◆ 安乗灯台とパールロード 2004/7/14
【物見遊山68】

『
パールロードが、平成15年4月1日から通行料が無料になり、ご来訪や周辺観光がより手軽で便利になりました。是非この機会にお越し下さい。』という案内を見て、走りに行った。
この道路は、昭和48年に完成。鳥羽今浦〜的矢間18.3q、的矢〜鵜方間5.5q、計23.8qの観光道路で、志摩半島のリアス式海岸や熊野灘から太平洋を見晴るかす、途中の眺望が素晴らしい。
鳥羽から麻生浦大橋を渡るとパールロードへ入るのだが、この橋は完成した橋を船で運んできてここへ架けるという、当時としては画期的な工法で造ったと新聞で読んだ記憶がある。
この橋ができるまでは、今浦や石鏡といった、鳥羽市内であり、市内からすぐそこに見えるこれらの地区は、わざわざ的矢を迂回して、自衛隊道路と呼ばれていた車が1台やっと通るほどの山間を切り開いた地道を辿り、片道1時間余をかけて行かなければならなかった。もっとも、地元の人は海上交通が当たり前のこの土地だから、道路がないといった不便さは歯牙にもかけていない。パールロードが完成する前のはるか昔、浦村にある鳥羽市立鏡浦小学校へ所用があった私は、地図を見ながら鳥羽市街を抜けて、夕刻にやっと浦村を望む今浦地区に至ったのだが、目の前に横たわっている生浦湾を対岸へ渡る橋がない。遊んでいた小学生に「君たち、学校へはどうやって行くんだ」と聞くと、「船!」という答え。この子たちの住む今浦地区は、対岸に見えている鏡浦小学校の校区であるが、学校へは渡し舟で通っていて、前にある生浦湾には1本の橋も架かっていない。それから鳥羽市内へ取って返し、的矢を回っていては、とても時間内に学校へはつかないので、やむなく他日に予定を振り替えた覚えがある。
この時代のこの地域の人々にとっては、車より便利な船があるじゃないかといった感覚であったのだろうが、緊急を要する医療とか…台風などによる時化(しけ)とか…生活上の不便・不安は拭い切れず、それだけに昭和40年の道路の完成が待たれていたのである。通行料1350円は、生活道路としては高すぎる金額だが、地元の人には「特別通行証」が交付されて、無料か、ずいぶん廉価であったと思う。
リアス式の入江に砕ける波の白さが美しい海岸線と、真っ青に広がる太平洋を一望の下に収めながら、海辺の高台を走るドライブ

ウエイは続く。
10分ほどで「鳥羽展望台」へ到着。まず、ソフトクリームを買ってあたりをなめながら散策する。
駐車場から南へ徒歩5分の展望櫓からは、360度の眺望が楽しめる。北は鳥羽展望台の彼方に伊勢湾を、東は太平洋、南は志摩半島、そして西は鳥羽から伊勢の山々が連なっている。
伊勢湾の入り口から太平洋を望む位置にあるこの展望台は、標高162mの箱田山の山頂いったいを切り開いて造られていて、250台を収容する広い駐車場と3箇所の展望台がある。
メイン展望台の建物の中には、土産物店・売店などとともに、

創作イタリアン「ビスタ・マーレ」が入っていて、地元伊勢志摩の海の幸をふんだんに使った料理を出している。一品料理1200〜3000円・ピザ1200〜1400円・パスタ980〜3000円といった価格で、コースは2000〜5000円、昼食メニュー1500〜5000円もそろっている。
お昼を少し回っていて、軽く食事をしようと思いテーブルに着くと、大きなガラス窓の向こうに広がる風景は、もちろん青い空と夏の陽光にきらきらと輝く広い海…。
「ヴィスタマーレ風手こね寿司セット」は、手こね寿司に海老や白身魚の揚げ物と茹で野菜が添えられている。タルタルソースのピクルス・タマネギ・パセリなど素材の香りがほのかに漂う。デザートとコーヒーもついて1980円

