【物見遊山259】  志摩市「 味 館 」         2013.02.16


 松阪の友人すすむちゃんに誘われて、志摩市鵜方にオープンした居酒屋割烹「味館」に行ってきました。この店の大将は「新ちゃん」、松阪で割烹を開店していたころからの付き合いですが、無類の料理好きの新ちゃんはより良い食材を求めて志摩市へ移り住み、志摩神明で割烹居酒屋「千福」を開店していたのですが、昨年5月に鵜方に出て新店をオープンしたもの。
 わが町からは片道1時間半〜2時間ほどを要するのでなかなか邪魔することができなかったのですが、今夜は是非にと走っていきました。 


← この人が大将の「新ちゃん」


 午後6時45分、たどり着いた店はすでにいっぱい。10席ほどのカウンターも、2つのテーブル席、3つの座敷席も満杯で、僕たちのために空けてくれてあったカウンター席が水槽の横…。で、10個ほどのバカ貝が舌を出している水槽越しに、奮闘中の新ちゃんをパチリ!
 
 



 早速に赤身の造り…、今日はカツオです。新ちゃんは地元に上がる食材で献立を作ることにこだわっています。もちろん、地元で採れないものは他から仕入れることも余儀なくされますが、魚も野菜もできるだけ地産地消を心がけています。だから、赤身はマグロでなくカツオなのです。


    
そのカツオを、まずは刺身とたたきでいただきました。→


 章くんは皮付きの造り(これを芝造りとか銀段造りなどと言います)が苦手なので、皮を取り厚切りにしてもらいました。鮮度が良いせいかカツオ独特の臭みもなく、どこか甘いもっちりとした味が口のなかに広がります。
 カツオのブロックを金串に刺し、全体を炙って旨味を増幅し、たまねぎのスライス、刻みネギ、モミジおろしとにんにくのスライスを薬味に加えてポン酢で食する「たたき」は、造りに並ぶカツオ料理の定番…。カツオは炙ることで、香ばしさがつき、身の余分な水分が減って食感が向上し、味が濃厚になる効果があります。

← 合鴨のステーキ


 鴨肉はとても脂ののりがよく、弾力があってかむほどに味わいが増します。鴨の脂は摂取すると人の体内で溶けるので、太るということもありません。ひと口噛むたびに、肉と脂の醸し出す芳醇な味とコクのある甘みが口の中に広がります。
 昔から「鴨ネギ」と言われるほど鴨肉とネギはセットで語られます。これはネギの強いニオイの成分である「アリシン」には他のニオイを隠してしまう働きがあり、結果としてクセの強い合鴨肉独特のニオイを抑えて美味しくしてくれるという訳です。 

       
次に頼んだのは、タラの白子のバター焼 →


 湯引きにしたものをポン酢でいただくのも乙なものですが、今夜はバター焼…。口に含んだときの香りがよく、口の中でとろけます。
 でも、プリン体が多く含まれていて痛風の原因になりますから、食べすぎには要注意です。


← ユリ根のホイル焼



 ユリ根は天ぷら、卵とじ、和え物、バターやチーズで焼いたり、茶碗蒸しや味噌汁に入れても美味しく食べられます。
 このホイル焼は、外はカリッと香ばしく、内にいくほどホクホク感が増します。


← とてもきれいなナマコ


 ナマコには「柚子」がとてもよく合います。今夜は柚子の皮を細かく切ってパラパラと振ってもらいました。
 ナマコは、朝鮮人参と同じくらいの薬効があると言われています。中国ではその働きが人参に匹敵するということで、海の人参すなわち「海参」という名前が付いたと伝えられているそうですが、日本語では「海鼠」と書きます。
 

 8時過ぎ、次々と詰め掛ける客でにぎわう店をあとにして、帰途に就きました。ところが、五ヶ所へ出てサニーロードを帰ってくるつもりが、志摩のリアス式の海岸線をぐるぐると回る国道260号に入ってしまって、40分ほど漆黒の英虞湾・熊野灘・五ヶ所湾を見ながら、南伊勢路をさまよってきました。せめて昼間だったら、美しい熊野灘を見ながらのドライブを楽しめたのでしょうが…。




