然、ノラが居なくなってしまうと、その後の狼狽振りは、
『暫く振りに近所の寿司屋の握りが食べたいと思う。しかし、その中にノラがあんなによろこんだ玉子焼きがあると思うと食べる気がしない。止めた。 …』
となる。


 ドイツ語の教授である内田百閧ェノラに魂を抜かれて、居なくなったときの狼狽振りは、学者先生にしてこの体たらくと唖然とさせられる。教え子、友人、知人を巻き込んでの大騒動…、食事も喉を通らずろくに眠ることもできない百閧ヘこのとき68歳。なりふり構わぬむき出しの感情が、読むものの魂を揺さぶる。
 この本に出会うずっと以前に、「まぁだだよ」という映画を見た。金銭勘定の全くできない老先生と、損得抜きで回りに集う教え子たちの話であったが、純粋な心根の師弟の交わりに思わず涙したことを覚えている。
 その映画の中に、ノラが失踪してうろたえる老先生と必死になって探し回る教え子たちの姿が描かれていた。そうか、あの映画は、百鬼園先生をモデルにした作品であったのか。人間の素晴らしさを教えてくれる、一作であった。



◇ 「小唄 歌詞と解説集」を作成しています。     2004.0915【読書100】


 友人の奥方が小唄の師匠で、その社中が発表会をするから、「歌詞と解説集」を作ってくれと頼まれた。もちろん仕事には関係のない、趣味の世界のことである。
 実は 私は、はずかしながら「土筆弘章」という名前を小唄土筆流家元から頂戴している、いわゆる小唄の世界の「名取り」であって、10年来、師匠(私の師匠と、今回作成を依頼された友人の奥方とは、別の人である)の三味線に合わせて、『ウ〜ウ〜』とやっている。
 7年前に、その師匠の師籍25周年を祝う会があり、全演目の歌詞と解説集を作ったのがきっかけで、その小冊子を見た仲のよい芸子さんが、「お座敷でお客にも配るから、ポピュラーな小唄を少し加えて、1冊作って…」と言われるままに曲数を増やしながら何冊かを作り、今は収録している小唄が200曲を越えている。今回のように、ある会で使用するには、その200曲の中にすでにあるものはそのまま使用し、ないものは新しく文献やモノの本を調べて作成するわけである。


 小唄は、短い詩形の中に、男女の機微や女ごころの悲しさ、また、くらしの情緒を唄うものだから、表現が象徴的で、唄の背景や言葉の由来を理解しているのと知らないのとでは、受け取る意味はもちろん、唄い方そのものにも大きな違いが出てくる。
 例えば、『三吉野の』という小唄があるが、その歌詞は、
 「 三吉野の 色珍しい 草中へ 迷い込んだる 蝶ひとつ、
     思い染めたが 恋のもと
 たとえ 焦がれて 死すればとて
   
