【167】 薬師寺唐招提寺      2009.06.14


 薬師寺の駐車場に着いたのは、午後3時を少し回った頃でした。


         車を置いて山門まで歩く道沿いに、
           萩が紅色の花を咲かせていました →



 【それぞれの写真をクリックすると、拡大写真にリンクします】

  


← 中門から、金堂をのぞく

 
 
 
 
白鳳伽藍
  国宝
  東塔 →





 薬師寺といえば「東塔」でしょう。天武天皇の発願(680)により建立された薬師寺にあって、唯一、創建当時から現存している建物で、1300年の悠久の時を重ねてきた歴史を、その姿から感じることができます。
 その東塔が、この夏から修理のための調査が行われ、その後、来年の晩秋頃から約10年間、解体修理に入ると聞きました。これは、今のうちに一度訪ねておかなければと思い、唐招提寺のお屋根も、修理完成から拝観しておらず、今日、走っていった次第です。
 (薬師寺東塔は、調査が一段落する、平成22年春頃〜秋頃は、通常に拝観できるそうです)


 行く秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲


 ご存知、佐々木信綱の作で、薬師寺の秋を詠った歌ですが、大和の国・薬師寺・三重塔と視点を絞ってきて、その上に浮かぶ雲に、繰り返されてきた惜秋の思いを馳せ、悠久の歴史を語っています。


 この東塔は三重塔。
その上部に立つのが相輪[そうりん]で、更にその先端に「水煙」が祀られています。
 水煙には、花を蒔き、衣を翻し、祈りを捧げる24人の飛天が透かし彫りされていますが、堀 辰雄の「大和路」に描かれていたように、彼女たちが天駆けながら奏でる笛の音は、今日も御仏への賛歌として晴れ渡った大空へと響き渡っていることでしょう。
 

← 1981年に再建された西塔


 旧塔は享禄元年(1528年)に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法をもつて再建されたものです。
 一見すると東塔に比べ若干高く見えますが、これは1300年の年月の内に、東塔に材木の撓みと基礎の沈下が起きたためであり、再建された西塔はそれを見越して、若干高く建てられているとのことです。西塔の再建に当たった文化財保存技術者西岡常一棟梁は、「500年後には西塔も東塔と同じ高さに落ち着く計算だ」と述べています。

 


        
1976年に再建された金堂 →


 ご本尊は、奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる薬師三尊像を安置しています。20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代末期仮再建の金堂、講堂がわびしく建ち、創建当時の華麗な伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけでした。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤師が中心となって白鳳伽藍復興事業が進められ、金堂をはじめ西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建されました。
 旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、外観を変えながらも現存しています。


 
主要伽藍から道を隔てた北側にある玄奘三蔵館は1991年に建てられたもので、西遊記でおなじみの玄奘三蔵を祀っています。日本画家平山郁夫氏が30年をかけて制作したという、縦2.2メートル、長さが49メートル(13枚の合計)からなる「大唐西域壁画」が展示されています。
 
  

 時刻は午後3時45分。入山は4時30分までだという「唐招提寺」へと急ぎました。


← 「唐招提寺」山門。


 太い大きな支柱は、エンタシスの膨らみにギリシャ文明の影響を伝えて、緩やかな曲線を描いていました。


  
  
 唐招提寺では、平成12(2000)年より、奈良県教育委員会の主導で「金堂平成大修理事業」がはじまりました。完成まで、10年を要する計画です。


     大屋根の改修がなった「金堂」。
      奈良時代の金堂建築としては
      現存唯一のものです。    →






← 唐招提寺の「戒壇」


 さすがに、日本仏教界へ戒律を授ける導師「伝戒の師」として招請された鑑真の寺の戒壇です。石の上に刻まれた、雨水が流れたあとの黒ずみが、歴史を物語っています。


 天平5(733)年、遣唐使とともに渡唐した4人の留学僧の普照、栄叡、玄朗、戒融は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていました。彼らの要請を受けた鑑真は渡日を承諾しますが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗。5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡が命を落とし、自らは失明するという苦難を味わいました。
 それでも渡日を諦めなかった鑑真は、753年、6回目の渡航でようやく来日に成功しますが、この時も国禁を犯し日本の遣唐使船に便乗しての渡航でした。鑑真は当時すでに66歳になっていました。
 井上 靖の小説「天平の甍」を原作とした映画では、栄叡を中村嘉葎雄が、鑑真を田村高廣が演じていて、僕はこの映画を覚えています。
 鑑真が暴風に遭いながらも鹿児島にたどり着いたのは、鑑真が渡日を決意して十二年目、栄叡・普照らが渡唐してから二十年目でした。中国に眠る栄叡、妻帯して暮す玄朗、仏陀の真理を求めて旅立っていった戒融、そしていま、普照は鑒真和上と奈良の地を踏んでいます。歳月のうちに母の姿はなく、かつての許婚者であった平郡郎女は嫁いで子供をもうけたていますが、彼の帰還を喜んでくれています。
 天平宝浩3年、鑒真和上は西京に唐招提寺を建立、全国から学従が集り、講律、受戒が行なわれている場面を写して、映画は終わりました。


← 御影堂。教科書に載ってる「鑑真和上像」は、
 このお堂に安置されています。



 さらに、この御影堂の東隣りに、周りを池に囲まれたお墓がありました。鑑真和上は、ここに眠ってみえるのです。
 墓前に手を合わせると、改めて和上が味わわれた苦難とそれを越えられた鉄の意志を感じさせられました。

 
 今年の秋、唐招提寺は平成大修理を完成して、落慶法要を営む予定とのことです。



 
 帰りは、また薬師寺を通り抜けて、駐車場へ戻らなければなりません。でも、その帰り道に立ち寄った薬師寺「東院堂
」で、素晴らしい御仏に出会うことになります。
 聖観音像とその周囲を守る四天王ですが、写真を撮るわけにもいかず、薬師寺のこのページでどうぞご覧ください。





 午後5時前。修学旅行の生徒たちが、引率の先生に導かれて帰っていきました。
 修学旅行に訪れた地へは、大人になってからも思い出に魅かれて足を運ぶといいます。あの子達のうちの何人かは、また何年後か…何十年後かにこの寺を訪れ、塔の上に浮かぶ雲を見ることでしょう。
 そのとき、塔の上の飛天たちは、今日と変わらぬ穏やかさで天上の音楽を奏でているでしょうか。


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