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亀山城址  肉のむかい              2007.07.09


 友人のオフクロさんが亡くなった。その日、大阪にいた僕は、お通夜にも告別式にも出席できなかったので、49日が過ぎた今日、精進落しと激励会を兼ねて、亀山の「むかい」で一席設けた。
 予定の時間より少し早く亀山に入ったので、4月の三重県中部地震で石垣が崩落したという亀山城跡を歩いてみた。


 ← 亀山城に、往時のまま残る「多門櫓」。【拡大】
   三重県に現存する唯一の城郭建築である。
   手前左の土塁はもとからのもので、石垣が崩れたわけでは
  ない。4月の地震での崩落現場は、別のところだ。



 日本史の古い時代から、亀山は上方と東国を結ぶ街道が通り、鈴鹿峠を押さえる交通の要所であった。
 亀山城は、文永2年(1265、鎌倉時代)に伊勢の平氏残党の乱を平定した関実忠によって、伊勢国鈴鹿郡若山に築城された古城に源を求めることができる。 南北朝の時代、吉野へ向かう北畠氏を助けた縁をもって伊勢国司北畠氏に味方。貞治年間(1360代)には五人の子が分家し、亀山、神戸、国府、鹿伏兎(かぶと)、峯の各城を居城とする関五家と呼ばれたが、その宗家の居城として、この地を治めてきた。
 弘治年間(1550代)に関盛信は佐々木六角に攻められ、蒲生定秀の縁を得て和睦。永禄10年(1567)の信長上洛時、その軍門に降った。しかし、盛信は元亀2年(1571)の長島一気に通じ、捕らえられ幽閉される。
 天正10年(1582)に幽閉を許されて信孝の四国平定に参陣するも、本能寺を知るや亀山に戻って息子を還俗させ、蒲生賢秀の娘を嫁に迎えた。以後、蒲生の家臣となって、蒲生氏郷が伊達政宗の抑えとして会津42万石に転封されたときもこれに随臣した。
 豊臣秀吉と柴田勝家の争いの際には秀吉方につき、一時、滝川一益に城を奪われたが取り返している。



 亀山城が現在の地に遷された年は定かでないが、関氏が城主であった時代であることは確かだ。天正18年(1590年)、世は豊臣秀吉の治世となり、関一政が蒲生氏郷の会津への転封に付き従って、陸奥白河(福島県)へ国替えとなった。鈴鹿郡一帯の三万余石と北勢地方の四万石の合計七万石を豊臣秀次が管轄することとなり、秀次の代官である沢善蔵は関宿で治政を担当し、岡本宗憲は亀山城に入って軍務を担当した。
 亀山の地は、これまでの戦乱で荒廃がひどかった。合戦の形も、これまでのように一人ひとりの武士が刀や槍で獅子奮迅の働きをする戦いでなく、鉄砲を使った集団戦が主力となったことも踏まえて、宗憲は天正18年から城の改築にとりとりかかる。亀山の旧館(ふるたち)にあった善導寺の巨刹、あるいは豪商の与助なる者の鍛冶工場の建物を強制的に取り壊し、新城の建築資材に充当すもなどしたという。
 こうして宗憲は亀山新城の築城につとめ、本丸・二ノ丸・三ノ丸を整え、また天守閣を置いて、のちに亀山の「胡蝶城」と賞賛される城の原型を造り上げたのである。丹陵城と呼ばれた若山城(もとの亀山城=亀山古城)は西北方の防備のため残され、いま、ここは住宅地と公園になっている。


   天守台南面の高石垣は、直高14.5メートルもあり、野面石
  (自然石)を牛蒡積みとした中くぼみの扇形勾配で、堅固・優美
  さを備えており、四百余年の風雪に今も耐えている。【拡大】



 岡本宗憲の名前は、秀吉の朝鮮出兵に際しての舟奉行に見られる。15万余名の日本軍将兵の大軍団を無事に朝鮮半島へ送り届けるだけでも大変だが、同時に、武器や弾薬、食糧、建築資材なども輸送しなくてはならない。これを担当したのが、鳥羽水軍の九鬼嘉隆や、藤堂高虎、加藤嘉明ら十将で、岡本宗憲も亀山から兵五百人を伴い、この水軍に所属して輸送を担当した。
 しかし、宗憲は関が原の戦いで西軍に加担して敗戦…、自刃…。


