【122】 
真宗高田派総本山 専修寺(せんじゅじ)
   2007.05.18


 津市一身田町に、真宗高田派の総本山「高田山専修寺」がある。真宗十派とか二十二派とか数えられる、親鸞聖人の教えを奉じる真宗の一派のうち、末寺630余寺を擁する高田派の本山である。
山門に掲げられている扁額
【拡大】

 「専修寺」は、承元の法難によって流されていた越後(新潟県)から許されて関東へ入った親鸞聖人が、栃木県芳賀郡二宮町高田の地に専修(せんじゅ)念仏の根本道場として建立した一宇に始まる。のち、第十世真慧上人は東海・北陸方面に教化を広め、1469〜1487年に、ここ一身田に伊勢国内の中心寺院としてこの寺を建立(当初は「無量寿院」と称した)。関東の本寺が兵火によって炎上したりしたため歴代上人が移住し、ここが本山として定着した。
( 専修寺は、「せんしゅうじ」とは読まず、「せんじゅじ」と称するが、これは法念上人の「せんじゅ念仏」にちなんでいる。)


 5月16日、この寺の会館で会合があり、この機会にお坊さんとボランティアの方にお願いして、専修寺とその寺内町を案内してもらった。


 
山 門 

← 山門【拡大】 


 御影堂の正面にあって、専修寺伽藍の総門。間口20m、奥行9m、高さ15.5m。五間三戸二階二重門の形式をもち、これは山門として南禅寺、知恩院などと並ぶ最高の格式である。
 その楼上には「高田山」の額(文化8年(1811) 天台座主青蓮院一品尊真法親王の筆)が掲げられ、二階内部には釈迦三尊が安置されている。

    




            
境内の側から撮った山門 →

 
 専修寺は創建以来2度の大火に見舞われ焼失している。現在の伽藍は、この山門の瓦に宝永元年(1704年)の銘があるので、このころに再建が完了したものと思われる。平成5年から3年がかりで大修理がなされた。


 

 
御影堂  

 山門をくぐると、正面に「御影堂」の威容が目に入る。


← 御影堂(重文) 


 
間口24間(約43m) 奥行20間(約36m)の大伽藍だ。
 現在、平成大修理が行われていて 平成20年完成予定。
 落慶法会は平成22年5月13〜17日。

 
 
  
     
外装工事は、あらかた終わっている。  【拡大】
       
修理成った大屋根の妻には 黄金の文様が →


 堂内には、親鸞聖人の木像を須弥壇上の中央に安置し、歴代上人の画像を両脇壇に並べている。(聖人木像は、工事中の現在は隣の如来堂に安置している。)
 畳725枚を敷いており、全国の現存木造建築の中でベストテンに入る巨大なお堂である。





 
如来堂  
 御影堂の西隣に、一回り小ぶりのお堂がある。ご本尊である阿弥陀如来を安置する「如来堂」である。教義上はご本尊を安置するこのお堂が、本堂である。


← 
如来堂(重文) 


 間口14間(約25m)、奥行13間(約23m)。前面中央に唐破風の屋根を持つ。
 御影堂の修理に先駆けて、昭和58年(1983年)から平成2年(1990年)にかけての8年間、大修理が行われた。


 ご本尊「阿弥陀如来立像」は 『証拠の如来』と呼ばれている。その由来は、『専修一門の正統、放流に誤りのない証拠』として、慈覚大師によって彫られた仏であることによる。
 屋根の妻には鶴の彫刻が施され、その見事さに「夜な夜な池の鯉を獲る」と言われて網をかぶせたところ、そののちは池の鯉の数が減らなかったという伝説がある。堂内の欄間の竜・像・猿などの彫りも必見である。
 御影堂の西に位置することから、別名「西御堂」とも称され、御影堂とは「通天閣」と呼ばれる唐破風の渡り廊下で結ばれている。  
  
 このお堂は江戸時代の中ごろに焼失したあと、御影堂よりも80年余り遅れて、延亨元年(1744年)円猷上人によって再建された。再建が遅れたのは資金調達が困難だったためで、このころには藤堂藩の財政にも余裕がなくなってきたことを物語っているのだろう。

  

