【77】 九州紀行(臼杵のふぐ中州の天草大王)その2      2005.1.21〜24


大分自動車道 雪で通行止め
 23日、今日は阿蘇山へ立ち寄り、熊本から九州自動車道を走って福岡へ出る予定である。目覚めると外は小雨。しかし、南国九州のことだから、阿蘇が冠雪、ましてや大分自動車道が雪のために終日通行止めになるとは思いもしなかった。
 朝食を済ませて、9時出発。この時点で、大分自動車道の通行止めはテレビで知っていたのだが、大分市内は小雨であり、天気予報は「雨のち晴れ、日中の気温は14℃」と報じていたので、雪はすぐに解けるだろうという感じで居た
 そこで、442号線を竹田まで行き、そこから57号で阿蘇へ登ろうと走り出したところ、大分市の郊外へでると野山は白く雪化粧をしている。時々、思い出したように降る雨に白いものが混じることはなくなっていたが、積もった雪が雨を含んでシャーベット状になっている。山手のほうから降りてきた対向車は、チェーンの音を響かせて行き違う。山へ入るほどに、雪は深い。
 20分ほど走って、阿蘇を断念。考えてみれば冬場には樹氷ができるという阿蘇である。里で積雪を見る今日のような日に、ノーマルタイヤの普通乗用車で行こうというのは無理な話であった。
 大分市内へ戻るも、大分自動車道は別府以西が依然として通行止め。そこで、高速道路を別府まで行き、あとは瀬戸内海沿いの国道10号線で北九州市に出て、福岡に向かうことにした。
 大分から西へ2〜30分も走れば、別府である。大分自動車道は、市内から遠く離れたかなり高い山の中を走別府 民家から湯煙りがのぼっているっている。それで、少しの雨にも、すぐに雪になって、しかも南国のことで雪に慣れていないから、全国標準ではすぐに除雪して通行可能にできるものを、とにかく通行止めにしてしまう。
 別府ICから市内への道は、眼下に別府湾を見下ろしながらくだる、かなり急峻な坂道である。その坂の途中、さすがは湯の町…道の左右の民家から湯煙が立ち上るのが見られた。
 ここまで来たら、ゆっくりと温泉にでも浸かっていきたいところだが、先が何時間かかるか判らない。別府の町で10号線に乗り、ひたすら西へ…。
 

宇佐八幡神宮
 日本で一番多くある神社は「お稲荷さん」。では二番目に多い神社は?と聞かれたとき、すぐに答えられる人は余程のカミサマ通であろう。実は、全国の神社のおよそ3〜4分の1、実に2万5千社が八幡神社である。京都の岩清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮などは有名な八幡宮だが、その大元締めともいえる総本社が、ここ大分県宇佐市にある宇佐八幡神宮で、日本古代史の中で注目を集めた神様である。
伊比神社 10号線の左側に鎮座する「宇佐神宮」は、多少なりとも日本史をかじったものには素通りすることのできない存在だ。
 大和朝廷成立の前、大和が北九州の勢力と覇権を争った時代に、国東半島北側の付根辺りのこの地は大きな意味を持つ。日本の弥生文化の発祥の地であった北九州地方…、大陸文化を受け入れて繁栄してきた北九州勢力のひとつの中心地であったここ宇佐の地は、特に東征基地として大きな役割を持っていた。
 宇佐神宮の祭神は、神功皇后、応神天皇、そして、三女神(宗像三女神のうち二神と、もう一神は地元の神か?)であるとされる。このことは、応神と宗像族が連合した事実を表すものではないか…などなど、古代史の謎解きへのロマンは尽きないが、そたま?れはまた別の機会に譲るとして、旅の先を急ごう。
 大きな鳥居をくぐって右に曲がると、玉砂利の敷かれた広い参道に出る。ここには丸々と肥えた「タマ」がいて、参道は彼の縄張り。参拝者の誰彼なく近づき、馴れ馴れしく肌を摺り寄せたのち、安心した相手の足宇佐神社 本殿にマーキング…。小水をかけて、差知らぬ顔で行き過ぎる。何せ、タマはご神域の守護猫。かけられたものは怒りもせずに、「やられたぁ」と笑って、ハンカチを取り出す。
 運よくタマの攻撃を逃れたものは、その幸運に感謝しつつ進むと、やがて参道は石段となり、登りきったところに、朱塗りの本殿がある。
 二礼四拍一礼。旅の無事を感謝して、日本史の空白といわれる4世紀の鍵を握る、宇佐の神々にお別れした。


