◆ パールロードと安乗灯台                2004/7/14 【物見遊山68】
 
パールロード展望台から
パールロードが、平成15年4月1日から通行料が無料になり、ご来訪や周辺観光がより手軽で便利になりました。是非この機会にお越し下さい。』という案内を見て、走りに行った。
 鳥羽から阿児町鵜方までを、海沿いに結ぶこの道路は、昭和48年に完成。鳥羽今浦〜的矢間18.3q、的矢〜鵜方間5.5q、計23.8qの観光道路で、志摩半島のリアス式海岸や熊野灘から太平洋の大海原を見晴るかす、途中の眺望が素晴らしい。
 鳥羽の今浦から麻生浦大橋を渡るとパールロードへ入るのだが、この橋は完成した橋を船で運んできてここへ架けるという、当時としては画期的な工法で造ったと新聞で読んだ記憶がある。
 この橋ができるまでは、浦村や石鏡といった、鳥羽市内であり、市内からすぐそこに見えるこれらの地区は、わざわざ志摩の的矢を迂回して、自衛隊道路と呼ばれていた車が1台やっと通るほどの山間を切り開いた地道を辿り、片道1時間余をかけて行かなければならなかった。
 もっとも、地元の人は海上交通が当たり前のこの土地だから、道路がないといった不便さは歯牙にもかけていない。パールロードが完成する前のはるか昔、浦村にある鳥羽市立鏡浦小学校へ所用があった私は、地図を見ながら鳥羽市街を抜けて、夕刻にやっと浦村を望む今浦地区に至ったのだが、目の前に横たわっている生浦湾を対岸へ渡る橋がない。遊んでいた小学生に「君たち、学校へはどうやって行くんだ」と聞くと、「船!」という答え。この子たちの住む今浦地区は、対岸に見えている鏡浦小学校の校区であるが、学校へは渡し舟で通っていて、前にある生浦湾には1本の橋も架かっていない。それから鳥羽市内へ取って返し、的矢を回っていては、とても時間内に学校へはつかないので、やむなく他日に予定を振り替えた覚えがある。
 この時代のこの地域の人々にとっては、車より便利な船があるじゃないかといった感覚であったのだろうが、緊急を要する医療とか…台風などによる時化(しけ)とか…生活上の不便・不安は拭い切れず、それだけに昭和40年の道路の完成が待たれていたのである。通行料1350円は、生活道路としては高すぎる金額だが、地元の人には「特別通行証」が交付されて、無料か、ずいぶん廉価であったと思う。


 リアス式の入江に砕ける波の白さが美しい海岸線と、真っ青に広がる太平洋を一望の下に収めながら、海辺の高台を走るドライブウエイは続く。
 鳥羽展望台10分ほどで「鳥羽展望台」へ到着。まず、ソフトクリームを買って、なめながらあたりを散策する。
 駐車場から南へ徒歩5分の展望櫓からは、360度の眺望が楽しめる。北は鳥羽展望台の彼方に伊勢湾を、東は太平洋、南は志摩半島、そして西には鳥羽から伊勢の山々が連なっている。
 伊勢湾の入り口から太平洋を望む位置にあるこの展望台は、標高162mの箱田山の山頂一帯を切り開いて造られていて、250台を収容する広い駐車場と3箇所の展望台がある。


 メイン展望台の建物の中には、土産物店・売店などとともに、創作イタリアン「ビスタ・マーレ」が入っていて、地元伊勢志摩の海の幸をふんだんに使った料理を出している。一品料理1200〜3000円・ピザ1200〜1400円・パスタ980〜3000円といった価格で、コースは2000〜5000円、昼食メニュー1500〜5000円もそろっている。
 お昼を少し回っていて、軽く食事をしようと思いテーブルに着くと、大きなガラス窓の向こうに広がる風景は、もちろん青い空と夏の陽光にきらきらと輝く広い海…。
 「ヴィスタマーレ風手こね寿司セット」は、手こね寿司に海老や白身魚の揚げ物と茹で野菜が添えられている。タルタルソースのピクルス・タマネギ・パセリなど素材の香りがほのかに漂う。デザートとコーヒーもついて198でっかい雲と太平洋の水平線0円であった。

水平線がくっきりと…。地球は丸いぞッ!