であった。
食事のあと、さらに南へ。志摩ロイヤルホテルを左に見て行き過ぎると、料金所のゲートが見えてきた。
おじさんが顔を出して、「520円です」と言う。「えぇっ、タダになったんじゃなかったの」と聞くと、「それは鳥羽〜的矢間で、的矢〜鵜方間は有料だ」と言う。『くっそう、詐欺みたいなモンやな』と思いつつ、1000円札を出して480円のおつりをもらった。
鵜方で降りて道を左へとり、安乗灯台を目指す。
安乗灯台は、太平洋(熊野灘)に突き出た安乗崎の先端に立つ、白亜の灯台である。灯台は上から見て丸型のものが多いが、安乗灯台は全国でも珍しい四角形。
この場所には、江戸時代には幕府直轄の灯明台があり、海岸線を行く船の安全航行を見守ってきたが、明治6年に八角形の木造の灯台が建築され、現在のものは昭和23年に建てられた3代目である。
灯台の左手には的矢湾が広がり、有名な牡蠣の養殖や漁業が行われているが、航行する船も多く、安乗灯台の果たす役割は重大である。
安乗灯台の傍らに、駆逐艦「春雨」の遭難慰霊碑がある。
明治44年11月23日、日本帝国海軍駆逐艦「春雨」は、僚艦「磯波」「綾瀬」とともに横須賀軍港を出航、呉軍港を目指していていた。夜、熊野灘で暴風雨に遭遇、避難のため的矢湾に向かったところ、24日午前0時ごろ、湾口の菅崎付近の暗礁に乗り上げて座礁、全乗組員64名中、指令大瀧道助中佐、艦長児玉健三郎大尉を含む44名が命を落とすという大惨事となった。
このとき、長岡村相差と安乗村の村民は、嵐の中、総出で救助にあたり、男たちは嵐の海に船を出して遭難者を救い上げ、女たちは炊き出しや蘇生に懸命の努力を尽くした。
今、湾口の岩礁の上に碑が建つ座礁地点は、菅崎から100mほどもない近さである。それでも、嵐の海と闇の深さに、海の男たちと言えども為す術もなかったのだろうか。
2隻の僚艦は沖合いで嵐をしのぎ、翌朝、岸近くで目にしたものは「春雨」の煙突4本のみと、航海記録に記している。
今日は、はるかな水平線までをもはっきりと見渡すことのできる晴天…。夏の陽光を乱反射してキラキラ光る海の上には、真っ青な空が広がり、大きな白い雲が湧き上がっている。
時にはたくさんの人命を飲み込んで、大きな惨事を引き起こした海を見下ろしながら、白亜の灯台は、今日も静かにたたずんでいる。足元の岩礁に寄せる波は清冽に白く、沖行く船を漂わせて、海はどこまでも穏やかである。
PS.
安乗灯台は、木下慶介監督・原作・脚本の名作「喜びも悲しみも幾年月」(主演 佐田啓二、高峰秀子)の舞台となったところ。 、
日本各地の灯台に勤務してその灯を守り続ける灯台守の男。嵐の中、壊れた灯台を直すために手漕ぎボートで海に乗り出すシーンは怖いほどの迫力…。
長男危篤の電話を受けて、「どうせ助からないんじゃあ行っても無駄だ」と仕事を選ぶ父(佐田)。電話口で泣き崩れる母(高峰)。「僕も灯台の光が好きだよ…。父さん遅いなあ…」とつぶやいて息を引き取る長男。また、海外に嫁ぐ娘の乗る船に、霧笛で気持ちを伝えようとする無口な父…など、泣かされるシーン満載の逸品であった。
全編に流れる灯台守の歌や、土地の祭り。食卓を囲んでの合唱は、一筋に生きる家族のぬくもりと絆の強さが伝わる。
「部屋の真ん中に建ってる灯台なんてないよ。どこだって日本の端っこさ」なんて台詞は秀逸。
◆ あじさい寺 「瑞雲山 本光寺」(愛知県額田郡幸田町)
6/17【物見遊山67】

