【67】あじさい寺瑞雲山 本光寺(愛知県額田郡幸田町) 2004.06.17

本光寺
 1万坪の境内に15種1万株のあじさいが咲く、「瑞雲山本光寺」は、深溝松平氏の出身地である三河国額田郡深溝村(現在の愛知県幸田町付近)にあり、別名「あじさい寺」として有名である。本光寺2
 東名高速を岡崎ICで降りて南へ約30分。国道248号線が23号に合流して程なく、JR東海道線「三ヶ根駅」の東方300mに鎮座するのが、釈迦如来を本尊、運慶の作といわれる延命安産の地蔵菩薩と千牛観音菩薩、別命身代り観音を脇侍とする「本光寺」である。
 山門前の参道の両側にはあじさいが満開で、白い壁と朱塗りの山門との対比が、見事な景観をかもし出していた。
 寺内のあじさいは今が盛りで、境内のいたるところに植えられた株には、大きな花が咲き乱れている。色あいは、赤紫色の花が多い。本光寺3
 今日は、津を出るときは曇り空からときどき小雨がこぼれるといった空模様で、あじさいの鑑賞には相応しいかと思ってきたのだが、こちらに着いたら雨はほとんど上がって、時折り陽が射す天気になった。雨に濡れた紫陽花はみずみずしく、雲間からこぼれる陽光に照り映える花の色はひときわ鮮やかだ。


 徳川氏発祥の地は周知の通り三河であり、家康から8代前の親氏(ちかうじ)が、系譜に残る徳川氏の始祖である。
 親氏がこの地に流れ着いたときには乞食坊主の姿をしていて「徳阿弥」と名乗っていた。阿弥という名がついていたということは、室町期に流行した時宗の徒であったのだろう。念仏を唱えては食を乞うて諸国を回り、どこで果てる本光寺4ともわからない。
 わが国では、家系を30代も遡ることのできるものはよほどの名家と言える系譜で、逆に言えば、天皇家と出雲国造家を除けば、源平藤橘家も徳川家も、30代も遡るとどこの馬の骨ともわからない。
 諸国をめぐる遊行の者は諸国の情勢や風俗・奇説をよく知っていて、話し上手なものならば、土地の長者に気に入られると、二月も三月も逗留する。家の妻女や娘に悪さをするものもいて、土着のものには油断のならない存在でもあった。
本光寺のあじさい 「徳阿弥」はこの地の有力な土豪であった松平家と酒井家の両方の女子を孕ませ、両家の連合を形成するとともに、この地に根を下ろした。ここに、徳川家を支えた十四松平氏をはじめとする三河武士団が誕生する。

 徳川家と三河武士団の物語は汲めど尽きない面白さがあるが、その話は本光寺のがくあじさいまた他日に譲るとして、本光寺に戻ろう。


 本光寺は、徳川家を支えた深溝松平氏の菩提寺として、歴代藩主の菩提を弔ってきた。藩の転封とともに幾度か転地を繰り返し、この寺も埼玉県、豊橋、刈谷、福知山、宇都宮、島原などを転々としてきたが、こ本光寺5こ深溝にあ
ったこの寺は、その間ずっと末寺として存続していた。
 明治4年、深溝松平家が神式に改典した結果、広大な伽藍は一時的に学校(本光寺学校)に転用されたが、明治5年、本光寺31世維尹石厳大和尚らの努力によって復旧が図られ、現在に至っている。



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