博多の「なぎの木」 天草大王
 午後5時30分。北九州市で九州自動車道へ乗った。南国九州は夕暮れが遅く、三重県ならばとっぷりと夕闇に包まれているこの時間も、まだまだ明るい。6時過ぎ、福岡に着いた。
 福岡在住の吉村君に急な仕事が入って、彼の会社のひろちゃんに、夜の中州を案内してもらうことになった。ひろちゃんは可憐な女の子だけれど、長年、土建会社に勤めていて、酒は強い!
 お薦めは、自然食料理店の『なぎの木』。自家製無農薬野菜などとともに、鶏肉のすき焼き・水炊きなどを食べさせる店とのことだが、その鶏が並みの鶏ではない。「天草大王」という、天草五島地方に飼われていた食用の大型鶏で、戦後に一時絶滅したものを復活したという。「天草テレビ」の解説を借りて、「天草大王」をご紹介しよう。
 『「天草大王」は、明治の中ごろ輸入された中国北部原産の「狼山(ランシャン)」種が長崎から天草地方に渡り、地元で飼われていたシャモやコーチンと交配して生まれた肉用地鶏。羽色は褐色に黒味が混じる濃猩々(のうしょうじょう)色、鶏冠(とさか)は単冠、赤色の耳たぶで、足は太くて長く、首と尾が直立、雄の大きいものは背丈が90センチ、体重7キログラムにもなり、極めて大きい。肉は軟らかく、白色で、肉量も多い。当時は主に福岡・博多へ水炊き用に高値で出荷され、珍重された。しかし産卵率が低く、大型で大量の飼料が必要なため、昭和初期、戦時中の食糧難で絶滅した。天草大王。うしろの普通の鶏に比べて、はるかに大きいでしょう。
 熊本県菊池郡合志町にある熊本県農業研究センターが、県産地鶏の復活に取り組み、平成4年に「天草大王」の原型となった「狼山(ランシャン)」種をアメリカから輸入。文献や写真、当時描かれた油絵などを基に、3種の鶏を交配させ、このほど半世紀ぶりに復活させた。日本に肉専用種は「天草大王」しかいないため、同センターでは今後、熊本県産地鶏の特産品として、生産普及をはかる。』とある。
 

 さて、この「天草大王」、食べてみてビックリ! 鶏スキは、割り下のダシで、たっぷりの野菜とともにしっかりと煮込むのだが、濃密な味が肉によくなじみ、ボリュームたっぷり。鶏特有の脂っこさは全くない。肉のひとつひとつが、コリコリとした歯ごたえ…、噛むほどに味が出る。口の中に豊かな肉感が広がるけれど、後味はスッキリとしている。牛肉のすき焼きは、和田金へ出かけても、2枚も食べれば十分だけれど、これならば幾らでも食べられそうである。
 続いて、水炊き…。ここでも驚かされたのは、ひろちゃんが、炊き込む前の温めたダシをみんなに振舞ってくれたこと。このタレの香り天草大王を食べて大満足!とコクの良さ…。先ほどしっかりと平らげた鶏スキの味が口の中から無くなり、水炊きに向かい合う姿勢が出来上がった。
 ダシを追加してもらって、鶏肉とキャベツと水菜をかぶせてサッと煮立て、小鉢に取り分けていただく。この料理の方法も、地元のことならではの手際である。ひろちゃん、何ンか慣れている…。料理の間も、勧められるお酒を断らずに受け流して、余裕の表情だ。九州の女の人は、肝っ玉ば座っちょるばぃ。口に含んだ水炊きの味は、ダシの香りとコクが鶏肉になじみ、キャベツの甘みと水菜のシャッキリ感と相俟って、野菜の苦手な僕もペロリペロリと平らげてしまった。食べ終ったあとも、えもいわれぬ香りが口の中に残る。


 「天草大王」の余韻を引きずりながら、中州の屋台探訪へ…。今夜は日曜日で、屋台の数が少ない。那珂川沿いそれでも数軒が、那珂川沿い中洲川端に店を並べている。店内は7〜8席のカウンターと、横に置いた机の周りに5〜6席の椅子。それにあぶれた人は、この寒空もお構いなしで、表のテーブルで怪気炎を挙げて中州の屋台いる。
 そのうちの一軒、あごに薄いヒゲを蓄えたお兄ちゃんの店へ入った。焼き鳥・おでん・レバ焼きとコップ酒、最後にとんこつラーメンで仕上げて、中州の夜は終わった。



 翌24日、午前8時、福岡出発。


関門海峡
 関門海峡の潮の流れは速い。九州自動車道めかりSAで休憩して、展望台から海峡を眺めた。海霧にかすむ対岸の下関は、意外に近い。関門海峡
 車でならばものの2〜3分の近さであるが、瀬戸内の周防灘と日本海の響灘とを結ぶこの瀬戸は、渦巻く潮の流れが速くて、昔の小船ではなかなかに操船は難しかったという。
 歴史の彩りがなくても、地の果てであり、人の出会いや思いを引き裂く海峡はどこか物悲しい。ましてや、対岸の下関側に広がる壇ノ浦は、平家滅亡の海であり、清盛の妻二位尼が8歳の幼帝安徳天皇を抱いて入水した海である。立ち上る霧は、宗盛の知盛の無念…建礼門院の涙の飛沫であろうか。
 「下関かぁ。ふぐでも、食っていこうか」と言ったけれど、まだ朝の9時過ぎだ。


 それからはひたすら走って、午後6時には津市の洋食屋で夕食を食べていた。途中、秋芳洞にも、安芸の宮島にも、神戸のライブハウスにも寄らずに、3〜4回の休憩を取っただけで、福岡〜津間は10時間で完走できることを実証した。


 阿蘇へ行けなかったのは、もう一度来いということなのだろう。九州までは10時間であることも判ったから、今秋のダンロップフェニックスには、タイガー・ウッズに会いに走っていこうと思っている。
 臼杵のふぐの後遺症か…。その後、どこで食うふぐも、美味いと思わない。他所でふぐを食いたいとも、思わない。


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