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金沢紀行  その① 九頭竜ダム 永平寺    2014.06.13-15

    【写真にポインターを合わせたとき、手の形に変わったら、大きい写真にリンクしています】

 粟津温泉「法師」の格安宿泊券をグルーポンで手に入れた。「法師」には15年ほど前に、ある会合で宿泊したことがあり、そのときは会から宿泊費が出たので4万円ほどの部屋に泊まったのだが、今回は2万円ほどの宿泊プランを半額で提供するというのを見つけたものだ。世界最古の旅館としてギネスブックにも登録された「法師」の紹介は、のちの宿泊報告にゆずるとして、さあ出発しよう。

     
午前7時50分、津インターを上りました。
            「経が峰」ともしばしのお別れです。→



← 午前9時、名神高速から
 「東海北陸道」へと
 入ります。


 東海北陸道へ経路をとるのは、今まで高山から平湯峠を越えて上高地などを訪ねるために、何度となく行き交った国道158号を、今日は美濃白鳥から油坂峠を越えて九頭竜ダムに寄り、福井市へと下る計画だからだ。

  東海北陸道「美濃白鳥」から西へ、
   自動車専用道路が建設されています。→


 







 ↑ 建設中の道路は中部縦貫道の一部で(油坂峠道路とも呼ばれています)、未完の現在は開通部分を
  無料で公開しています。

 「中部縦貫道」とは、長野県松本市を起点とし、岐阜県高山市の飛騨清見ジャンクション(JCT)で東海北陸自動車道に接続、同道を経たのち白鳥JCTで分岐し、福井県福井市に至る。現在は、東海北陸自動車道との重複区間は高速自動車国道、越坂トンネル関連区間は国道416号、それ以外の区間は国道158号に指定されている。
 以前は県境区間の国道158号安房峠および油坂第三トンネルまでの郡上市側は冬季になると閉鎖されていたが、安房峠道路(安房トンネル)および油坂峠道路(油坂第1〜3トンネル)の完成により、年間を通して長野県や福井県と岐阜県飛騨地方との相互通行が可能になった。
 全線開通した場合は、北陸自動車道から当道を経て長野自動車道・中央自動車道へ至る、福井県と関東地方(特に東京都)を結ぶ高速自動車交通の最短ルートを成す。

 
高速道路として開通している部分は、結構きれいな道路です→

← 油坂トンネル

 かつては九十九折のカーブが続くたいへんな難所だったけれど、今は油坂第1〜3トンネルを組み合わせて峠を登っている。それでもトンネルはヘアピンカーブだ。

 「油坂峠」は、岐阜県側から峠までの標高差が約420mと険しく、峠を上る道で旅人がだらだらと油汗をかいたことから「油坂」と名づけられたという説がある。その険しさは、油坂峠道路の構造(ループ状の高架橋とトンネルを組み合わせることで勾配を出来るだけ緩和している)を見ても実感できる。
 冬季は雪かきをして車を通していたというが、峠(トンネル)道路の完成により、現在、冬季は完全通行止めとなっている。
   油坂峠をの下を抜ける「越美トンネル」を抜けると
    道は下り坂…。「福井県」の表示が見えました。 →









← 下ること10分、左手に九頭竜ダム湖が
 見えてきました



             
ダム湖の上流方向です。 →

 九頭竜ダムは、高さ128メートルのロックフィルダムで、洪水調節・発電を目的とする、国土交通省・電源開発(Jパワー)共同管理の多目的ダム(兼用工作物)である。





← 下流から振り返って撮りました。

 ダムは満水位から深さ4メートル、3,300万立方メートルを洪水調節容量として確保しており、伊勢湾台風相当の流入量1,500立方メートル毎秒の大洪水があっても、5分の1以下の270立方メートル毎秒を下流に放流するのみで対処できるという。