         
如来堂を西側斜めから 【拡大】




 
唐 門
 如来堂の正面に位置するのが、唐門である。如来堂の正面にあることから如来門とも称され、間口4間2尺(約8m)、奥行4間(約7m)の屋根が檜皮葺で欅造りの建物である。
【拡大】


← 境内から見た唐門(県有形文化財)【拡大】

  
 軒下には菊の御紋が掲げられていて、この門は勅使門(朝廷の使いが来たときのみ開ける門)であったらしい。
 天保15年(1844年)に建てられ、総欅の門扉には菊、牡丹の透かし彫りが見られる。
  
 















  
  
    
唐門を表通りからパチリ 【拡大】






 
鐘 楼             【拡大】


『 正保3年(1646)、専修寺第15代門跡堯朝上人は幕府に呼びつけられ、叱責を受けた。堯朝上人の父堯秀上人が、持住職を譲る直前に、朝廷から大僧正の位を受けたのであるが、それが幕府に無断であり、幕府をないがしろにするものであるということであった。
 将軍家光のころのことで、幕府は当事その基礎を固めるため、宗教に対しても厳しい態度をとっていた。堯朝上人はいろいろ釈明し、津藩主藤堂高次のとりなしもあったが聞き入れられず、親鸞上人の真筆を献上せよと要求された。寺宝を守るため、堯朝上人は遂に浅草唯念寺で切腹した。上人わずかに32才、上人の内室高松院(高次の妹)は上人の冥福を祈ってこの鐘を鋳造した。
 その鐘の音が、今も毎日、朝に昼に時を告げている。           【津市文化課】 』




 鐘楼横を通り、工事現場を抜けて、如来堂・御影堂の裏手に広がる庭園の拝観に向かった。


 
専修寺庭園は「安楽庵(あんらくあん)」と呼ばれている。千道安(利休の長男)・織田有楽斎(信長の弟)合作の回遊式庭園である。庭の中の池に、竹島・沖ノ島・中ノ島があり、舟でめぐることができるように造られていて、舟蔵もあった。


お堂横のくぐり戸を抜けると
林の中の道が続いている。
【拡大】

池を渡る橋



茶席「安楽庵」の入り口

入り口を右に折れると、
小さな門がある。



【拡大】


石板の八ッ橋を渡る。
【拡大】


橋の上から 眺めた池
【拡大】



橋を渡ると、
茶席へ続く飛び石が…

【拡大】



苔むす庭と飛び石 【拡大】


茶室の木戸が見えてきた
【拡大】

庭には 一面の苔
【拡大】



「安楽庵」 【拡大】



に じ り 口


後世、大人数の茶会や
椅子席の茶室を造った。





西  門  【拡大】


  【拡大】

  
  
 お庭を出て左(東)へ歩くと、正面に、東の門である「
太鼓門」が見える。


             
太鼓門 【拡大】


 最上階に太鼓が置かれていて、時刻を報せて打たれていた(「時の太鼓」と呼ばれた)。梵鐘は、当時は法事や会式の始まりなどを報せるために衝かれていていて、時を告げる役割はなかった。
 もと2層であったが、親鸞聖人600回忌に4層にした。



 宝物館、殿舎(対面所、賜春館)


 宗務院の横を左へ曲がり
宝物殿を拝観する。宝物殿は撮影禁止! 国宝「西方指南抄6冊 親鸞筆、附:覚信等直門弟写本6冊や、三帖和讃 親鸞筆」(レプリカかな?)などを、厳重な防湿を施して保管している。
 案内いただいた導師に、「真宗の根本の聖典は何ですか」ときいたら、「この『教行信証』でしょう」と示してくれた。親鸞が「教・行・信・証・真仏土・化身土」の構成でこの世での往生成仏を説いた入魂の書…、親鸞が死ぬまで補訂した永遠に未完の書ともいえる。この宝物殿には「教行信証(高田本)6冊」(重文)が保管されている。


 真宗高田派専修寺(およびその末寺)では歎異抄を聖典として用いていない(否定しているわけではないことに要注意)。これは専修寺には親鸞聖人の真筆が多数伝来しており、弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性は薄いとの考えによるものである。
(専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である。)



  

← 宝物殿前の
殿舎玄関。殿舎には「ご対面
 所」「賜春館」などの館が並ぶ。


     
玄関軒下の彫り物。 龍と獅子 ↓
















 殿舎玄関前の玉砂利を踏んで、長屋門から東の通りへ出た。

  