 鮎に愛もつ 鮨桶の しめてかためた 二世の縁、 二つ枕に 花の里
であるが、背景や由来を知らずに歌詞だけを読むと、「蝶々が恋をしたというのか…」と思うだろうし、ちょっと小唄の世界をかじった人ならば、「蝶は何かの例えだな。山里の娘の恋心を唄っているのだろう」と一歩進むけれど、「鮨桶って、何で…? 二人で鮨でも食べたのか」とチンプンカンプンである。
 それにつけた解説は、
 この唄は、歌舞伎「義経千本桜 鮨屋の場」を題材にした、いわゆる芝居小唄のひとつ。 吉野山で鮨屋を営む弥左衛門はもと平氏の武士で、屋島の陣から逃げのびてきた平 惟盛をかくまい、いつか一人娘のお里と一緒にしたいと願っている。惟盛の詮議のため梶原景時がやってくるが、弥左衛門は代人の首を差し出す。景時の取調べが厳しさを増す中、弥左衛門の息子いがみの権太は、「惟盛の首だ」と猿しばりにした首を出す。不忠の権太を弥左衛門は刺し殺すが、意外やその首は権太の息子善太のものであった。
 この小唄は、今宵祝言と楽しみにしていたお里が、手代の弥助が惟盛卿と知り、「すぎつる春のころ 色珍しい草中へ、絵にあるような殿御のお出で。 惟盛様とは露知らず、女の浅い心から、可愛らしい 愛しらしいと 思い染めしが恋の元。 父も聞こえず 母さんも、夢にも知らして下さんしたら、例え焦がれて死すればとて、雲井に近き御方へ、鮨屋の娘が惚れらりょか」と口説くところで、この芝居の義太夫の最高の聞かせどころを小唄にしたものである。
 「蝶ひとつ」は惟盛を指し、「思い染めたが〜二世の縁」までを義太夫を取り入れてたっぷりと唄い、「花の里」で余韻を持たせて吉野の里を描く。
 二世の縁は、夫婦の約束をすること。二つ枕の花は、同衾(そいね)の楽しさをいう
と書いた。
 まさか、「蝶が平氏の公達惟盛卿であり、鮨屋の手代に身を変えて、源氏の詮議の手を逃れている」のだとは、知っていなければ到底理解できないことだろう。しかし、解ってみれば、小唄の世界は粋である。同衾…などとはいわずに、「二つ枕に 花の里」と表現すれば、小唄を習う上品な奥様たちもたっぷりと歌い上げることができ、その歌声の背景に花いっぱいの吉野山と恋する男女の姿を描き出すことができるのである。


 歌の意味を理解し、そこに描かれた世界や情感を表現することが、その唄をしっかりと唄うためにも必要なことであろう。同時に、この「歌詞と解説集」を、聴きに来てくれたお客様にも配って、唄の意味や内容を理解をしてもらいつつ聴いてもらおうというのも、目的のひとつである。
 小唄・端唄・俗曲の類いの本から、能・狂言・歌舞伎や新派・新劇の解説書、江戸文化や古典芸能の文献、広辞苑・古語辞典を周囲に積み上げて、私の夜は更けていく。



◆ アイルランド 6作品


 リンクスは、大河が運んで河口に堆積した砂が、強風と波の働きで陸地に押し上げられ、有給の時間をかけて造った広大な砂丘である。農耕にも適さない、海と陸をつなぐ荒野…。羊たちが草を食んだところがフェアウエイやグリーンになり、強風を避けるために羊や野うさぎが身を隠した穴がバンカーとなった。
 世界の有名なリンクスコースが集まるアイルランド…。これだけ本を読めば、あとは出かけるだけである。


【99】定年後は イギリスで りンクスゴルフを愉しもう   (亜紀書房 山口信吾)


 筆者 山口信吾氏は、大手建設会社に勤務するサラリーマン。下で紹介する「リンクスランドへ −ゴルフの魂を探して−」(マイクル・バンバーガー)を読んで触発された彼は、50歳を過ぎたある年、スコットランドを訪れ、セントアンドリュース、カーヌスティ…などのコースを巡る。
 このたった一度の旅でリンクスの魅力に取り付かれた彼は、それから毎年、イギリス、アイルランドのリンクスコースを訪ね、さらに、あと一年後に迫っている定年の後は、セントアンドリュースの南にあるイリーという人口900人の小さな村に住むつもりだという。ゴルフクラブハウスという名前のリンクスコースに入会し、フェアウエイに面した、素晴らしい眺めの家に住むと…。



【98】リンクスランドへ −ゴルフの魂を探して− 
               (朝日出版社 マイクル・バンバーガー著、菅 啓次郎訳)


