【82】 新緑の北陸路砺波チューリップフェア          2005.05. 3・4・5


第1日 5月3日


 どこへ行きたいということもなかったのだけれど、人並みにゴールデンウイークということで、インターネットで国内ホテルの検索をしてみたら、名古屋・京都・大阪などから滋賀・長野などの一帯は、全く空いているところがない。ええい…と意地になって、車で走っていけるところを探し続けていたら、金沢のマンテンホテルに空き部屋を見つけた。
 5月3日、10時過ぎに出発。八日市インターから名神自動車道に乗って、米原JCから北陸自動車道へ入る。敦賀インターで降りて、しばらく8号線を北上したあと、河野有料道路から3山からすぐ海へと落ち込む越前海岸05号線…越前海岸沿いのルートである。


 越前海岸ロード


              山から 即 海だ →




  イカ釣り船だろうか、マストや船体に
  いっぱいの電球を吊り下げていた。↓

イカ釣り船






             越前岬 呼鳥門

越前海岸 呼鳥岩










 海岸沿いの305号線をさらに北へ走ると、越前海岸が最も日本海へ突き出たところに、名勝「呼鳥門(こちょうもん)」がある。
 白山からの溶岩が海へ流れ込んだこの一帯は、山の稜線がそのまま海へ達していて、陸地も海岸も真っ黒な火成岩で構成されている。海岸線を走る305号線は、海沿いの山肌を削って建設されてきた。昭和33年〜34年、県道敦賀〜三国線の工事によって、巨大な岩が自然のトンネルを造る下をくぐって鳥糞トンネルが開通し、その洞門の姿が鳥が羽をひろげて舞い下りてくる形に似ているところから、鳥(観光客)を呼ぶ門「呼鳥門」と名付けられたという。あたりは越前岬、鳥糞岩など切り立つ断崖が海にせり出し、大小の岩々が形造る絶景は、越前海岸を代表する絶好のドライブコースとなっている。



 ↓ 東尋坊 大池
東尋坊 さらに北上して三国町「東尋坊」へ着いたのは、午後5時ごろであった。
 東尋坊で見られる安山岩の柱状節理(五・六角形の柱状の岩の集まり) は、約1300万年前に噴出した溶岩が自然冷却されて固まったもの。世界でもたった3ヵ所(福井県 東尋坊、韓国の金剛山、ノルウェー西海岸の海岸線)にしか見られない貴重な造形美とある。
 柱状に続く岩々が日本海の海食によって削られ、思わず足がすくむの絶壁が約1km…、北陸屈指の景勝地である。特に海抜25mの絶壁、東尋坊「大池」では、崖下に日本海の荒波が打ち寄せ、豪快で迫力満点。国の天然記念物に指定されていて、冬季、砕けた波がシャボンの泡のように舞う「波の花」も美しい。



 福井市内に戻り、「ターミナルホテル 福井」に入る。


第2日 5月4日


 道元禅師開基の「永平寺」向かう。                ↓ 永平寺の木立

永平寺参道 永平寺は、寛元2年(1244年)道元禅師によって創建された曹洞宗の大本山である。33万uに及ぶ老杉の並ぶ山深い谷あいに、山門、仏殿、法堂など七堂迦藍があり、日本の禅修行僧の最高峰として歴史を刻んできているが、今も約200名の雲水たちによって750年前に定められた厳しい作法に従って、禅の修行が行われている。
 永平寺は5年ぶり4回目、相変わらずの賑わいである。前回は反時計回り(左回り)での見学であったと思うが、今日は左の階段から上って本堂に参拝して右の階段から降りてくる右回りになっていた。書院の天井に描かれている4枚(だったと思うが、3枚だったか)の鯉の絵は、今日も見つけられず、2枚で諦めた。
 遅い朝食…、いや早い昼食…か、越前蕎麦を食べた。

能登海岸の看板
 福井北ICから北陸自動車道に乗り、金沢西ICで降りて能登有料道路へ。


← さすがは 海ひとつで厄介な隣国と接するところ。能登半島の
 外浜には、いたるところにこの看板が見られた。


 能登金剛、千里浜海岸ハイウエーを走って穴水から249号線へ降り、富山湾側へ出た。

長谷川等伯 「松林図」

 七尾市美術館で「長谷川等伯展」を開催していて、憧れの「松林図」に出会い大感激! 
 百科事典『ウィキペディア』によると、「長谷川等伯は1539年七尾市の生まれ。はじめ長谷川信春を名乗り、仏画などを描いていたが、のち30歳を過ぎて上京。豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛児鶴松の追善のために建立した祥雲寺(廃寺)の金碧障壁画(その一部が現在
 
波静かな富山湾
波静かな 富山湾 ↑
京都智積院に伝存)が代表作。金碧障壁画制作のかたわら、中国・宋元の風を承けた水墨の作品もよくした。「松林図」屏風は、その伝来、製作の事情など不明な点が多いが(完成作でない下絵を屏風に仕立てたものだという説もある)、400年前の作品とは思えない斬新な作品。極限にまで切り詰めた筆数と黒一色で描いた松林の空間的ひろがりと、そこにただよう湿潤な大気とを見事に表現している」とある。



 富山湾を左手に見て160号線を下り、新湊を抜けて砺波のチューリップ園へ。
 毎年この時期、ゴールデンウィークには「砺波チューリップフェア」が開催されている。会場には350種100万本以上のチューリップが咲き誇り、様々な色と形のチューリップに出逢える。開催期間中は多彩なイベントが繰り広げられ、多くの人々で賑わう。