 
← 東通りから太鼓門を望む。【拡大】




 東通りから表通りへ出たところに、一身田の町の歴史や町並みを紹介する館がある。展示室や休憩スペースがあって、町の散策拠点として利用できるようになっている。








           一身田寺内町の館 【拡大】


            寺内町の散策は、ここから…。


 
寺内町(じないちょう・じないまち)


 寺内町とは、室町時代に真宗などの寺院・道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。濠や土塀で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者等が集住した。
  
 ここ一身田は、天正8年(1580年)の伽藍炎上による復旧工事をきっかけとして、寺内町が結成されたと考えられている。
 専修寺を中心として、東西500m、南北450mの範囲が幅5mほどの環濠で囲まれ、さらに濠の内側には2〜5m幅の堤があったとされる。
 右の図は「一身田寺内町(一身田寺内町を考える会編集)」から抜粋した絵図に着色したもの。
 
水色 … 環濠。  
 
(図の右上)…赤門、江戸方面への門
 (図の右下)…黒門、伊勢方面への門
 
ピンク(図の左中ごろ)
        …桜門、京都方面への門
 
 … そのほか、6箇所に橋があった
 これらの門は、明け六つ(午前6時)に開けられ、暮れ六つ(午後6時)に閉じられた。

 
 明治を境に寺の支配は終わり、寺内町は解体されていくが、一身田の町には環濠跡やT字路とともに仏具や和菓子屋など寺にゆかりの店々も多く、寺が融資した資金で商いを興したとされる豪商の家並みも残っている。

 


← 本堂の東隣にある「慈智院


 末寺筆頭のひとつで、正保2年(1639年)の一身田大火にも焼け残った、寺内町で最も古い寺である。
 しかし、写真でも確認できるように、表通りに面して専修寺の並びに立っているのに、シャッター付きのガレージを造ったり、その横のトタン板の外装はいかがなものであろうか。




  
専修寺山門前の三叉路の東門に位置する
        
玉保院」(東院) 【拡大】


 西の門に位置する「
智慧光院」(西院)とともに、末寺筆頭三寺を構成する。
 10世真慧上人が一身田に無量寿院を開いたときに随行してきた真佑(智慧光院)と恵珍(玉保院)が開いた寺である。




 ここから、お二人のボランティアガイドに案内していただいて、寺内町をめぐってみよう。


 専修寺の塀に沿って西へ歩く。この塀、5本の白い筋が入っている。ガイドさんによると、この筋は寺格を表わし、、5本線は最高の格式なのだとか。「自宅の塀に線を引いてはいないでしょうね」と言うのに、章くん、「うちは6本線…!」。
専修寺西南角の案内板
【拡大】


環濠跡。原型は左の道を
あわせた広さだったろうと…

【拡大】


西の大門、桜門跡
【拡大】

商 店 街



武野薬店 景観を大切にして、
改築時、昔風の家屋にしている。



向拝前通りから山門をパチリ。
手前の塀は寺域の境界の
釘抜門


寺や参拝客を相手にしての商売も盛んであった。
寺の資金の貸与を受けて豪商も多く、大きな家が並ぶ。






寺内町の南の環濠は毛無川
流れだ。川に面する舟積み場も
残っている。
 【拡大】

【拡大】


 寺内町の南の環濠は、毛無川(けなしがわ)…。「坊さん」の町を流れている川だから毛無川…?
いえいえ、「毛」は二毛作などの熟語もあるように作物のことで、稲を表わしている。
 毛無しは、稲が無いという意味ではなく、「毛成し」… すなわち稲を成す… 稲を作る灌漑用水の川といった意味であろう。
  

 一身田寺内町には、東海道亀山宿から伊勢街道安濃津へ通じる「伊勢別街道」が通っていた。(今は北に移動している。)
 一身田の西隣の窪田には、伊勢別を通行する旅人や高田本山への参詣者らの宿場が営まれていて、村落の外れには近江(滋賀県)の人たちによって寄進された、巨大な常夜燈がある。


               
窪田の常夜燈 【拡大】


   JR一身田駅の前を北へたどり、踏切を西へ渡って
  200mほどのところにある。
   隣の2階建ての家よりも背が高いことからも
  この常夜燈の巨大さが解るだろう。


 
  物見遊山トッブへ