◆ 奈良 桜井市 大神神社(おおみわじんじゃ) 参拝    (9.18)【物見遊山59】


 10日前に引いた風邪が長引いていて、まだ咳が抜けきらない。クーラーで体を冷やし続けているせいか、夏の風邪はなかなか治らない。9月11日の「唐招提寺 観月供仏会」を楽しみにしていたのだが、出かけられずに終わってしまった。大神神社 二の鳥居
 今日は名張で1件の用事を済ませ、咳き込みながら、久しぶりに奈良へ足を向けてみた。伊賀盆地から西へ、榛原・桜井を抜けて大阪へと延びる国道165号線の沿道には、室生寺や長谷寺などの名刹が点在する。この道を、途中、左へ折れれば吉野山〜明日香の里である。
 今日は、それらの名跡を通り抜けて、桜井市で右折すると程なくの「大神(おおみわ)神社」。大物主命を祭神とする、わが国最古の神社が目的である。


 天津神の大和豪族と国津神の出雲豪族との間の「国譲りの神事」は、日本古代史上の最大の謎である。両者は摂津・和泉のあたりを主戦場として、政権をかけた戦いを繰り返したことと思われるが、やがて大和朝廷が成立して、出雲の主である大国主はわが国最大の寺社である出雲大社に鎮魂される。
 このあたりの歴史を紐解けばロマンは限りなく膨らむが、今日は出雲神である大物主が大和の地に日本最古の神社として祀られていることに着目したい。
 この大神神社(三輪大社、三輪明神の呼称でも知られる)のパンフによると、『大国主神が自らの和魂を三輪山に鎮め、大物主神の御名をもってお祀りされたのが、当神社のはじまり』とある。とすれば、大物主は大国主の魂ということだ。
 大国主命はいろいろの名を持っていて、「日本書紀」の中には「大国主命、またの名を大物主神、国作大己貴命、葦原醜神、大国玉神、顕国玉神という」などとある。インドの神と融合して、大黒天とも呼ばれている。たくさんの名前を持つということは、バラエティに富んだ活躍をしていたということにもなろうが、我々を惑わす原因でもある。井沢元彦著「逆説の日本史」は、出雲の国の国主に大国主が決まったとき、その兄の大物主は国を出て、諸国の平定に向かったといい、二人は兄弟だとする。
 大国主命は日本の神さまのなかのスーパースターだ。縁結びの神さま(記紀神話の中でもたくさんの姫御子と契るからかな?)で、少彦名神とともに全国をめぐり、国土の保全と修理、農業技術の指導、温泉開発、病気治療と医薬の普及、禁厭の定めを制定といった、数々の業績を残したと伝えられている。
 大国主命の名は、国(出雲)を治める大王を意味している。大物主の「モノ」は霊威、霊格のことで、のちの悪しき「物化(もののけ)」の「もの」と共通するが、ここでは大きな力を持つ高い霊格をたたえる名だ。
 また、大穴牟遅や大己貴(いずれも「おおなむち」と読む)などの「チ」は自然神的霊威にあてられる音で「地」を意味し、「大地の王」であることを表している。大国主命は、大地主命の名も持つ。
 国玉(魂)は、国土の霊魂。醜男の「シコ」は、醜い男ではなく葦原のように野性的で力強い男の意味で、八千矛(やちほこ)は文字通り武力・軍事的なパワーを象徴する名である。
 大国主命が英雄神として語られるのは記紀神話や風土記のなかにおいてであり、それ以前はおそらく農耕民などが信仰する素朴な自然神拝殿だったのだろう。
 とすれば、大国主命は出雲を中心とする土着の人々を統率し、その生産や文化を司った指導者であり、大和朝廷を立てた人々は新しい文化を持って朝鮮半島から渡来した勢力であったのではないか。壮絶な戦いののち勝利した大和朝廷は、敗れた出雲豪族の主、大国主の魂を大物主として祭祀することによって、国の政(まつりごと)の安定を図った…というのが、大神神社を訪問しての私の推論である。


 二の鳥居前の駐車場に車を停めて、大きな鳥居をくぐり参道を進むと、正面の石畳の上に豪壮な茅葺き屋根の拝殿が見えてくる。お払いを受ける参拝者であろう、5人の家族連れが殿内に並び、紅白の上下に金色の髪飾りをつけた巫女さんから、紙垂(しで)を受け取っている。
 社域は三輪山全体に及び、域内には幾多の社殿を持つ。大物主の御霊のまします三輪山はなだらかな稜線が美しく、古来より神体山として斧鎌を入れずして、万葉集にも詠まれた「みわの神杉」が生い茂る。


  「大和は 国のまほろば  畳(たたな)づく青垣 山籠れる 大和し うるはし」  




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