【物見遊山258】 天橋立                       2013.02.02
 

   ( 旅の詳細は、旅のブログにも記しています。よろしければ、ご覧ください )
  

 「てっさ・たらばがに 食べ放題バスツアー」の食事場『シーサイドセンター』の庭の前には、砂州によって宮津湾と区切られた、阿蘇海が広がっています。
 海を仕切る、
この全長3.6kmにおよぶ湾口砂州が、「天の橋立」です。
 日本では、外洋に面さない湾内の砂州としては唯一のものであり、白砂青松を具現するかのごとく一帯には約8,000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がっています。砂州の中央には公道あって、散策することができます。
 天橋立の南端部分(右上の写真の右方向)は砂州が切れていて、阿蘇海は宮津湾とつながっています。海の上には廻旋橋が架けられて、遊覧船の通行時には、橋がクルリと回って船の通路が開けられます。
 

 午後1時25分、食べ放題で満腹の客を乗せて、バスは天橋立見物に出発します。


 走ること2分、バスは元伊勢根本宮 籠(この)神社の駐車場に到着。この裏手にケーブルカーの乗り場がありますが、まずはお宮へ参拝しました。


← 丹後国一の宮、元伊勢 籠(この)神社

 
 天から降臨された天照大神は今の伊勢神宮に落ち着かれるまで、安住の地を求めて各地を巡られたと伝えられ、日本のところどころに元伊勢の伝承があります。



     
境内に、天照大神の和魂、倭宿彌命、
       真名井稲荷神社 (豊受比売)が祀られていました。→



← 倭宿彌命(やまとのすくねのみこと)


 僕は浦島伝説がここにもあるのかと思ったのですが、調べてみると下の通り、この方はこの社を守ってきた社家のご先祖でした。

 社家(しゃけ、代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のこと)の海部氏は、彦火明命(天津神)を祖とし、創建以来の奉斎とされ、現在は82代目です。4代目の倭宿禰命(国津神)は、神武東征の際に速吸門で亀に乗って、神武天皇を大和国へ先導したと伝えられています。
 
 
 倭宿彌命像の前を通って左裏手に上っていくと、「ケーブルカー乗り場」がありました。→




← かわいい車両が待っていてくれました。
 
 
 ふもとの「府中駅」から終点の「傘松駅」まで、15分間隔、2台の車両が上り下りを交互に運行しています。一方ががふもと駅にいるときは片方は頂上駅にいて、2台は同時に発車し、中央にある複線部分ですれ違います。所要時間は片道4分、料金は往復で640円です。


   上下の中央部が複線となっていて、すれ違います。→


 右の写真の左手に見えていますが、ここにはケーブルカーに平行してリフトが走っています。冬場(12月〜2月)は運休とのことで、この日は動いていなかったのですが、上りはケーブルで、下りは海と天橋立を見ながらリフトで下ってくるというのもいいかもしれません。


 傘松駅でケーブルを降りて駅舎を出ると、すぐ目の前に阿蘇海と宮津湾、そしてその2つの海を分ける天橋立が、視界いっぱいに広がっていました。


 傘松公園は阿蘇海の北岸にある高台(標高は130m)に開かれています。
 籠神社、ケーブルなども、宮津湾の北岸にあり、自動車道で宮津に入った場合は宮津湾を囲む国道176号を橋って対岸に渡ることになります。


