【273】  四人の美女 - 法隆寺訪問記 -
        2014.05.18

 法隆寺へ行ってきた。午後2時ごろに到着。門前のみやげ物店に駐車させてもらって、早速に南大門(国宝)をくぐり、金堂、五重塔が立ち並ぶ西院伽藍へと向かう。
 「南大門」は、
法隆寺の玄関にあたる総門。創建時のものは、永享7(1435)年に焼失し、永享10(1438)年(室町時代)に現在の門が再建されたとある。

 両側に土塀の並ぶ参道の正面が「中門」(もちろん国宝)。深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものだ。

            
 西院伽藍の入り口 「中門」→

 中央に柱をしつらえたこの門を見ると、梅原 猛の「隠された十字架」を思い出すが、門の左右に立つ金剛力士像(奈良時代)は、日本に残る最古のものだとか。それにしても、その形相の恐ろしいこと!

 法隆寺の伽藍、御物は、ほとんどが国宝か重文である。拝観料を納めて足を踏み入れた回廊が、すでに国宝。目の前に並ぶ、五重塔・金堂・講堂など、すべて国宝だ。
 五重塔の一階の塑像群(奈良時代)を南東北西と一巡して拝観し、金堂では釈迦三尊像の前で暫し屹立…。
 伽藍や仏像については、今さら繰り返すまでもないので省略させてもらうとして、このあとは聖徳太子の尊像(平安末期)を御本尊として安置する聖護院(国宝)に上がったのち、大宝蔵院(百済観音堂)へと向かう。


 大宝蔵院にはおびただしい数の宝物が収められているが、足を止めたのは「推古天皇の御物の玉虫厨子(飛鳥時代)」「金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)」そして「百済観音(飛鳥時代)」。
  さらに…、5年ぶりの訪問だが、いつ訪れてもこの寺には発見がある。今日は「夢違観音」像のふくよかなやさしさに、今さらながら1400年という歳月を越えて来られた、信仰というものの奥深さを知らされた思いであった。

← 悪い夢を見た時に この観音様にお願いをすると
 良い夢に取り替えてくださるという。




    
大宝蔵院(百済観音堂)から西院伽藍を→

 『
法隆寺では、百済観音の安住の殿堂をお造りすることが永年の悲願でありました。その夢がついに平成10年秋に実現いたしました。それがこの百済観音堂であります』とある。
 朱塗りの柱に白塀が真新しい宝物殿は、かつて金堂消失を経験している法隆寺にあって、地震や火災から寺宝を守るのに、万全の備えが施されているのだろう。

 東大門(国宝)をくぐって東院伽藍へ…。そうとは知らずに訪問したのだが、夢殿に安置されている救世観音が、今日18日まで春季の御開帳で、黄金に輝くそのお姿を拝んできた。

 さらに、その東の中宮寺に向かい、「如意輪観音」に拝謁。この観音様は、前回に訪問したときには弥勒だと説明を受け、「如意輪観音じゃないの?」と訊ねたら、「その次第はこの本に記してあります」と奈良の仏像を解説している写真集を見せられた記憶がある。
 今日は「如意輪観音」との説明に、「一時期、弥勒と言っていましたよね」と訊ねてみた。「半跏思惟像という形が広隆寺の弥勒像と同じなので、学会で弥勒といわれたときがあったのです。当寺では、ずっと如意輪観音と申して参りました」との説明を受け、「いやぁ、安心しました」と申し上げてきた。

 さわやかな初夏…、夢違観音、百済観音、救世観音、如意輪観音と、日本の古代史を彩る四大美人にお目にかかれて、至福の一日であった。

 家に帰って、録り溜めていたビデオを見たら、ちょうど今朝の「NHK日曜美術館」で、明治から昭和のはじめにかけ、失われゆく古い仏画をありのままに模写し、後世に伝えようと、5千尊もの作品を残した仏画師・鈴木空如(1873~1946)の特集を放映していた。空如の最大の画業は、法隆寺金堂壁画12面の原寸大の模写を単独で生涯三度も行っていることだとされる。
 昭和24年の火災で焼失した壁画の復元に、彼の模写は大変に貴重な役割を果たしたことは言うまでもない。画壇とは一切かかわりを持たず、展覧会に出品することもしなかったゆえ、その名はほとんど知られていない空如の偉業を、法隆寺壁画の復元を通して改めて紹介しようという一編であった。
 ただ、日清戦争に出征、九死に一生を得た空如であることを紹介したのち、大東亜戦争の終戦に際し、「日本軍国主義が滅びて万歳…」と記した彼の書き付けをアップにするところに、NHKの浅ましさが見え隠れする(苦笑)。
 そういえば、金堂の壁画を見てくるのを忘れた。


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