【2-2】 高野山 金剛峰寺をたずねて  ー空海の夢はるかー      (2002.06.03)
   
壇上伽藍の中心 根本大塔


 「空海の風景」(司馬遼太郎 中央公論社)を読んで、 無性に高野山を見たくなった。真言密教の聖地として秘法を守り、隔世の秘境に聳える大伽藍…、1200年の遥かな時を越えて、空海の夢を伝える金剛峰寺…。
 先週、やっと読み終えた「空海の風景」の記述によれば、真言密教の修験の地を捜し求めて高野の山深くにたどり着いた空海に、土地の祭神が、「山頂は平坦にして、水豊かに東へ流る。昼は常に奇雲たなびき、夜は霊光を発する」と告げて導いたという地である。中世末期の最盛期の頃には燦然たる宗教都市を形成した高野山…。そう思うと無性に見たくなって、31日金曜日の夜中、一度は布団に入ったのだが、午前1時45分にガバと飛び起きて、車に乗り込んだ。
 名阪国道を天理まで走り、国道24号線に乗り換えて橋本市へ向かう。途中、五条市で市内を走らせないようにか、郊外を迂回する県道方面へ誘導するように出ていた「和歌山・橋本→」の矢印に従って曲がったところ、途中で案内板が表示されなくなって、道に迷ってしまった。国土交通省の担当官の頭には地図がないのか。案内板に従って行けば目的地に着くように、最後まで指示するのが責任であろうに。アメリカの道路案内板は、初めてのものにも大変わかりやすかったのと比べて、日本の道路行政の稚拙さが残念であった。
 それでも夜中の24号線はとても走りやすく、途中、天理で30分間の休憩を挟んで、橋本市に着いたのは4時30分。朝もやの中、町がようやく起き出そうかという時刻であった。
 橋本市は、まだ独身の頃だったから30年ほど前に、「橋本CC」へゴルフに来たことがある。橋本CCは、当時、三菱ギャランのトーナメントが開催されていた有名なコースだったが、そのアップダウンの凄さに難関コースの思いを強くした。その夜に泊った「紀の国苑」という旅館で、「芸子さん、呼んでくれる」と頼んだら「橋本には居らんのです」というので、「じゃぁ、和歌山から呼んでよ」と頼んで、タクシーで駆けつけてくれたお姐さんに、『潮の岬は男の岬、沖で○○の虹が立つ。わたしゃ紀州の串本育ち、しょらさん(地元で「愛しい人」「大切な人」の意味) 舟歌 胸焦がす』という歌を教えてもらった。題名と○○の部分は忘れてしまったけれど…。

 橋本から高野山までは国道370から480号線を乗り継いで50キロ足らず。あと一息である。ところがこれが遠い!。山中の左折右折の続くつづら折の道で、延々と50分もかかってしまった。


← 九度山町に入った頃、ようやくあたりが明るくなってきた。

  



 5時30分、あまりに続くくねくね道に、「ええかげんにせいよ…」と左へ大曲りのカーブをグイと曲がったとたん、赤塗りのとてつもなく大きな門が目に飛び込んできた。高野山の西の端に聳え立つ「大門(だいもん)」で、宗教都市「高野山」はここから弘法大師の御廟所「奥の院」までの4kmの境内地に、大塔伽藍と117寺、そしてみやげ物店・食堂・学校・民家などが立ち並ぶ。高野山町は、人々の暮らしの全てが境内で営まれる寺内町である。

山門の間から寺内町を 山門前の案内板 まだ目覚めない寺内町

 まだ6時前。それでもお坊さんたちの朝は早く、寺院の庭を掃く人たちの姿がチラホラ見える。でも、拝観は8時30分からなので、観光客は誰もいなくて、人影のない境内地を心ゆくままに散策することができた。
 が、一つの堂塔を拝してから次の伽藍へは車で行かねばならない。大門から金堂・根本大塔までは900m、そこから総本山金剛峰寺までは1100m、さらに奥の院まで1000mで、その道筋にみやげもの屋や食堂などが並んでいる。それぞれの拠点の前に駐車場がある。