← 傘松公園からの天橋立。


 この眺めを「斜め一文字」というのだとか。まさに、斜めに走る一文字に見える景観からその名がついたそうです。


  南側の文珠山の山頂にある天橋立ビュー
 ランドから見る眺め(写真はパンフから)→



  龍が天に登る姿に見えることから、「飛龍
 観」と名前がついています。


 天橋立の三大景観といわれているビューポイントのもう一つは、西側の大内峠一字観公園からの眺めで、「一字観」(天橋立が横一文字に見える)と呼ばれています。


 手前が江尻地区、向こう側が文殊地区で、上の写真は北から南向きということになります。両地区間は3.6kmですから、約1時間ほどの散策コースです。砂州は文殊地区へ渡る寸前で切れていて、その部分で阿蘇海は宮津湾から日本海へとつながっていることになります。
 砂州の切れ目は2箇所あって、2本の橋が架かっていますが、江尻港から出る観光船は阿蘇海ら宮津湾を巡るコースを走っていますから、この橋は廻旋橋になっていて、遊覧船の通行時には橋がクルリと回り、船の通路が開けられます。

 
 
 股からのぞくと、
こんな景色ですね



← ご存知「股のぞき」。高所恐怖症としては、うしろへ
 よろけると落ちていきそうで、ちょっと怖かった。



 「天橋立」は、風土記(丹後国風土記逸文)によると、伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通うために梯子を作って立てたもので、そのため「天の橋立」と言うのですが、命が寝ている間に倒れて現在の姿になったとされます。
 天橋立は天への架け橋ですから、股のぞきを行うことで天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬天にかかるような情景を愉しむことができるというのです。
 
 
 砂州にある井戸「磯清水」は、両側が海であるにもかかわらず、飲んでも塩分を感じない不思議な名水とか。散策する観光客の休憩時の飲料水として古くからよく知られていて、和泉式部が「橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲なまし」と詠っています。環境省選定の名水百選にも選ばれています。 
 「天橋立」は古代より奇勝・名勝として知られ、いくつかの歌にも詠まれています。歌枕の一例として平安時代の百人一首の小式部内侍の歌「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」が見られます。


 傘松公園の一段高い台地に「観光センター」がありました。
 レストランがあって、章くん、コーヒーを飲もうと上がっていきました。


    
「観光センター」の
       レストランのガラス越しに →





← ちょうど出てきた、傘松公園イメージキャラクター「かさぼう」とすれ違いました。


 大きなガラス面の展望テラスから、絶景を前にして飲むコーヒーは格別…。


 天橋立は、松島、宮島とともに『日本三景』のひとつと言われています。「日本三景」のゆえんは、江戸時代
前期の1643年(寛永20年)に、儒学者の林春斎がその著書『日本国事跡考』において、「松島、天橋立、厳島 三処奇観」と書き記し、これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされます。
 その後、1689年(元禄2年)に儒学者貝原益軒が、その著書『己巳紀行(きしきこう)』(丹波・丹後・若狭紀行)において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記しています。これが「日本三景」という言葉の文献的な初出とされますが、この書き振りから貝原が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた認識であったと推定されています。
 日本三景を雪月花にあてて、「雪」は天橋立、「月」は松島、「花」は紅葉を花に見立てて宮島としているのは、まことに風流と言うべきでしょうね。
 

 午後2時30分、傘松公園をあとにして、下りのケーブルカーに乗りました。


 せっかく冬の若狭に来るのだから、吹雪の舞い散る日本海の波濤砕ける後継を期待していたのですが、曇り空ながら風もなく穏やかな一日で、途中の滋賀・福井県境の山中には残雪が見られたものの、雪の気配はなし。
 自分で運転しなくていい今日ぐらいは、雪の北陸を実感したかったのですが…。


 午後2時45分、籠神社の駐車場からバスは帰途に…。


 このあと小浜市内で箸屋に寄りました。日本全国で使われている箸の8割がここ小浜で作られていることをはじめて知りました。
 午後4時45分、小浜を出発。外も暗くなって、バス内にはビデオが流され、ほとんどの人は睡眠タイム…。
 と…、「こんなにスムーズに帰れたのは、記憶にありません」と添乗員さんが言うように、渋滞も無く7時20分に名古屋駅到着。ビデオが終わりまで見られなかった…と残念がっていた人もいました(笑)。
 

 お疲れさまでした。                  物見遊山のページ トップ