【204】 ポンペイ展  名古屋市博物館   2010.08.25(水)


 テレビが、「今日午前中、8万人目の来場者が…」と伝えている。名古屋市博物館で開催中の「ポンペイ展」もあと5日になった。最終日に近づくほど混雑するだろうから、思い立ったが吉日と出かけた。
 
              名古屋市博物館の鍔時計 →




 ポンペイは、イタリアのローマから南へ260km、今は地中海の水位が下がり、海岸線が後退しているので、内陸部に位置しているが、ローマの属州として繁栄していた当時は、人口2万人を擁する港湾商業都市であった。
 西暦79年8月24日、町の北西 10キロメートルにあるヴェスヴィオス火山が突如大噴火。押し寄せた火砕流や有毒ガスがポンペイの人々の命を次々と奪っていった。降り注ぐ火山灰は、僅か1日足らずで5メートルの深さに積もり、町全体を覆い隠した。








   ヴェスヴィオス火山の火山灰は北西
  からの風に乗り、南東に位置していた
  ポンペイを飲み込んだ。     →
   (地図はウィキペディアより)



 ポンペイが人々にその姿を再び現したのは18世紀半ば、以降、今に至るまで発掘が続けられている。地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕した。
 その美しさの秘密は、実は町に降り積もった火山灰にあった。火山灰には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収する性質があった。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。


        再建されたポンペイのフォルム →
              (絵ハガキから)
 後ろに見える、ヴェスヴィオス火山が噴火した。


← ウェヌス像 (絵ハガキから)


 パロス島(ギリシア)産大理石、彩色の痕跡、前1世紀 
 高さ90.4cm (台座を含まない)、最大幅43.5cm、奥行27.0cm
 ポンペイ、I, 2, 17、中庭に面した壁がん
 ナポリ国立考古学博物館蔵



 ウェヌスは、ヴィーナスと英語読みしている愛と美の女神。ポンペイでは、このウェヌスとヘルクレス、ディオニュソスが3守護神とされていた。この《ウェヌス像》では、着衣の部分にほどこされた彩色が保存されていて、往時の華やかさを想い起こさせてくれる。


          剣闘士の小像(絵ハガキから) →


 この《剣闘士の小像》は、素焼で作られたもの。当時、年の初めの縁起物として、こうした像を贈る習わしが普及していた…とある。








← イルカのモザイク(絵ハガキから)


  白色石灰岩と黒色大理石のモザイク片が埋められて
 イルカが描かれている。浴室の床に敷いたものか。
 158.0×232.0cm 



 住居には中庭や庭園があり、その周囲には食堂や応接空間、寝室などが配置され、彼らは中庭や庭園を眺めて来訪者と歓談したり、くつろいだりしていた。
 食堂には宴会で使用する食事用のベッドが(当時の宴会は寝そべって飲食し会話した)、応接空間にはテーブルやいす、金庫などの豪華な調度品が置かれていて、夜には優美な装飾の施されたランプや燭台が各部屋を灯していた。
 また、一部の富裕層の住宅には水道が引かれ、個人用の給湯付浴槽も備えられていた。


  「イナクスとイオの家」出土の銀食器群より →
              (絵ハガキから)



 「イクナスとイオの家」から出土した銀食器は、多くの種類の器が4客1セットで発見された。
 「饗宴」は、富裕層にとって自らの財力を誇示する場であった。その饗宴の場には、当時の最高級の工芸品といってよい食器が集められていた。器の表面には、バラやツタなどの草花、鳥や動物などが華麗に表現されている。


 豊かな生活を楽しんでいたポンペイに、突如、最後の日が訪れる。
 ポンペイを一瞬にして火山灰の下に埋もれさせたヴェスビオス火山は、1944年にサン・セバスティアーノ村を埋没させた噴火を最後に、小休止に入っている。


← カール・ブリューロフ(ロシア)作、
 「ポンペイ最後の日」(1830-1833年)

 (ウィキペディアより)


 1880年には山麓から火口まで登山電車(フニコラーレ)が開通した。これを記念して作られた歌(いわゆるコマーシャルソング)がナポリ民謡『フニクリ・フニクラ』である。この登山電車は前述の1944年の噴火で破壊されたが、のち1990年に復旧・再開された。


 今、塩野七生著「ローマ人の物語」を読んでいることもあって、1世紀の後半に突如として火山灰に埋もれ、それゆえに今日まで当時の様子がそのまま伝えられているというポンペイ展を見てみたかったのである。
 ヴェスヴィオス火山が噴火した紀元79年は、日本で言えば景行天皇の御世だが、まだ神話の時代で景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと…。
 日本では、日本武尊が活躍し、八岐大蛇(やまたのおろち)か跋扈していた時代、ローマ世界では上下水道が町に敷かれ、劇場や公共浴場等を楽しむことのできる快適な都市生活が築かれていたのである。
 古代ローマ帝国は、アウグストゥスが実権を握った紀元前27年から五賢帝の時代に繁栄を誇り、98年に帝位についたトラヤヌス帝の時代には、ほぼヨーロッパ全土を支配下に置いた。現代のヨーロッパ世界の礎ともいえる古代ローマの繁栄が、名古屋市博物館に展示されていたのである。

 
 
 
 お昼過ぎ、名古屋高島屋の13階「とり五轍(ごてつ)」にあがって、評判の親子丼を食べた。


 東京人形町「玉ひで」のプロデュースによるという親子丼 →


 東京「玉ひで」は親子丼発祥の店と言われていて、かの池波正太郎も常連で、ベストセラーシリーズの鬼平犯科帳にも「軍鶏鍋屋五鉄」の名前で登場する超有名店である。この店の「五轍」も、それをゆかりとしたものだ。
 お昼を過ぎていて、店には客が2~3組…。待つほどもなく運ばれてきた一膳は、これぞ親子丼と言うべき一品であった。
 お椀の蓋を開ける、とみりんの良い香りがふわーっと辺りに拡がり、椀の中には照りが増した黄金色に輝く卵の海に、名古屋コーチンが鎮座している。ちょっと甘めの割り下とトロットロの卵とのバランスが程好い…。やわらかく、それでいてしっかりと火の通っている安定感が口の中に広がる。名古屋コーチンのコリコリとした歯ざわりも心地よく、程好い鶏肉の旨味が香りよく馴染む。
 

 腹ごしらえも整った後は、閉店セールの「名古屋駅前マツザカヤ」へ繰り出すことになる!


  物見遊山トッブへ