 上の山口氏が「この本を読んで、リンクスの魅力を知った」と書いていたのを読んで、amazon.comへ注文し、送ってもらった。
 自分のゴルフに、技術的にも精神的にも飽き足らないものを感じていた、著者のマイクル・バンバーガーは新聞記者を辞し、新婚の妻は広告代理店を辞めて、ゴルフの奥底を追求するための旅に出る。
 ワトソン以降のアメリカのゴルフには停滞しかないという彼は、創造性と洗練と独自のスタイルを持つヨーロッパツアーを転戦する、ピーター・テラヴィネンのキャディになり、キャディとしての立場から、ツアーのゴルフを見ようとする。
 命を絞るように一打を打つプロゴルファー…、キャディバスと呼ぶ安価な乗り合いバスでツアーを回るテラヴィネン…、バレステロスは天才であるということ…、幼馴染でありながらメジャーチャンピオンのウーズナムとシード権におびえるテラヴィネンの光と影…、「肝心なことは、自分自身を知り、そして恐れないこと」…、初めてニクラウスと回ったとき、その前夜は一睡もできなかったプロゴルファー・テラヴィネン…といったゴルフの世界を、彼はキャディという目を通して見る。
 半年間のキャディを辞めて、マイケルはスコットランドのリンクスコースをプレーして歩く。旅の途中で、「どんな二人の人間にも同じ教え方をすることはないし、ゴルフのことは表も裏も知り尽くしている」師匠ジョン・スタークに弟子入り。スタークは彼に言う、「スコットランドでは改まってゴルフを教えるということはなかった。親子でコースへ出ると、父親がやっていることを見ていただけだ。リンクスランドを旅したまえ。ゴルフは海から生まれたものなんだ」。
 セントアンドリュースで、95を叩いたマイケルは、再びスタークの元を訪ねる。数個のボールを打った彼に、スタークは言う。「スイングの適切なテンポを感じるためには、スイングを聴かなくてはいけない。いいショットをするためには、いいショットにつきものの音を生まなくてはいけない」。
 クルーデン・ベイで散々なパットをしたマイケルは、またスタークを訪ねる。「焦点を合わさなければならないことは、よいインパクトのみがよい音を生むということ」。


 海と陸のハザマに生まれたリンクスは、ゴルファーを育てる。雨や風はゴルフが自然とともにあるスポーツであることを教えてくれるし、バンカーの縁に身を寄せて強風をしのぎ、雨を通さないごわごわの合羽を着ていても、正確でタフなショットをする、強靭な精神力と体を具えてこそ、ゴルフは上達すると、そう筆者は言っているのだと思う。




【97】愛蘭土(アイルランド)紀行T・U (朝日文庫 街道をゆく30・31 司馬遼太郎)


 リンクスゴルフの素晴しさを礼賛する2冊を読んで、究極のアイルランドを読んでみようと思った。1988年、2週間に渡ってアイルランドを訪れた、司馬遼太郎氏の紀行である。


T アイルランドは北海道と同じほどの大きさ。緯度はカムチャッカ半島とほぼ同じだけれど、メキシコ湾流と偏西風のおかげで、年じゅう中暖かく、200日はこまかい雨が降る。。
 アイリッシュ気質は、頑固・怠惰・毒舌・子沢山。アイルランドを語るとき、この島の英国による800年に及ぶ支配・略奪・虐待を抜きにすることはできない。借地の3分の2で英国地主に納める作物を作り、残った土地に自分たちの食物を作ってきた人々は、そこにジャガイモを植えて食をつないできた。1760年には150万人であったアイルランドの人口は、ジャガイモによって80年後に900万人になったというが、1845〜49年のジャガイモ大飢饉は、種芋までを食べてしまう悲劇をもたらし、100万人が餓死…、150万人が国外へ移民した。その後100数十年を経て、アイルランドの人口は350万人であるが、アメリカのアイルランド系人口は4000万人、ケネディ、レーガンらの大統領を生んでいる。


