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昭和天皇のゴルフ (福田和也著、「昭和天皇」より)   
2007.03.02


 「昭和天皇」(福田和也著、文芸春秋)に、昭和天皇がゴルフに親しまれた様子が記されていた。以下に抜粋する。文中、当時皇太子であった昭和天皇を「裕仁」と表記しているのは不敬の感もあるが、原文のオリジナリティを重んじて、そのまま抜粋した。


 『 (訪英のため皇太子(のちの昭和天皇)が乗艦した御召艦「香取」は)シンガポールを出向して2日後、マラッカ海峡を通過、スマトラ島をあとにして、いよいよインド洋に入った。
 フランス語など御進講以外の時間は、皇太子はたいてい、甲板に出ていた。
 御座所が狭いためもあったろうが、開放的な感じがなによりであった。
 東宮御学問所時代の、閉塞された心持ちにくらべて、いくら陽ざしが強くても、海上の心地よさは格別なものだった。
 甲板では、特別の用事がないかぎり、デッキゴルフをした。
 ゴルフクラブでボールを打ち、どリヤードのようにして他のプレイヤーのボールにあてる遊びである。
 波や風のせいで、なかなか当たらないのが、また面白い。何よりもボールを追って甲板を歩きまわるのが、運動不足の解消になった.
 皇太子裕仁は、すでに4年前、大正6年に西園寺八郎から、ゴルフの手ほどきを受けていた。
 西園寺は、大正3年に駒沢に作られた日本はじめての、日本人によるゴルフクラブ、東京倶楽部の設立当時のメンバーだった.倶楽部は、当時、横浜正金銀行の頭取だった井上準之助が呼びかけ人になり、西園寺八郎や樺山愛輔、岩崎小弥太、朝吹常吉といった、政財界の二代目連中に声をかけて創立したものだ。財政家の井上は、倶楽部が地代を払えるか心配になり、西園寺や岩崎から金を出させ、神戸の水道公債を購入した.公債の利子があれば、確実に地代が払えるだろうというのである(『ゴルフ史話』摂津茂和)。何しろ、10日間に1人もプレイヤーが訪れない、という有り様だったのである。ボールが貴重品で、プレイ中に1時聞かけて探すことが珍しくない、という時代であった。
 倶楽部の初代キャプテンとなった森村開作(後に市左衛門を名乗る)も、西園寺と同様に井上に公債を買わされた被害者だった。森村は銀行や商社を経営しつつ、社会事業家、教育家 −森村学園の経営にもあたっていた− としても知られている人物で、ある時、西園寺と森村の間で、皇太子にゴルフをお勧めしたいという話になったという。
 早速、ゴルフクラブを献上しようということになったのだが、東宮のスタッフが、ゴルフの何たるかを知らない.駒沢に招いて、プレイを見せ、紳士のスポーツであることを説明し、了解を得た。西菌寺は、赤浜離宮内に4ホ−ルのコースを建設して、そこで皇太子ははじめてクラブを振った。
 その後、箱根富士屋ホテルの仙石原コースや新宿御苑のコースで、しばしば裕仁はゴルフを楽しんだ.「こんなによいスポーツはない。審判が自分の心のなかにいる」と述懐したという.皇嗣として生れたため、常に周囲から特別扱いされている、漠然とした不満を感じていたのだろう。
 ということで、裕仁は、ゴルフについては、いささかの素養があったけれど、デッキゴルフは勝手が違ってうまくいかない。
 けれど、西園寺八郎は、山本信次郎と申しあわせて、一切、皇太子にたいして、手加減をしないことにしていた.御学問所では、東宮大夫の浜尾新が、御学友や侍従たちに、相撲でも何でも、けして殿下に勝ってはいけないと、厳命していた。浜尾にしてみれば、殿下を傷つけてはならない、という気持ちから出たものだったろうが、少年の心がどんな屈託を感じたか。
 自身、毛利家に生まれ、周囲の過度の気遣いに囲まれてきた西園寺は、人一倍、そうした事態について敏感であった。カトリック教徒として、嘘をつかないことを信条としていた山本もそれに賛同して、2人して、真剣に裕仁に立ち向かい、時に完膚なきまでに叩きのめした。
 一行のなかで、もっともデッキゴルフが苦手だったのは、東宮武官長の奈良武次であった。長い時間かけて間合いをはかり、懸命に打つのに、いつも明後日の方角に球が転がっていってしまう。
 「困りますなぁ、砲兵が的に当たらないんじゃあ」と、奈良がからかわれると、皇太子は口をあけて笑った。』


 後年、「昭和天皇回顧録」の中で、ご自身「あのときが、私の人生の一番の華であった」と述べられている、欧州歴訪に向かう船中での一コマである。




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