1万坪の境内に15種1万株のあじさいが咲く、「瑞雲山本光寺」は、深溝松平氏の出身地である三河国額田郡深溝村(現在の愛知県幸田町付近)にあり、別名「あじさい寺」として有名である。

東名高速を岡崎ICで降りて南へ約30分。国道248号線が23号に合流して程なく、JR東海道線「三ヶ根駅」の東方300mに鎮座するのが、釈迦如来を本尊、運慶の作といわれる延命安産の地蔵菩薩と千牛観音菩薩、別命身代り観音を脇侍とする「本光寺」である。
山門前の参道の両側にはあじさいが満開で、白い壁と朱塗りの山門との対比が、見事な景観をかもし出していた。
寺内のあじさいは今が盛りで、境内のいたるところに植えられた

株には、大きな花が咲き乱れている。色あいは、赤紫色の花が多い。
今日は、津を出るときは曇り空からときどき小雨がこぼれるといった空模様で、あじさいの鑑賞には相応しいかと思ってきたのだが、こちらに着いたら雨はほとんど上がって、時折り陽が射す天気になった。雨に濡れた紫陽花はみずみずしく、雲間からこぼれる陽光に照り映える花の色はひときわ鮮やかだ。
徳川氏発祥の地は周知の通り三河であり、家康から8代前の親氏(ちかうじ)が、系譜に残る徳川氏の始祖である。
親氏がこの地に流れ着いたときには乞食坊主の姿をしていて「徳阿弥」と名乗っていた。阿弥という名がついていたということは、室町期に流行した時宗の徒であったのだろう。念仏を唱えては食を乞うて諸国を回り、どこで果てる

ともわからない。
わが国の家系は30代も遡ることのできるものはよほどの名家と言える系譜で、逆に言えば、天皇家と出雲国造家を除けば、源平藤橘家も徳川家ほどの家系でも、30代も遡るとどこの馬の骨ともわからない。
諸国をめぐる遊行の者は、諸国の情勢や風俗・奇説をよく知っていて、話し上手なものならば、土地の長者に気に入られると、二月も三月も逗留する。家の妻女や娘に悪さをするものもいて、土着のものには油断のならない存在でもあった。

「徳阿弥」はこの地の有力な土豪であった松平家と酒井家の両方の女子を孕ませ、両家の連合を形成するとともに、この地に根を下ろした。ここに、徳川家を支えた十四松平氏をはじめとする三河武士団が誕生する。
徳川家と三河武士団の物語は汲めど尽きない面白さがあるが、その話は

また他日に譲るとして、本光寺に戻ろう。
本光寺は、徳川家を支えた深溝松平氏の菩提寺として、歴代藩主の菩提を弔ってきた。藩の転封とともに幾度か転地を繰り返し、この寺も埼玉県、豊橋、刈谷、福知山、宇都宮、島原などを転々としてきたが、ここ深溝にあったこの寺は、その間ずっと末寺として存続していた。

明治4年、深溝松平家が神式に改典した結果、広大な伽藍は一時的に学校(本光寺学校)に転用されたが、明治5年、本光寺31世維尹石厳大和尚らの努力によって復旧が図られ、現在に至っている。
【54】 加茂花菖蒲園 (静岡県掛川市)
2004/6/11

東名高速道路を掛川インターで降りて、山の手方向へ約20分。「森の石松」の生誕地として有名な遠州森町に隣接した山すその地に、桃山時代から続く庄屋屋敷「加茂家」の白壁土蔵を背景にして、約1ヘクタールの菖蒲園が広がる。
パンフレットによると、加茂家は桃山時代からこの地の庄屋であり、天承17年に浜松城主であった徳川家康から遣わされた書状をはじめとして、徳川年間の古文書多数を蔵し、近代史家の間に加茂文書として知られているとい