U アイルランドの山野には、至るところに妖精が住んでいる。では、かの地の妖精とはどんなものか。イェイツの「妖精物語」の稿を孫引きしてみよう。
 『 しっ、静かに。今この工場の中にいるんだ、20人ほどいるぜ。やつらにゃ全く困るよ。チョコチョコ暴れまわって悪戯をやらかすんだからな。… ほら、糸巻きのところを2人走っていやがるだろう。2人ともおれの古い馴染みさ。あのかつらを被った爺(じじい)はジム・ジャムってんで、あの三角帽をつけたもうひとりのやつは、ニッキー・ニックってんだ。ニッキーは笛を含んだぜ。』
 アイルランドの人たちは、妖精たちを悪い仲間を紹介するように愛をこめて言う。日本の八百万の神々は神仏習合という知恵のもとで、原風景の中に生き残っている。八幡神は八幡大菩薩となり、ほかに権現や山王などと呼ばれたり、野山に隠れたものは天狗やカッパになった。ただ、キリスト教はアイルランドの妖精たちの存在を許しはしない。
 『… 司祭様が来たぞ! その瞬間、妖精たちは四方八方に逃げ去ってしまった。』
 かれらは、キリスト教の神にはあわれなほどおびえ続けてきた。言い換えればそれは、アイルランドの歴史そのものであるのかも知れない。



【96】司馬遼太郎の風景8 NHKスペシャル「愛蘭土紀行」   (日本放送出版協会)


 司馬遼太郎氏の「愛蘭土(アイルランド)紀行」をもとに、NHKスペシャル「街道を行く」の最終回放映分の取材記である。1999年に放映されたこの番組の印象は、この年にアイルランドへ行き、リンクスコースの手強さに新たな魅力を見出した私に、強いインパクトを残した。
 「アイルランド人は、客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だと思っている。…たれが何といおうとも、自分あるいは自民族の敗北を認めることがない。 … いつも負け続けでありながら、その幻想の中で百戦百勝しているのである」
 田村高広の訥々とした語り口から発せられる一言一句が、今も鮮明に耳の奥に残っていて、鮮やかにそのナレーションを再現することができる。
 クロムウェルによるアイルランド制圧では大虐殺が行われ、土地を略奪されたアイルランドの民はこののち理不尽にもそのほとんどが小作人となった。プロテスタント(新教徒)によるカトリック(旧教徒)の弾圧という、この民族の悲劇を、司馬氏は、「宗教は、水か空気のようである場合はいいが、宗教的正義という最も悪質なものに変化するとき、人間は簡単に悪魔になる」と記す。


 この稿を書いていて、放映時の映像の断片が思い出される。タラの丘で祈りの踊りをまう婦人たち…、風と岩のアラン島の岸壁で、その夜の一家の夕食を釣る男…、海岸に漂着する海草を丘の畑に運び、土作りに励む農夫…、「この島は好きだけれど、将来は島を出たい」と話す赤いほっぺの娘…。全てが、ビートルズやジョン・フォード、そしてジョイス、イェーツ、ラフカディオ・ハーンらを生んだ、アイルランドの風物詩である。



【95】図説 アイルランド
  (上野 格・アイルランド文化協会 編著、河出書房新社)


 アイルランドの地誌・歴史・文化などを、豊かなカラー写真とアイルランド文化研究会の資料でつづる、アイルランド解説書である。
 先にアイルランドを訪ねたとき、東部の首都ダブリンから西の中心都市ゴールウエイまで車で走ったが、表土に覆われた東部から西へ走るにつれて、岩肌の露出する丘陵とヒースや潅木が自生する荒野を目の当たりにした。今、この本をめくってみると、
 「地獄行きか、それともコノハト(西部地域の呼称)行きか」
 英軍兵士がアイルランドに乱入したとき、アイルランドのカトリック教徒たちは、過酷な自然条件と不毛の土地とされるコノハト地方に移住させられたのである。ほとんど表土のない岩盤、容赦なく吹き渡っていく風。けれども人々は、長年にわたって丹念に岩を取り除いて石垣を築き、羊や牛の放牧を行って生計を立ててきた。
 それゆえに、西部コノハト地方は、ケルトの遺跡をどこよりも色濃く残している…とある。



【94】アイルランド   (アイルランド大使館監修、NTTメディアスコープ企画出版)


 アイルランド大統領が女性であることを、この本を見てはじめて知った。しかも、メアリー・ロビンソン大統領は、1995年に来日され、宮中晩餐会で両国の友好と文化経済の交流増進を深めていこうとスピーチされている。