 食事のあと、さらに南へ。志摩ロイヤルホテルを左に見て行き過ぎると、料金所のゲートが見えてきた。
 おじさんが顔を出して、「520円です」と言う。「えぇっ、タダになったんじゃなかったの」と聞くと、「それは鳥羽〜的矢間で、的矢〜鵜方間は有料だ」と言う。『くっそう、詐欺みたいなモンやな』と思いつつ、1000円札を出して480円のおつりをもらった。




 鵜方で降りて道を左へとり、安乗灯台を目指す。
 安乗灯台は、太平洋(熊野灘)に突き出た安乗崎の先端に立つ、白亜の灯台である。灯台は上から見て丸型のものが多いが、安乗灯台は全国でも珍しい四角形。
 この場所には、江戸時代には幕府直轄の灯明台があり、海岸線を行く船の安全航行を見守ってきたが、明治6年に八角形の木造の灯台が建築され、現在のものは昭和23年に建てられた3代目である。
 灯台の左手には的矢湾が広がり、有名な牡蠣の養殖や漁業が行われていて、航行する船も多く、安乗灯台の果たす役割は重大である。


 安乗灯台の傍らに、駆逐艦「春雨」の遭難慰霊碑がある。
 明治44年11月23日、日本帝国海軍駆逐艦「春雨」は、僚艦「磯波」「綾瀬」とともに横須賀軍港を出航、呉軍港を目指していていた。その夜、熊野灘で暴風雨に遭遇、避難のため的矢湾に向かったところ、24日午前0時ごろ、湾口の菅崎付近の暗礁に乗り上げて座礁、全乗組員64名中、指令大瀧道助中佐、艦長児玉健三郎大尉を含む44名が命を落とすという大惨事となった。
 このとき、長岡村相差(現、鳥羽市相差町)と安乗村(同、阿児町安乗)の村民は、嵐の中、総出で救助にあたり、男たちは嵐の海に船を出して遭難者を救い上げ、女たちは炊き出しや蘇生に懸命の努力を尽くした。
 今、湾口の岩礁の上に碑が建つ座礁地点は、菅崎から100mほどもない近さである。それでも、荒れ狂う嵐の海と夜の闇の深さには、海の男たちといえども為す術もなかったのだろうか。
 2隻の僚艦は沖合いで嵐をしのぎ、翌朝、岸近くで目にしたものは「春雨」の煙突4本のみと、航海記録に記している。安乗灯台


 今日は、はるかな水平線までをもはっきりと見渡すことのできる晴天…。夏の陽光を乱反射してキラキラ光る海の上には、真っ青な空が広がり、大きな白い雲が湧き上がっている。
 時にはたくさんの人命を飲み込んで、大きな惨事を引き起こした海を見下ろしながら、白亜の灯台は、今日も静かにたたずんでいた。足元の岩礁に寄せる波は清冽に白く、沖行く船を漂わせて、海はどこまでも穏やかである。


PS.
 安乗灯台は、木下慶介監督・原作・脚本の「喜びも悲しみも幾年月」(主演 佐田啓二、高峰秀子)の撮影舞台となったところ。
 日本各地の灯台に勤務してその灯を守り続ける灯台守の男を描いた感動の名作…。嵐の中、壊れた灯台を直すために手漕ぎボートで海に乗り出すシーンは怖いほどの迫力であった。
 長男危篤の電話を受けて、「どうせ助からないんじゃあ、行っても無駄だ」と仕事を選ぶ父(佐田)。電話口で泣き崩れる母(高峰)。「僕も灯台の光が好きだよ…。父さん遅いなあ…」とつぶやいて息を引き取る長男。また、海外に嫁ぐ娘の乗る船に、霧笛で気持ちを伝えようとする無器用な父…など、泣かされるシーン満載の逸品であった。
 全編に流れる灯台守の歌や、土地の祭り、食卓を囲んでの合唱は、一筋に生きる家族のぬくもりと絆の強さが伝わってくる。
 「部屋の真ん中に建ってる灯台なんてないよ。どこだって日本の端っこさ」なんて台詞は秀逸。



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