【163】 法隆寺 初夏    2009.05.05
      

 連休も残すところはあと1日…。今日は、またまた法隆寺の百済観音さま、中宮寺の如意輪観音さまのご尊顔を拝すことを思い立って、斑鳩を訪ねました。

   
雨模様でしたが、さすがに人出は多かったです →
三経院 【拡大】


 法隆寺は何度も訪れている章くんですが、金堂、五重塔を囲む回廊の更に西にある、「三経院」「西円堂」らを拝観したことは実はありませんでした。
 三経院は、聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈されたこと(三経義疏)にちなんで、西室の南端部を改造して建てられたもの。また「西円堂」は橘夫人の発願によって行基菩薩が建立したとされる八角のお堂で、いずれも国宝です。


    
「西円堂」の縁側から、金堂、五重塔を望む →


 聖徳宗の総本山である法隆寺には、この「三経院」「西円堂」らを含んで、現存する木造建築物では世界最古といわれる建造物だけでも、19棟の国宝と29棟の重要文化財が甍(いらか)を並べています。わが国の『世界文化遺産登録第1号』たる所以ですね。


 斑鳩(いかるが)の名前の由来は、この地にイカルという鳥がたくさん飛んでいたことに由来するようです。その斑鳩の地に法隆寺が建立されたのは、607年(推古15年)のことで、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病を治すために、薬師像を祀る斑鳩寺(現法隆寺)の建築を進めたことが始まりとされています。
 しかし、その法隆寺は、創建から64年後の670年に火災で焼失したと日本書紀に記されています。現在の法隆寺は672年から689年にかけて再建を始めたものとされています。


← 高さ31.5m、わが国最古の五重塔(国宝)です。
 


 
   
法隆寺のご本尊を祀る金堂(もちろん国宝)
    

 面長で、どこか西欧の面影を宿すご本尊の金銅釈迦三尊像は、この日も静かな微笑を湛えて、参拝する衆生を迎えてくれていました。
 堂内には、諸像が安置されているほか、天井には天人と鳳凰が飛び交う天蓋が吊るされ、周囲の壁面には有名な飛天図が描かれています。
 世界的にも知られていた12面の壁画ですが、昭和の大修理の最中の昭和24年(1949年)火災につつまれ、あらかた焼失してしまいました。現在の壁画は、昭和42年に再現されたものです。


 西院伽藍の東端に並ぶ「綱封蔵(こうふうぞう…寺宝を保管する蔵)」「食堂(じきどう…現存する日本最古の食堂、もともと法隆寺の社務所であったものを平安時代から荘の食堂として使用)」の奥に「百済観音堂」が完成して、百済観音や玉虫厨子などの寺宝を収納しています。

← 平成10年に完成した「百済観音堂」


「百済観音」という名称について(出典、フリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」)


 このお姿、このお名前から、僕はこれまで「百済観音」は朝鮮からの渡来仏であろうと思っていた。が、その出自は不明…。いつとはなく法隆寺に寄宿された御仏であるそうな。以下、引用を記します。


 『 近世から明治時代まで、法隆寺ではこの像を観音ではなく「虚空蔵菩薩」と呼んでいた。これは虚空蔵菩薩を聖徳太子の本地とする信仰に基づくものと思われる。 明治19年(1886年)、宮内省、内務省、文部省による法隆寺の宝物調査が実施された際の目録には「朝鮮風観音」とあり、この頃からこの像を「観音」と見なす説のあったことがわかる。この「朝鮮風観音」という名称については、確証はないが、当時奈良地方の文化財を調査していた岡倉天心の発案によるものかと推定されている。前述のとおり、この像が明治30年(1897年)、当時の国宝に指定された際の名称も「観世音菩薩」であった。しかし、法隆寺側では「虚空蔵菩薩」の呼称にこだわりをもっており、明治38年(1905年)4月14日、住職佐伯定胤名で当時の奈良県知事あてに「観世音」から「虚空蔵」への名称訂正願を提出しているが、寺側の願いは聞き入れられなかった。その後明治44年(1911年)になって、寺内の土蔵から本像の宝冠が新たに発見され、その宝冠の正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ、小型の仏像)が刻まれていることから、寺側でもこの像を「観音菩薩」と認めざるをえなくなった(菩薩像の頭上に阿弥陀如来の化仏があれば、その像は観音菩薩像であることを示している)。
 この像の通称として20世紀以降著名になる「百済観音」という呼称はさほど古いものではなく、大正6年(1917年)の『法隆寺大鏡』の解説が初出であるとされている。和辻哲郎の『古寺巡礼』は大正8年(1919年)に刊行されたものだが、『法隆寺大鏡』の記述に影響されてか、この像を「百済観音」と呼んでいる。考古学者の濱田青陵(濱田耕作)は大正15年(1926年)、『仏教芸術』誌上に「百済観音像」を発表し、後に発表した随筆集に『百済観音』という題を付けた。このようにして、本像について「百済観音」という名称が次第に定着していった』とある。


  
東院伽藍の中核をなす「夢殿」 【拡大】  →
   この日は春のご開帳期で、秘仏「救世観音」を
   拝観することができました。薄暗い堂内でたた
   ずまれる御仏は、今日もふくよかな微笑を湛え
   られていました。



 東院伽藍は聖徳太子のお住まいがあった地と伝えられています。太子はこの地で、ご一家とともに敬仏修学の日々をお過ごしになったのでしょう。
 聖徳太子の死後、その子「山背大兄王」らは蘇我蝦夷と対立し、蘇我人鹿によって攻められて、一族は斑鳩寺でもろともに首をくくって自害し、斑鳩上宮王家はここに途絶えます。
 

 東院伽藍の東に隣接する敷地に、尼門跡「中宮寺」があります。


  
鐘楼の横を右に曲がると、小さな門が見えます。 →


← 耐火耐震造りの本堂


 中宮寺のご本尊は、いわずと知れた「如意輪観音」(章くんが学生の頃は弥勒菩薩と伝えられていましたが…)。
 東洋のモナリザと称される微笑(ほほえみ)を湛えられ、今日もこの世の衆生の救済にお心を砕いていただいているようでありました。


 法隆寺を出て車に乗り、寺の東の畑中の道を「法輪寺」へと向かいました。
 雨はまだ降り続いています。歩くには、ちょっと強すぎる雨脚でした。


     
雨に煙る「法輪寺三重塔」【拡大】 →





 「発起寺(ほうきじ)」までの700mの往復を、雨は相変わらず降りつづいていましたが、傘をさして歩いていくことにしました。
 道端の花々が色とりどりに咲き乱れ、周りの里山の新緑が目に鮮やかでした。


← 発起寺三重塔(三重塔としては日本最古、国宝)


 聖徳太子が斑鳩の地を馬で駆けた飛鳥時代は、日本が大化の改新から律令国家へと国家の体裁を整えるための準備期でありました。また、法興寺(飛鳥寺)、百済大寺、そしてこの法隆寺(斑鳩寺)、さらに京都の広隆寺などが建立され、揺籃期の生き生きとした仏教文化が花開いて、後世の白鳳・天平文化へとつづく時期でもありました。
 斑鳩の里を散策するときこころが和むのは聖徳太子の遺徳を感じるからであり、こころが沸き立つのは日本が興るあのころの息吹を呼吸することができるからなのでしょう。


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