【121】
 椋本の大椋
 (津市芸濃町椋本)            2007.05.18


 津市芸濃町の椋本に、地名の由来となった大きな椋の木がある。長年の間、一度見てみたいものだと思いつつ、何度も近辺を通っていたのに、今まで目にする機会も、見に行くこともなかった。
 今日は午後から、真宗高田派総本山「専修寺」の拝観に出かけたあと、車を向けて、噂の大木を探しに出かけた。


  
椋本は、昔の東海道から伊勢街道へ分かれる
  伊勢別街道沿いの宿場町だ。
   町中にある旧本陣 旅館「角屋」  【拡大】 →



 椋本の集落へ入ってから道を尋ねると、「銀行の角を曲がった向こうに小さな石碑がありますので、その路地を左へ入ってください」と教えてもらった。
 注意しながら行くと、道の左端に『椋本の椋の木』(だったか?)と彫った小さな道標を見つけた。横に、小路がのびている。
 すぐ前の空き地に車を止めて、この小路を行くのだろうと歩き始めたら、学校帰りの3人の中学生が通りかかった。「椋の木の大木って、この道を行くのかな?」と小路を指して聞くと、3人のうちの女の子が、「私たち、そこを通りますから、一緒にどうぞ」と先に立って案内してくれた。
 家々の間の小さな坂道を200mほど下ったところに、5〜6本の椋の大木が立っていた。「これか?」と確かめると、「いえ、あちら…」と指差した先に、石の柵に囲まれた1本の大木があった。周囲の木もそれぞれに十分に太い木々であったが、それよりも格段の存在感のある大木であった。


←「新日本名木百選  【拡大】
  国指定天然記念物
  
椋 本 大 椋 」と書かれている。


  




 横に立てられている高札によると、この木は「高さ18m、幹周り8m、樹齢は1500年以上と言われている」とある。


   
 地上3mほどのところに しめ縄 【拡大】


 さらに「嵯峨天皇(809〜822)のころ、征夷大将軍坂上田村麻呂の家来である野添大膳父子が伊勢路を流浪し、この地に逃れた際、巨大な椋の木を見つけ、その下に庵を結んで住んだ。これが椋本の地名の発祥である」とも。


  根っこのところは節くれだっていて、
  1500年の樹齢の重なりを示している【拡大】


  














【拡大】 この大木は、傾斜面を降りきったところに立っている。横に回って、大木の横の面を、斜面を少し登って撮ってみた。

 
  









        
斜面をさらに5mほど登って 【拡大】



 



← 後ろから
  パチリ
  【拡大】



 「明治3年9月18日の夜、台風の暴風雨でこの大木は枝を折られている。時の椋本神社の神官駒田巽氏は、この枝から獅子頭を彫刻して、神社に納めた」とか。これにちなんで椋本神社では丑・辰・未・戌年の正月に、豊穣、安穏、厄難除を祈願して獅子舞が奉納される。
  
  



 
    巨木の周囲に立っている椋の木も、
        結構な大木なのだが… 【拡大】

  

 車の頭部が見えているように、すぐ横に駐車場がある。安濃川沿いの道から椋本へ入ってくる道路を走って来れば、集落へ入る手前を左へ折れて、1分ですぐに駐車場である。
  



【拡大】 環境省の発表によると、この大木の樹齢は300年以上とか。解説板にある1500年とはちょっと開きがあるが、1500年も300年以上だから…、まぁいいか。
 が、明治3年の暴風により折れる以前は、幹周り14mの大木であったらしい。椋の木でこれは破格の大きさであり、それこそ天下第一のものであったろう。


         
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