山門から金剛峰寺までの間の町中に、多くの伽藍が点在している ↓
女人堂 根本大塔と御影堂の間から
金堂をパチリ
愛染堂
壇上伽藍の池 大師教会 六時の鐘


 金剛峰寺は、思いのほかこじんまりしたたたずまいであった。遠く平安の昔に、空海が浄財を募って建立し整備を重ねたというこの寺は、官寺として国家が造営した東大寺や延暦寺とは成立の背景が違う。むしろ、当時の大寺のほとんどが都にあって、時の政治と密接につながっていたのに対して、俗化を嫌い、修行の純粋を求めた空海の志が、この寺のたたずまいであるといわねばなるまい。
唐招提寺への階段
金剛峰寺の山門へ登る階段 山門 山門を内側から
金剛峰寺を左側から 金剛峰寺の正面 金剛峰寺を右側から
    

 いや、この寺でさえも、豊臣秀吉が亡母の供養のために建てた清巌寺という母体であって、明治2年に改称されたものという。拝観しているときにはこの疑問に気づかずに、坊さんに尋ねることもせずに帰ってきてしまったが、空海の建てた金剛峰寺は草堂のたぐいのものであったのかもしれない。むしろその方が、密教を極めるものとしての空海の覚悟が伝わってくるような気がする。


 大門・金堂・金剛峰寺と早朝の境内を巡り歩いて、奥の院の駐車場に着いたのが7時30分。拝観の始まる8時30分まで、ちょっと寝るかと木陰に停めた車の中で仮眠…。つい寝過ごして9時になってしまった。いつの間にか、あたりは乗用車・観光バスがびっしりと停まっている。
 寝ぼけ眼をこすって、弘法大師御廟所「奥の院」へ向かった。駐車場から御廟所まではおよそ1.2kmの参道が続く。直径が2〜3mほどの杉の大木が並ぶ道の両側に、延々と墓石が続く。弘法大師のひざの中で、来世を過ごそうと夢見る人々の墓であろうか。道の両側に筋状に続くだけでなく、左右の杉林の奥深くに大きく広がって墓石が林立しているのである。
フクスケくん    

 墓石を見ながら歩いていくのが、また面白い。著名な会社の墓所も多く、従業員慰霊碑と記名された碑石と、その横に社長家の墓がちゃっかりと並んでいる会社もある。新明和工業の墓石はロケットだし、福助株式会社のそれはフクスケが座っている。

入口近くの墓は新しく、墓石も鮮明だ 英霊殿
木々の間に
たくさんの
お墓が
ならんでいる


 英霊殿を過ぎる頃からは、杉木立の中の道となり、その両側の木々の間にたくさんの墓石が見え隠れしている。
 10〜50坪ほどの広い敷地に大きな墓石は、大名諸家のものだ。筑前黒田家とか奥州伊達家とか立て札がある。豊臣家墓所と書かれた一角があり、豊臣秀吉の墓を見つけた。江戸時代には徳川家も手厚い庇護をこの山に加えていて、3代将軍家光が10年の歳月をかけて徳川霊台なる壮麗な御堂を建て、家康・秀忠の霊を祭っている。
木立の間の参道 筑前 黒田家之墓 豊臣家墓所


 さまざまな宗派の開祖の墓があったのも興味深かった。親鸞聖人とか浄土宗開基上人の墓所などと書かれている。
 陸軍第15連帯慰霊碑とかレイテ島玉砕者鎮魂塔などと記された墓標も随所に見られた。

  
← 納経所

              御廟橋たもとの水掛地蔵

    

 御廟橋を渡ると、この墓所の一番奥に、この地で大師が入定(にゅうじょう)されたという真言宗の聖地「御廟所」がある。御廟前の拝堂には「貧者の一灯、長者の万灯」と言われる、全国から献ぜられた数多の灯篭が火を点して輝いていた。
 この灯篭に油を注ぎに来ていた若い僧侶に声を掛けてみた。「高野山では、お大師さんはご入定ということで、今も生きているままのお世話をされていると聞きますが、そうなのですか」。『真言密教の僧侶には、これが僧侶かと思われるほど、常人よりもだらしなく思えるものもいる。私が会った東寺の僧は、僧侶でなければ生きていけないと思われるほど、朝から酒を飲み、一日中寝っ転がっていて、雨を降らす修行をしているといっていた』と司馬遼太郎氏は「空海の風景」に書いていたが、私の問いに対してこの若い僧は油を注ぐ手を休めることもなく、「はい、朝昼晩のお食事はお供えしていますが、実際には生きておられるということではございませんので…」と明快に答えてくれた。