う。
慶長9年の検地帳には、この地(遠州佐野郡桑地村)の過半を領する、極めて有力な庄屋であったと記されている。豪農として、掛川藩公認の金融機関としての役割を持つことにもなるが、幕末には掛川藩に対する貸し金がかさみ、明治維新で幕藩体制が解体されたときには、多額の貸し倒れが生じたとある。
庄屋時代の加茂家は、国学・和歌などの学問が盛んであり、文人墨客の往来が盛んであったとか。
明治以降は代表的な旧家として存在してきたが、戦後の農地改革で約50町歩の耕地を失い、厳しい時代の波にさらされることとなる。
厄除けとして古くから栽培されてきた花菖蒲は、明治の初め

に門前に菖蒲畑を拡張して続けてきたものであるが、昭和30年代に始めた大規模な花菖蒲園経営によって脚光を浴び、今日ではシーズンに約11万人もの人々が訪れて、日本でも有数の花菖蒲園として知られている。
梅雨の季節の最中、でも今日はとてもよい天気。約1500種150万株の花菖蒲が、遥かに広がる菖蒲畑に、紅・白・紫・黄色の花をつけて咲き乱れる様は見事である。
この加茂菖蒲園のご当主は、日本花菖蒲会会長を努められ、今日も日々、品種改良に力を尽くしておられるとか。
「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」というように、アヤメとカキツバタ、それに花菖蒲

は区別するのが難しい。アヤメは漢字では菖蒲と書くからショウブと同じかと思うけれども、アヤメはアヤメ科の多年草。ショウブはサトイモ科で葉に芳香があり端午の節句に菖蒲湯に用いる。ハナショウブはアヤメ科の多年草であるが、ノハナショウブを原種として日本で改良作出された園芸品種の総称。カキツバタもアヤメ科の多年草だが、葉は広剣状で中肋脈がない…と広辞苑にあるが、実物を前にしたら見分けることはできそうもない。

畑に植えられた花菖蒲はほぼ満開で、見事に開いた花弁を、吹き抜ける風に揺らしている。
その風情から、この花は雨に濡れて咲く姿が似合っていると思ってきたが、夏の太陽の下で咲く様子も、陽光に照り映える紫や紅の花の色が目に沁みるように鮮やかだ。
同じ紫色の花でも、品種によって花びらの模様はさまざまで、さらに黄色や白、紅色などといった色の違いがあるのだから、その色模様は千差万別である。

畑を一巡して、山すその一段小高いところに建てられている民家跡を覘き、母屋へと戻った。さすがに夏場の太陽に照らされ、汗ばむ暑さであった。
母屋に入って、冷たいお茶をいただく。火照った体に、のど越しのお茶の冷たさが染み渡った。
母屋内の一角に設えられた温室に、ベゴニアの花が栽培されていた。何百坪もある部屋一杯に、何百の鉢が並べられ、壁一面に咲き乱れている。赤や黄のベゴニアの大輪が咲き誇っている様は、花菖蒲の風情と対照的に、豪華絢爛であった。
屋敷内は中を開放していて、江戸中期のままに保存されている部屋を見学することがでる。土間には臼・杵・みの・笠など昔の農具が置かれていて、茶職人による茶もみ、葛布による織物の実演なども行っている。
食堂もあって、庄屋時代の料理を楽しむことができる。本膳庄屋料理は、最福寺納豆・味噌玉子・味噌汁・漬物・山菜・山桃・染飯で2500円であるが、無類の魚好きの私はこれから焼津へ出て、まぐろを堪能する予定である。
【63】 京都の桜を訪ねて (3 /
5・6)
友人に言わせると、私は「1年のうちで20日間しか働かない」らし

い。年度の替わり目の3月末から4月の半ばまでが、私の一番忙しい時期だ。すなわち、今が友人の言う「20日間」の真っ只中なのだが、春の便りに誘われて1泊2日で京都へ桜見物に出かけてきた。だから今年は、18日間しか働かないことになる。
名神高速道路を京都東ICで降りて、すぐを右折、JR山科駅の横を過ぎて、車がすれ違うのがちょっと厳しい細い道を北へ上ると、5分ほどで天台宗五箇室門跡のひとつ「
毘沙門堂」に辿り着く。703年、文武天皇の発願で、行基に