 その後、関が原の戦いで井伊直政の陣中で武勲を立てた関一政が、再度城主となるが、慶長15年(1610)伯耆黒坂(鳥取県)に転封され、元和3年(1617)家中内紛のため改易。しかし、養子(一政の弟勝蔵の子)の関氏盛が近江蒲生で5000石を与えられ、家名を存続している。


← 石垣から崩れ落ちた石が歩経路にごろごろしていた。
  石垣に積まれている石の大きさは、大阪城や名古屋城に比べれば
  もちろんだが、先日訪ねた松阪城に比べてもずいぶん小さい。


 
関氏の移封後、亀山の地は三宅・関・松平忠明・水谷・三宅譜代大名が目まぐるしく交替した。江戸初期の寛永9年(1632)、三宅康盛のとき、幕府から丹波亀山城の解体を命じられた堀尾忠晴(松江城主)が間違えてここ伊勢亀山城の天守閣を解体してしまい、以後、再建を願い出るが許されず、天守が再現されることはなかったと伝えられている。
 寛永3年(1363)本多利次が入城して、城の大修理を行い、天守を失った天守台に多聞櫓を築造した。その後も、石川・板倉重常と続き、延享元年(1744)、次の石川総慶が備中松山(岡山県)から6万石で入封、以後11代続いて明治を迎えている。


  



← 丘陵の上に建ち、白壁の櫓・門・土塀などを連ねる景観が、
 蝶の群れとなって舞う姿にたとえられ、「粉蝶城」とも呼ばれ
 る優美な城であった。【拡大】


 江戸時代においては、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城であつた。またこの時期の亀山城は幕府の旅館としての役割があり、上洛する徳川家康、秀忠、家光などが本丸を休泊に利用している。このように本丸は徳川氏の休泊に度々利用されていたため、城主居館は二の丸におかれていた。



 
 
    
石垣の上に登って、多門櫓の横から亀山の町を見る →


  正保年間(1644〜47)、天守台に平時は武器庫として、戦時は
 防戦用として利用するための多門櫓が建てられた。
  明治期には士族授産の木綿緞通 (もめんだんつう)工場として
 使用されたため破壊されずに現在まで残った。





 
石垣の上からの展望…。 
水堀跡 【拡大】 すぐ下の西の丸跡は亀山中学


 明治維新以降は、明治6年(1873)のいわゆる廃城令によって、ほとんどの構造物が取り壊され、堀も埋め立てられた。このため現在は、天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など、一部が残るに過ぎない。
 ただ、多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として三重県下では唯一の遺存例であり、現存する多聞櫓として全国的にも数少ない存在であるため、本丸南東の天守台と多聞櫓本体を併せて、三重県の指定文化財「旧亀山城多聞櫓」に指定。また、二の丸御殿玄関は、西町の遍照寺本堂に移築されている。

  

← 2007年4月、三重県中部地震により崩落した
 天守台の石垣の一部。シートが掛けられている。
 【拡大】


 崩落箇所は1972年の台風被害の補修で新たに積んだ部分のみで、江戸時代初めごろ穴太衆(あのうしゅう) によって築かれた古い部分には一切被害はなかった。

  
 







    天守台からの階段を下りたところに館があって、石碑に
       「史蹟 明治天皇亀山行在所遺構」と彫られている →


 明治天皇の行幸の際、ここにお立ち寄りになられたのだろうか。
 それにしては、保存状態がお粗末な館である。

  



← 亀山市練武館

  





             亀山神社【拡大】 →




 江戸川乱歩は2歳のとき、名張市から亀山へ移り住んでいる。その頃のことを、『…高台に町があった。そこの石の鳥居のお宮さんに、祖母と遊んでいると、下の方からピイッと笛の音がして、おもちゃみたいな汽車がゴーッと走って行った、それがこの世で最初の記憶。二歳、伊勢の国亀山町在住の頃である…』(乱歩打ち明け話)と書いている。
 文中の『石の鳥居のお宮さん』とは、この亀山神社のことではないか。それにしても、2歳の記憶を本に書くとは、さすがは江戸川乱歩である。