砺波チューリップ園 ↓
 100万本のチューリップが 鮮やかな色彩を描く。
砺波チューリップフェア 太陽が描かれている
 後日に聞いたことだが、フェアの終了後にこの公園を訪れると、無料で入園できるそうだ。花はまだまだ咲き誇っていて、入場者も多いとのこと。
 また、公園内外には日本最大級の五連水車やチューリップ四季彩館、美術館、郷土資料館、中嶋家などが常設されている。
 特に、公園東側にあるチューリップ四季彩館は、大きなガラスのアトリウムの中に小さな花の街がある。四季折々、街には花と緑があふれていて、チューリップテラスを眺めながらのティータイム、軽い食事もできるカフェもあり、人々が憩う空間となっている。



砺波チューリップ園 入り口 一面に植えられたチューリップ シンボルタワー 一面に植えられたチューリップ2 シンボルタワー2

一面に植えられたチューリップ3 チューリッフ満載の花壇 新種1


新種2 新種畑 新種3 新種4


 金沢市内へ戻り、「マンテンホテル」へ。休憩ののち、タクシーで香林坊へ出る。道端に空きビルが目立ち、金沢の経済も厳しいことを思った。


第3日 5月5日
金沢城公園の新しいシンボル、
新しく復元された菱櫓・五十間長屋・
橋爪門続櫓   
        ↓
金沢城 



 朝9時、「兼六園」へ向かい、茶店で団子と
蕎麦の朝食をとる。
 兼六園は、水戸偕楽園(かいらくえん)、岡山後楽園(こうらくえん)とならぶ日本三名園の一つ。江戸時代の代表的な大名庭園として、加賀歴代藩主により、長い歳月をかけて形づくられてきた。金沢市の中心部、金沢城の一角に位置し、四季それぞれの美しさを楽しめる庭園として、多くの観光客に親しまれている。


 ↓ さつき・かきつばたの
   咲く 兼六園

兼六園 兼六園とは、優れた景観の代名詞「六勝」を兼ね備えた庭園の意味。六勝とは、[宏大(こうだい)][幽邃(ゆうすい)][人力(じんりょく)][蒼古(そうこ)][水泉(すいせん)][眺望(ちょうぼう)]のこと。宋の時代の書物『洛陽名園記(らくようめいえんき)には、「洛人云う園圃(えんぽ)の勝、相兼ぬる能わざるは六、宏大を務るは幽邃少なし、人力勝るは蒼古少なし、水泉多きは眺望難し、此の六を兼ねるは惟湖園のみ」(庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(宏大)を表そうとすれば、静寂と奥深さ(幽邃)が少なくなってしまう。人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(蒼古)が乏しい。また、滝や池など(水泉)を多くすれば、遠くを眺めることができない。この六つの景観が共存しているのは湖園(こえん)だけだ)という。
 すばらしい景観を擁した庭園として賞された湖園。兼六園は、この湖園に似て六勝を兼ね備えているという理由から、文政5年(1822)、奥州白河藩主松平定信によってその名を与えられた。



 さて、帰ろうか。往きと同じ道をそのまま帰るのは味気ない。北陸自動車道の小矢部砺波JCTから東海北陸自動車道を南下し、合掌集落や御母衣ダムを見ながら帰ることにしよう。

五箇山合掌集落 ↓
五箇山合掌集落


 五箇山合掌集落は20戸ほどの茅葺き合掌住宅が集まる部落である。白川郷ほどの規模もなく、10分も歩くと村を突き抜けてしまう。初夏のこの時期に、周囲の山々にはまだ冠雪が真っ白に残っていた。
 白川から南へしばらくは、まだ東海北陸道は未完成で156号線を走る。昔の飛騨街道、隣を流れる長良川上流の谷は深い。
 やがて目の前に、視界をさえぎるように大きな堤防が現れた。わが国初のロックフィルダム(土石を積み上げてダム堤を造ったダム)「御母衣ダム」の堰堤だ。 
御母衣ダムの堰堤

 御母衣ダムは、堤高131m。現在でも、既設のロックフィルダムとしては、総貯水量は日本一。淡水面積は第2位、堤高第5位。周辺各県の生活・工業・農業用水や電力をまかなっている。

 ダムの傍らに聳える樹高20mの「荘川桜」は、ダム建設に伴って水没した光輪寺・照蓮寺の庭からここへ移植されたものである。いまだかつて例のない巨桜の大移植…。桜を惜しむ御母衣電源開発の初代総裁高崎達之助から依頼され、移植を計画し実行した桜研究の第一人者笹部新太郎は、無謀な計画だと、地元の人々ばかりでなく、植物関係の学究や、技術者からも非難を受け、マスコミにも叩かれたという。
 丸裸の姿で移された2本の桜の巨木は人々の想いを糧にしてか、ダム堤に根付き、翌春、薄みどりの新芽を芽吹かせた。高崎は記念碑に『ふるさとは 湖底(みなそこ)となりつ 移し来し この老桜 咲けとこしへに 』と刻んだ。今、樹齢450年の天然記念物荘川桜は、壮大に花をつけ、訪れる人々に遅い飛騨の春を告げる。

 5月6日、もう初夏というべきこの日、まだ残った花たちがはらはらと舞い散っていた。



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