池はひょうたん型で一の池と二の池に分かれており、湖面へ映る木々が美しい。ひっそりと北アルプスの山ふところに潜む湖面は神秘的である。
明神岳の土砂崩れで梓川支流の沢がふさがれてできたこの池は、かつては三の池もあったが、土砂災害により埋まってしまって、今は一の池・二の池が、梓川へと流れ出す清らかな水をたたえている。
四 からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五 からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり。
からまつとささやきにけり。
六 からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七 からまつの林の雨は、
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
← 帰り道は往路の対岸、梓川の
穂高岳側の岸辺をたどる。
帰路、熊笹の上を渡る歩経路 →
河童橋の上から振り返った「岳沢カール」↓
八 世の中よ、
あはれなりけり。
常なれど
うれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつに
からまつのかぜ。
カラマツの落ち葉が降り積もった 黄金の道 →
帰りのタクシーに乗ったら、大粒の雨が降り出した。焼岳の噴煙も、濃い雲の中…。紅葉のシーズンには少し遅い訪問であったが、秋の盛りの華やかさもさることながら、往く秋を惜しむ風情の漂う上高地も、一味違う旅情が感じられて格別であった。
あと1週間すると、ここに通じる唯一の車道が閉じられ、上高地は来春まで、雪の中の深い眠りに就く。
帰りは松本に出て信州そばの店「榑木野(くれきの)」へ立ち寄った。この店のそばは、全て石臼挽き手打ち生そば…、石臼で挽かれて粉となった命はやがてそば職人の手の中で一つの意志を持つ魂となる。そして、常よりも細めに切り揃えられて、野に育つ蕎麦は、透明度、つや、そして歯ごたえにさえもこだわりを感じる料理へと昇化する。
← 「榑木野」お勧めの海老天ぷらざる蕎麦
(店のパンフレットより)
蕎麦は粉粒の大きさによって味が異なる。粒子の細かい粉で打った蕎麦は舌触りは滑らかだが、製粉時に蕎麦は本来持っている甘味や香りが飛んで、味わいには今ひとつ乏しいきらいがある。噛むことによってしみでてくる味わいは粒子の大きな粉で打った蕎麦の方が豊かだと思う。大きな粒子を噛み砕くことによって、粉粒の中に隠されていたそばの味わいがはじけ出て口中に広がるからだ。粒子の大きさは挽き方によって調整できる。
「蕎麦は奥歯で噛め」と言われている。噛むことで本当の蕎麦の味がわかるという意味である。俗に云う”喉越しの美味”を堪能するのも蕎麦の味わい方には違いないのだろうが、これはいわば感触による美味であって、蕎麦の持ち味を知る食べ方ではない。そば屋で「もり蕎麦」を食べるとき、先ず麺の少量をつゆをつけずに口に運び、じっくり奥歯で噛んでみるとよい。。そこにしみでてくる味わいは、粉の質と粒子の大きさを物語っている。
「新そばは…」と尋ねると「売り切れました」との答えに、章くんは温かい「にしんそば」を頼んだ。少し濃いめのツユがニシンに滲みて、魚節のコリッとした歯ざわりとともに口の中に広がる。蕎麦は細身で歯切れが良いが、新そばの風味とコシには及ばない。
中央道、東名、名古屋高速、東名阪、伊勢道と乗り継いで、午後11時45分に帰宅。明日はまた早朝に起きて、賢島CCへ、古閑美保ちゃん、上田桃子ちゃんの応援に行かねばならない。
物見遊山トッブへ