よって開かれた古刹は、桜の花にあふれていた。
狩野益信の筆による、どの角度から見ても鑑賞者が中心位置に来るという宸殿襖絵に舌を巻き、樹齢百数十年、枝張りは30mに及ぶ、前庭の枝垂れ桜に酔い痴れる。

仁王門前の急な石段を降りて参道を下ると、川幅はさほど大きくはないけれども、両岸をコンクリートで固め、緑の水を満々と湛えた川をまたぐ。琵琶湖の水をくみ上げ、京都盆地へ流し続けて来た、
琵琶湖疏水である。
当時の京都市年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業は、主任技師として工部大学(現在の東京大学工学部)を卒業したばかりの青年技師田邊朔郎(満21才)を選任して始められた。事業の主唱者である北垣国道京都府知事をはじめ,工事担当者
・府市関係者・市民が、京都市の将来を考えて,いかなる困難をも克服して事業を完成させるという決意のもとに続けられたこの難事業は、1890年に完成し、今日まで150万市民の上水道の水源や水力発電のほか,京都市の産業にとって欠くことのできない役割を果たしてきた。 堤防沿いに植えられた桜並木は、疎水の歴史を物語るかのように大きく成長し、毎年見事な花

を咲かせている。
蹴上げを越えて、
南禅寺へ向かった。駐車場横の枝垂れ桜が零れんばかりの花をつけている。
車を預けてから来た道を徒歩で少し戻って、
蹴上インクライン(傾斜鉄道)の線路あとを歩いてみた。疎水の完成により琵琶湖と京都の水運が可能になっ

たわけだが、九条山から蹴上にかけては勾配が急であるため、インクラインによって三十石船をそのまま台車に載せて上下させたという。
線路沿いに多くの桜の木が植えられていて、桜の季節には多くの人が、今は廃止されているその線路あとを歩き、歴

史の香りと桜のあでやかさに浸る。
岡崎公園の地下駐車場へ車を回して、
平安神宮の紅枝垂れを訪ねた。この桜の色の紅さは、なまめかしい心のときめきを掻き立てる。
京

都の春の風物詩のひとつになっている「紅枝垂れコンサート」は、今年は8日から11日までとのこと。まあ、毎年見るようなものでもないか。
時計を見ると、もう午後2時。すこしお腹が空いたけれど、時間が惜しいので道端の屋台のたこ焼を買って車の中でパクつき、京都御所へ向かう。

確か春の一般公開が今頃だったはずだがと建礼門へ回ってみるも、門扉は固く閉じられたまま。公開は明後7日から5日間と、ここでも文字通りの門前払いであった。今日申し込んで明日また来れば見学できるのだが、今回は少しでもたくさんの京の桜を見るつもりだから、御所の拝観はまた後日に。
北庭の桜園の枝垂れが見頃。白い枝垂れ桜もあって、紅色の桜の中に清楚な趣きであった。

午後3時30分。北山の原谷苑へ行こうと思い立って車に乗ったのだが、周辺の道は狭く駐車場も無いとか聞いたのを思い出し、タクシーに乗り換えた。
金閣寺を過ぎた頃から、道は結構急な上り坂が続く。運転手さんが「ここの小学校の運動会は、この坂道を毎日往復している原谷の子供たちが、1等2等を独占するんです」と笑っていた。

原谷苑は、材木商の村瀬常太郎氏が30年の歳月をかけて桜を育てられたところ。4千坪の苑内の桜は約500本。樹齢50年の紅しだれが100本以上もあり、見ごろを迎えた苑内はまさに天から降り注ぐ桜のシャワーとか。
入り口のおじさんに「満開?」と聞いたら、ムムッと口ごもって、「ちょっと早いかなぁ」と気の毒そうに答えた。見頃は、あと