 奥の院を後にして、金剛峰寺の拝観に戻った。この時間になるとたくさんの人が訪れていて、団体で参拝している人たちも多い。
 高野山の町中の何々院という末寺が信者を持っていて、大師講を企画し、全国から参拝の人を募るのだ。院はそれぞれに宿坊を備えていて、参拝客を宿泊させ、1泊2食をつけて何がしかの宿代をとるという旅館のような仕事もしているらしい。そういえばこの山内では、ホテル・旅館のたぐいのものは見かけなかった。
 その参拝客が総本山の金剛峰寺を参拝するというと、宿泊したお寺の住職などが付き添う。団体客は本山の僧侶の解説つきで寺内を見て回るのだが、一般の参拝客が入れないようなところも「ここは、ふつうは入れないのですが…」などと言いながら少し案内したりして、付き添いの寺の住職の顔を立てたりしている。私は、その団体客にまぎれ込んで、金剛峰寺の皇室の勅使が来られたときにのみ使うという開かずの間に入れてもらってきた。


← 金剛峰寺の中庭


 今考えてみると、金剛峰寺のご本尊は何だったのだろう。真言密教は大日如来が信仰の中心だから、ご本尊として安置されているのだろうと思うけれど、どこもかしこもお大師さんの軸や像が印象に残っていて、ご本尊の記憶がまるでないのである。

                 
 最後に立ち寄った霊宝館は耐火耐震のコンクリート作りで、金剛峰寺と各寺の秘法が展示され、さすがにたくさんの仏様にお目にかかることができた。
 が、ここでも印象に残っているのは、少し左を向いた弘法大師坐像で、目線の正面に立つとその眼光の鋭さに射抜かれて、身のすくむ思いがした。
 写しであったが「三教指帰」が展示されていて、19歳の頃の空海の筆に触れることができた。


                    霊宝館 →


 霊宝館を出たのが午後2時半。高野山の堂塔に別れを告げて、新緑のまぶしい山道をたどった。高野山の南50km、竜神温泉を目指してのドライブである。高野山・竜神スカイライン
 山中をぬって走る「高野龍神スカイライン」。車窓からの展望は山々がどこまでも重なり合って、高野の地は山深いことを思い知らされる。
 途中の茶屋で、山掛けそばを食べた。この道の左手の谷に、野迫川温泉という出で湯があると聞き、林道を下る。車がやっと1台通れる幅の道で、上りは車が吠え、下りは転げ落ちるよう。
 25分ほど下った川沿いに、1軒の温泉(野迫川温泉)があった。湯量は豊かで、入ったときは誰も居なくて、ひなびた温泉気分を満喫していたところ、10分ほどするとどやどやと人が増えて、近くでの作業を終えた電気工事会社の人たち、リュックを持った山登りの帰りのグループ、高校生ぐらいの男の子が4人と、瞬く間に10人ほどになって満杯になってしまった。地元の人たちも、毎日通っているらしい人気の湯なのである。
 ぽかぽかとした気分でまた山道をとって返し、竜神温泉を目指す。この山道、曲がりくねっていてやはりずいぶん時間がかかり、知り合いが、数年前に行ったことがあって、車に酔ったしたので二度と行かん…と話していたのもむべないことかなと思った。


 竜神温泉へ着いたのは午後5時。日高川の河岸に沿って、30軒ほどの温泉宿が軒を連ねている。ここからは、西へ山道をぬって紀伊田辺・和歌山へ出るにも、東へ山を超えて新宮・熊野に出るにも、3〜4時間はかかる。覚悟を決めて、宿をとることにした。
 龍神温泉郷は日高川に沿って温泉宿が並んでいる。国道371号線は温泉街を通らずに抜けられるよう、川の右岸をトンネルが掘られて新しい道路がついているが、湯煙が見え始めるとすぐ、川を渡って旧道へ渡ると、宿が軒を並べている。
 何軒かの宿を表から眺めながら通り過ぎ、温泉街がやがて尽きようかというところに、「竜神温泉湯元」と書かれた表示があり、真新しい共同浴場が立てられていた。その隣りに旅館があった。「下屋敷」という名前は、温泉街の下手に位置するからだろうか。「空いてますか」と入っていくと、「はい、どうぞ」とフロントへ案内してくれた。純和装のロビーが、何とも奥ゆかしい。
 「日本三美人の湯」として有名な龍神温泉は、弘法大師が難陀龍王の夢のお告げによって、約1300年前に開いたところからこの名がついたとされている。竜神の湯は、湯温も高くて水量も豊か。温泉としては申し分ないが、しかし、あまりに遠い。
 明朝はゆっくり目に起きて、紀伊田辺から和歌山市に出ることにしよう。

               
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