  


【拡大】 亀山城裏手は深く落ち込んだ谷になって
 いて、急峻な斜面の下は水堀の名残の池が広がり、
 一帯は公園になっている。 【拡大】



























 この堀の北側一帯の若山が、鎌倉時代、関一族が築いた旧亀山城(現在の亀山城と区別するため、亀山古城と呼ぶ)の遺構であろう。現在の若山は、住宅地と亀山公園となっいる。
 亀山古城の跡を示す石碑,案内板は亀山神社から北東、直線距離にして500〜600mの住宅地の中に建っているが、石碑の背後の丘には遺構は残っていない。案内板にも、亀山古城の城域は特定されていないと記されている。





【秀吉軍の亀山城攻め】 平成18年放映の大河ドラマ「功名が辻」で、武田鉄矢が演じる山内家家臣「五藤吉兵衛為浄(ためきよ)」が、ここ亀山城の攻防戦で戦死(享年31歳)したシーンが記憶に残っている。

 天正10年(1582)年の本能寺の変で織田信長が討たれたあと、羽柴秀吉は、後継争いで対立した滝川一益の配下にあった亀山城を攻めた。秀吉方は翌年2月16日から総攻撃をかけ、戦いは3月3日まで続いた。秀吉方の一翼を担った一豊の奮戦は目覚ましく、場内一番乗り…、後に大名へと出世する足がかりを得た。
 この戦いで、山内一豊の股肱の臣であった五藤吉兵衛は命を落としたのである。

  


 
← 公園に展示されている 蒸気機関車


 亀山はJR関西線(名古屋−港町)が通り、亀山駅から南へ紀勢本線が分岐していく、鉄道の要衝でもある。亀山機関区が置かれて旧国鉄関係者も多く、鉄道の町でもあった。







 古城散策のうちに、いつの間にか時間が過ぎて、約束の午後6時30分になった。
 亀山市東町で、昭和10年ごろから松阪ブランドの精肉を独自の調理法で食べさせる「むかい」へと向かう。亀山城に続く東町商店街の中にあり、徒歩でも7〜8分だ。
 

← 「むかい」の水炊き


 厚手の肉を野菜などと一緒に
 水炊きし、たっぶりの大根・
 人参おろしを加えて、秘伝の
 ダシでいただく。
 鍋も特製の銅鍋だ。

 


← 肉は松阪牛ブランドで
 折り紙つき。【拡大】


 但馬で生まれた子牛を、三重で丹精こめて育て、極上の三重特産和牛として食卓に供している。
 
 

 メニューは、すき焼き、網焼きなどさまざまな料理が用意されているが、中でも「むかい」名物の『肉の水炊き』はサシ(霜降り)も見事な牛肉を昆布だしで味付けした煮汁にサッとくぐらせ、醤油をベースに工夫された秘伝のタレでいただく。
 肉の厚さは、すき焼きと同じ。食感もたっぷりで、ジューシーな肉のうま味を堪能することができる。
 水炊きを堪能したあとの雑炊がまた絶品…。肉の煮汁で炊き上げられていても、そのうま味をしっかり捕らえながら、どこまでもあっさりとしている。2杯もお替りをしてしまった。


 亀山市は、近年、元気である。
平成14年(2002)、三重県のハイテク企業誘致策によりシャープ亀山工場を誘致・建設し、世界初の液晶パネルからテレビまでの一貫生産が行われている。大手家電量販店などでは「AQUOSは世界の亀山モデル」などとというキャッチコピーで売り出され、人気を博している。その税収をもとに、地方交付税の交付を受けない不交付団体として意気盛んだ。
 
しかし、市の中心部である旧東海道沿いの東町商店街は閉店する商店が見られ、大規模な郊外型のショッピングセンターも存在せずに、隣接する鈴鹿市や津市へ買い物に出かける市民が多い。
 幸運と言うべきシャープの進出を文字通りラッキーチャンスとして、町づくり・地域の整備を進め、自治体としての足腰を整えることが、何よりも求められる課題である。


 
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