10日か…。
それでも、苑内は吉野桜、彼岸しだれ、みどり桜、黄桜、御室桜など多品種の桜とともに、雪柳、ぼけ、吉野つつじ、レンギョウなども咲いていて、百花繚乱。7分咲きでも、圧倒的な桜の中を歩く気分が満喫できた。
御所に戻って車に乗り換え、少し早いけれど宿に向かった。八坂神社の南門前「畑中」が、今夜の宿だ。交通便利な場所にありながら、静かなたたずまいを保ち、何よりも気楽なのが良い。年に1〜2度、この宿を訪ねる。
風呂に入って、そそくさと食事を済ませた。せっかくの京料理、ゆっくりと味わえばよいのだが、夜はまた界隈の桜を訪ねるつもりなので、落ち着かないのだ

。
食後の京茶もそこそこに、八坂神社を抜けて、白川ほとりの石畳通りを歩いてみた。桜の並木が続く名所で、「
祇園白川」と呼ばれ

ている一帯だ。
早い宴会がはねたのだろうか、川べりのお茶屋さんから舞妓さんが出てきて、桜の下を歩いていく。町を往く彼女たちは、凛として清々しい。
立ち並ぶ店々やぼんぼりに明かりがともり、京の町は夜のいでたちへと装いを変える。ほのかな明かりに浮かぶ桜の花は、ひときわあでやかで優しい。
角の甘味屋の前に行列ができていて、15〜6人ほどの人たちが順番を待っている。何とかいう雑誌に紹介されたことと、京都の古い民家のような店のたたずまいも雰囲気があって、人気が出たのだという。ものを食べるのに並ぶという感覚は、私にはちょっと理解できないが、並んでいる人の顔には「何が何でも食べなきゃ」という決意と好奇心がみなぎっている。
「
清水へ 祇園をよぎる 桜月夜、今宵会う人 みな美しき」 与謝野晶子

四条通りをぶらぶら歩いて、円山公園へ引き返した。やっぱり京都の夜桜は、
円山の枝垂桜を見なければ納まらない。たくさんの人並みでごった返す公園の中、ライトの明かりに浮かぶ桜は、今年もあふれんばかりの華やかさだ。
見上げれば、今宵は満月…。一点の曇りもない真ん丸の月が、満開の桜の花の彼方に輝き、薄桃色の花の色との対比が妙であ

った。
歴史を語る神社仏閣にあっても、人々が行き交う町角に咲いていても、京都の桜はどこかあでやかである。京都という町をつくる人々の心と丹精が、桜の姿を整え、背景にふさわしいいでたちを整えてきたのだろう。
10時を少し回ったころ、宿へ戻った。漬物を添えた夜食を用意してくれてあるのも嬉しい。ゆっくりと湯に浸ったあと、床に入って持参した本を読み始めたのだが、ページをめくるほどもなく、いつしか寝入ってしまっていた。
「
かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流るる」 吉井 勇

今日も快晴、暖かな良い天気、花見日和である。宿を出て、まず清水寺へ向かった。

清水の坂は、人波でごった返している。舞台からの眺望は、足元に広がる桜の花が雲海のよう。
「
花の雲 鐘は八坂か 清水か」盗作
知恩院から八坂へ、東山の界隈を散策しようかとちょっと迷ったのだが、思い切って西へ向かい、嵐山を訪ねることにした

。
嵐山の近辺は車が混雑して渋滞…。そのまま嵐山ドライブウエイに入って、周囲の景観を眺めることにした。展望台から見下ろす保津川渓谷は、花にあふれて華やかな暖かさに満ち溢れていた。
取って返して渋滞に耐え、駐車場に車を入れて渡月橋を渡る。桂川の両岸も、小倉山の山肌も、辺り一帯が薄桃色に染まり、桜花爛漫春一色だ。
対岸の右

