【99】 吉野山 新緑 2006.04.28
昨夜、ニュースステーションで、「超低空カメラで撮った、吉野山千本桜」と題し、モーターハングライダーから撮った吉野桜を映し出していた。
先日、京都太秦の広隆寺を訪れ弥勒菩薩にお目にかかったので、今日は法隆寺の百済観音と中宮寺の弥勒菩薩(以前は如意輪観音といっていた)のお顔を見たくなり、昼過ぎ、奈良を目指して出かけた。

途中、針インターで、昨夜の吉野桜の映像を思い出し、「もしかしたら奥千本に少し残っているかも」と方向転換…、吉野山へ向かった。
2時過ぎに着いた吉野山は、全山一面の新緑! 桜は…もうない。
すっかり若葉に衣替えした吉野山
「如意輪寺」付近にて →
山の上のほうは、まだ花が残っているかもしれない。「奥千本はどうかな…」と外側の道路を走り、下千本・中千本を通らずに、とにかく上へ上へと向かった。
最奥「金峰神社」、鳥居下に車を置いて坂道を登りはじめたところ、あまりの急勾配に息切れ…。
← 奥千本 金峰神社
やっとたどり着いた「金峰神社」、ここの桜ももうパラパラ。この奥の西行庵の桜は、南側斜面にあるので、ここよりも早いという。吉野は桜の季節を終えて、新緑へと装いを替えていた。
ゆっくりと降りてくると、上千本と呼ばれる集落の道沿いに「水分神社」があった。豊臣

秀頼によって再興された本殿に鎮座する「天之水分大神」は、水を司る神様である。
吉野山はふもとから奥までの標高差が約600mほどあることから、桜の花は下千本〜中千本〜上千本〜奥千本と、ふもとから山頂に向けて咲き登っていく。
毎年4月3日、ここ「水分神社」で五穀豊穣を願う「お田植祭」が行なわれるが、花期の早い境内の枝垂れ桜は、ふもとの桜の開化と時を同じくして咲き、お田植えの神事のお囃子が峰々にこだますると、吉野山の桜は満開の季節を迎える。
今日はもう、枝垂れ桜はきみどり色の葉芽が付き出していて、花はまばらにしか残っていない。その前にある白い牡丹桜が、大きな花をつけていた。
車一台がやっと通れるような道幅の、結構勾配の急な下りが続く。ほどなく、道の左手に「展望随一」の看板を見つけた。『花矢倉展望台』だ。

狭い入口をグィッと切って入っていくと、一台の車もいなくて、茶店も閉まっている。営業中ならば、駐車料金も要るのだろうか。でも、今日はタダ。「席料お1人500円」と書かれた茶店に陣取って、大パノラマを独り占めである。
西南に開けた展望は、眼下に中千本、下千本一帯…、蔵王堂を中心とする吉野山の伽藍を収め、その向こうには山深い奥大和から紀伊の峰々が幾重にも重なっている。
花の盛りには、山肌をピンクに染めた桜の絨毯が広がることだろう。
← 中千本の桜並木も若葉の季節を迎えていた。
蔵王堂前の茶店で、「葛きり」→
黒蜜の甘さがしみわたる。
← 金峰山蔵王堂
茶店で、ちょうど5時のチャイムが鳴っていた。
ゆっくりとお茶を飲み、20分ほど過ごしてから「蔵王堂」へ登ってみると、拝観は既に終了していて、僧侶たちの読経の声が響いている。夕方の勤行が始まっているのだろう。
拝観終了の立て札の横から、そっと階段を上がって、お堂の縁側から中の様子をのぞいてみた。一心に経を唱える僧侶の肩越しに、立ち上る炎が見える。この寺は、役の小角以来の修験道を伝える道場であった。
奈良や大和の都を近在に控えて、吉野は歴史のページにさまざまに登場している。
神武天皇東征の熊野から吉野を通っての大和入り(古事記)。
応神天皇を歓待した吉野の国主(くず)の話(古事記)。
大海人皇子(のちの天武天皇)の吉野山隠棲と挙兵(壬申の乱)。
源頼朝の追討を受けた義経・弁慶らの吉野山逃避行と静御前との別れ(鎌倉)。
大塔宮護良親王が鎌倉幕府倒幕のために、河内の楠木正成と呼応して吉野で挙兵。
後醍醐天皇の吉野山での南朝擁立(南北朝)。
秀吉の勘気を受けた関白秀次の吉野山追放と切腹(安土桃山)。
こうして吉野山は何度もの戦火に見舞われ、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と歌われている。
礼拝して境内を巡っていると、読経は太鼓の連打から法螺貝の音に変わり、ボオーボオーという何かを告げているような音が、山々の峰から谷あいへと降りていった。
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