    午前11時15分、JR九頭竜線の終着駅
           「九頭竜湖駅」に着きました。→


 「九頭竜線」は、福井県福井市の越前花堂駅から福井県大野市の九頭竜湖駅に至るJR西日本の鉄道路線「越美北線」の愛称である。JRの旅客案内ではこの愛称が用いられている。
 「越美北線」は福井駅と岐阜県の美濃太田駅の間を結ぶ鉄道(越美線)の福井県側として建設されたが、「南線」の岐阜県側は現在長良川鉄道越美南線となっている。
 この駅舎に隣接して、道の駅「九頭竜」が設営されていた。食堂があり、昇竜まいたけ・スイートコーン・木工品などの地元特産品が販売されている。

← 玄関前に、恐竜県福井らしく、恐竜の親子がいる。

 福井県が恐竜で有名なのは、勝山市にある中生代の地層(手取層群)から恐竜の全身骨格が発掘されたからである。これがきっかけとなり、勝山市に「恐竜博物館」が建設された。展示内容の量・質共に極めて高く、日本における恐竜博物館の代表である。

 九頭竜川沿いに国道158号を下り、落ち全大野氏、勝山市を経て福井平野へと至る。程なく国道364号に交差して左折し、北側から「永平寺」へと向かった。

 
12時30分、永平寺着。門前の駐車場へ車を止めました。→

 ここまで、家を出てからコーヒーを飲んだだけ。『手打そば』の看板にひかれて、駐車場横の食堂に入った。

← にしんそばと、永平寺名物「胡麻豆腐」を頼みました。


 午後1時5分、通用門をくぐって、七堂伽藍へと足を踏み入れる。

 章くん、永平寺を訪れるのは5〜6回目である。先年、立松和平著「道元」を読んでからは初めての訪問だ。病を得てもなお道元が、修行の厳しさを求めて雪深い越前の山奥に修行の場を開いた永平寺…。都のきらびやかさから遠く離れた深山幽谷に建立した座禅の場…。その空気に、今一度触れてみたいということとともに、章くんには永平寺の御本尊に拝顔したという記憶がない。御本山はいかなる御仏であったか…、この目で確かめてみたいと思ったのである。

← 通用門。ここで拝観券を買う。

 大仏寺山の西側斜面の懸崖に建つ永平寺の伽藍は、急な勾配の斜面にそれぞれが立てられているので、各御堂は急な階段廊下で結ばれている。

                    
七堂伽藍を結ぶ階段廊下 →







← 永平寺の中心をなす「仏殿」
  (露出過多でちょっと見にくいですね)


 この御堂の中央の須弥壇には、章くんの念願の御本尊「釈迦牟尼佛」がおわし、両脇には弥勒仏・阿弥陀如来が祀られていて、現在・未来・過去の三世を表すとされている。


  緑深い境内の一番入り口にある、一般の
   人たちの納骨や供養を行なう「祠堂殿」 →


 境内を歩くと、多くの巨木や巨岩を目にするがそれらの一木一岩が、800年の歳月を物語っている。 









               
山頭火の句碑がありました ↓

 明治より昭和初期に生き、自由律俳句を沢山残した山頭火(種田山頭火)は、曹洞宗熊本報恩寺住職望月義庵師の得度を受け、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」と西日本を中心に各地行脚して、句作を続けた。独特のリズムで漂泊、生活、自然、心情を切り取った句は今も人々を魅了して止まない。
 山頭火は永平寺にも宿泊していて、「水音のたえずして 御仏とあり」→
「 てふてふひらひらいらかをこえた」、「生死の中の雪降りしきる」の3句の碑が建っている。

 永平寺は、道元が自ら身をもって示した、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を具現する道場であった。ちょうど訪問時に、寺のあちこちから木槌を打って合図しあう僧の姿を見ることができた。
 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢の明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」であるという。

 午後2時30分、永平寺を辞して粟津温泉「法師」へと向かう。 
                                     物見遊山トッブへ