 国旗 緑・白・赤の縦縞。 紋章 アイリッシュ・ハーブ。 国歌 戦士フィアナの歌。
 国花 クローバーに似た 三つ葉のシャムロックの葉
    (アイルランドの聖人パトリックは、この葉を用いて、キリスト教義の三位一体
      …父なる神・子キリスト・精霊… を、ケルト人たちに解り易く説いた)
 地勢 最高峰 キャラントゥール山(1040m)、最長河川 シャノン川(350km)
 気候 夏 14〜16℃。  冬 4〜7℃。   年間200日ほどの驟雨。
 人口 350万人(労働者人口80万人)



◆ 「アンジェラの灰、アンジェラの祈り」           2004.7.16【読書93】
    
(フランク・マコート著、 土屋政雄 訳、 新潮クレスト・ブックス)


 この本が面白かったのは、私のアイルランド好きのせいなのだろう。司馬遼太郎氏の「愛蘭土紀行」によると、アイルランド人とは、頑固、強情、カトリック教徒だからどんどん子供を生むし、痩せた国土のせいでいつも貧困にあえぎ、怠惰、呑ン兵衛。産業革命のころにはイギリスに制圧されていて、科学文明とか近代経済とかの世の中の発展から取り残されたところがある…とか。
 
 この物語の主人公はアメリカ生まれだが、両親がアイルランド人で、彼が4歳のころに一家で本国に送り返されてしまう。その後、彼はお金をためてまたアメリカへ渡り、高校教師になって、ネクタイをしないと怒るようなアメリカ女性と結婚するのだが、結婚式のときベロンベロンに酔ってしまって新妻に結婚指輪を捨てられ、それを肴にまたみんなで痛飲するという素晴らしさ。生徒から預かった教材費を、給料日までの生活費にしたりの破天荒ぶりもアイリッシュなのである。それでも彼は、日常は熱心な教師…。著者のフランク・マコートは、下町のガキどもにシェイクスピアを叩き込む名物教師で、名門ブレップスクールにスカウトされた実績を持つ。
 主人公の父親はアル中で家族を捨ててアイルランドへ帰っていたのだが、「生まれ変わって禁酒している」という手紙が来て、さびしい母親は父親を呼び戻す。「もし本当に禁酒していたら、呑ン兵衛の俺の立場はどうなる」と主人公は心配するのだが、さすが父親は改心していなくて、ちゃんと泥酔して戻ってくる。断酒会に行って、主人公が、「親父ダメだよ」とか言いながら飲ませて、自分も飲んでいる。
 結局、彼はアルコールが原因で妻と別れるのだが、弟はバーを開いて大当たり。ヒップな弟は優雅に家族仲良く暮らしていて、堅実な生活を選んだ主人公のほうが、滅茶苦茶な人生を送っている。だから人生は一概には語れないという、アイルランド魂がここにはある。
 これは西部劇なのだ。ジョン・ウェインやジョン・フォードといった西部劇の立役者は、実はほとんどがアイルランド人であって、酒場で飲んだくれては拳銃をぶっ放すというメンタリティは、アイルランド人の精神構造と生活から創出されたものである。例えば「シェーン」は「ジョン」のアイルランド読みであり、「シェーン、カムバック」と呼ぶ子供の声を振り切って、彼は次の町へと去っていくのだが、これは、「父ちゃん、戻ってきて」と言われても、また次の飲み屋へ…というアイリッシュ・スタイルなのである。


 しかし、最もアイルランド人らしいのは著者のフランク・マコート本人であって、小説では彼の分身である主人公は、母の遺灰を故郷リムリックの墓地に撒くのだが、実際は、マコートと弟が酒を飲んでいるうちに、遺灰をなくしてしまったらしい。そのまま小説にしては読者の顰蹙を買うと版元に言われて書き直したと、テレビ局のインタビューに答えて喋っていたという記事を読んだことがある。、


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 読んだ本の中味を報告する時間がない。それで題名だけを書いておいて、後で報告をしようと思っているのだが、題名を並べるだけでもなかなか大変なことであることに気づいた。