手中州に、たけのこ料理を出す店があって、のぞくと座敷が空いているという。ちょっと疲れてもいたし、上がり込んで休憩がてら昼食をとることにした。窓のひさしのところまで、花をいっぱ

いにつけた桜の木の枝が伸びてきて、花影を揺らす。
昼食を済ませてから、あたりを散策…。花また花の嵐山である。
もうあまり時間もなかったのだが、龍安寺に寄ってみた。石庭の白砂の庭にかかる、色濃い枝垂れ桜の美しさを思い出したのである。
幽玄の極地の砂と石の庭に、心浮き立つ桜の花が降りかかるように

のぞく様は、さながら安珍清姫の世界か、十六夜清心か…。色即是空、空即是空、…。伽藍を出て、広大な鏡容池のほとりの桜を愛でつつ下山…。
ちょっとコーヒーで休憩して、午後6時前。お寺なんかはみんな閉まってし

まった。あと、桜の名所といえば…、宝が池だ。夕方の宝ヶ池は、湖面に夕焼けが映えて、一帯の春景色が夕暮れの中に沈んでいく。
帰り道、京都市内は混雑しているだろうから、ここから高野川に沿って北へ上り、途中峠を越えて比叡の山の北から琵琶湖西岸の堅田へ出て、琵琶湖大橋を渡って帰ることにする。
暖かく晴れ渡り、京都の春を満喫した2日間であった。一生のうちで、あと何回、この絢爛たる桜の花を見ることができるだろうか。そう思うと一本の桜の木にも、愛惜の思いがひとしお募る。行く春を惜しむ気持ちも、この10年来、年々歳々強くなるような気がする。毎年の…この年の桜…、こころして見なければならない。
【64】 津市界隈 この年の桜
4/8〜10
1年中で一番忙しいこの時期、桜の季節に重なるのは困ったものだ。この数日、忙中閑をつくって、津界隈の桜を訪ねてみた。
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津城跡 南西堀端の桜 |
石垣の上から 北西堀端の桜を望む |
隅櫓と桜 |
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藤堂家歴代藩主の墓と桜 (藤堂家墓所 寒松院)
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伊勢 宮川堤の夜桜1 |
伊勢 宮川堤の夜桜2 |
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安濃町 曽根橋南詰め 堤防の桜並木 |
安濃町 明合古墳の桜 |
津城跡北西の石垣の上から 桜に浮かぶ隅櫓を写す |
【62】死んでも本望 東新町『鳥銀』 (2.12)

ベトナム発を第1報として、鳥インフルエンザが東南アジアで猛威を振るっていると伝えられている。日本でも、山口県で症例が報告され、35万羽の鶏を処分したという。
「今のうちにおいしい鳥料理を食べなきゃ」と、名古屋コーチンの老舗『鳥銀』へ出かけた。錦に本家『鳥銀』の看板を上げて、大きな店があるが、昨年末に寄ってみたところ、値段ばかり高くて、味のほうはいまいち納得がいかない。そこで、今夜は東新町の『鳥銀』へと出かけた。
女子大小路を入ったところ、池田公園脇にあるこの店は、鳥銀といっても錦の店とは何の関係もないらしい。串焼きを先に塩で

5本、あと3本、タレをつけて焼いてもらった。塩味はジューシーな中にもキリッとした歯切れのよさ、タレのほうはコクのある風味が口いっぱいに広がる。あとは手羽先、とり刺し、釜飯と頼んでお腹いっぱい。締めて8400円。値段のほうも良心的でお値打ちである。

表へ出ると、池田公園の樹木を飾るイルミネーションが鮮やかに光っている。去年のものよりも、本数も色の種類も増えて、公園内の8本の巨木に赤・青・黄色などの彩りが華やかだ。
翌日の夜、気持ちが悪くて、夜中にもどした。風引きらしい。即効性の鳥インフルエンザかと思ったが、ただの風邪だとのこと。でも、今年の風邪は、あげる・くだる・身体のそこここが痛むなどと、3日間ほどひどい目にあった。
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