【物見遊山258】 天橋立                       2013.02.02
 

   ( 旅の詳細は、旅のブログにも記しています。よろしければ、ご覧ください )
  

 「てっさ・たらばがに 食べ放題バスツアー」の食事場『シーサイドセンター』の庭の前には、砂州によって宮津湾と区切られた、阿蘇海が広がっています。
 海を仕切る、
この全長3.6kmにおよぶ湾口砂州が、「天の橋立」です。
 日本では、外洋に面さない湾内の砂州としては唯一のものであり、白砂青松を具現するかのごとく一帯には約8,000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がっています。砂州の中央には公道あって、散策することができます。
 天橋立の南端部分(右上の写真の右方向)は砂州が切れていて、阿蘇海は宮津湾とつながっています。海の上には廻旋橋が架けられて、遊覧船の通行時には、橋がクルリと回って船の通路が開けられます。
 

 午後1時25分、食べ放題で満腹の客を乗せて、バスは天橋立見物に出発します。


 走ること2分、バスは元伊勢根本宮 籠(この)神社の駐車場に到着。この裏手にケーブルカーの乗り場がありますが、まずはお宮へ参拝しました。


← 丹後国一の宮、元伊勢 籠(この)神社

 
 天から降臨された天照大神は今の伊勢神宮に落ち着かれるまで、安住の地を求めて各地を巡られたと伝えられ、日本のところどころに元伊勢の伝承があります。



     
境内に、天照大神の和魂、倭宿彌命、
       真名井稲荷神社 (豊受比売)が祀られていました。→



← 倭宿彌命(やまとのすくねのみこと)


 僕は浦島伝説がここにもあるのかと思ったのですが、調べてみると下の通り、この方はこの社を守ってきた社家のご先祖でした。

 社家(しゃけ、代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のこと)の海部氏は、彦火明命(天津神)を祖とし、創建以来の奉斎とされ、現在は82代目です。4代目の倭宿禰命(国津神)は、神武東征の際に速吸門で亀に乗って、神武天皇を大和国へ先導したと伝えられています。
 
 
 倭宿彌命像の前を通って左裏手に上っていくと、「ケーブルカー乗り場」がありました。→




← かわいい車両が待っていてくれました。
 
 
 ふもとの「府中駅」から終点の「傘松駅」まで、15分間隔、2台の車両が上り下りを交互に運行しています。一方ががふもと駅にいるときは片方は頂上駅にいて、2台は同時に発車し、中央にある複線部分ですれ違います。所要時間は片道4分、料金は往復で640円です。


   上下の中央部が複線となっていて、すれ違います。→


 右の写真の左手に見えていますが、ここにはケーブルカーに平行してリフトが走っています。冬場(12月〜2月)は運休とのことで、この日は動いていなかったのですが、上りはケーブルで、下りは海と天橋立を見ながらリフトで下ってくるというのもいいかもしれません。


 傘松駅でケーブルを降りて駅舎を出ると、すぐ目の前に阿蘇海と宮津湾、そしてその2つの海を分ける天橋立が、視界いっぱいに広がっていました。


 傘松公園は阿蘇海の北岸にある高台(標高は130m)に開かれています。
 籠神社、ケーブルなども、宮津湾の北岸にあり、自動車道で宮津に入った場合は宮津湾を囲む国道176号を橋って対岸に渡ることになります。


← 傘松公園からの天橋立。


 この眺めを「斜め一文字」というのだとか。まさに、斜めに走る一文字に見える景観からその名がついたそうです。


  南側の文珠山の山頂にある天橋立ビュー
 ランドから見る眺め(写真はパンフから)→



  龍が天に登る姿に見えることから、「飛龍
 観」と名前がついています。


 天橋立の三大景観といわれているビューポイントのもう一つは、西側の大内峠一字観公園からの眺めで、「一字観」(天橋立が横一文字に見える)と呼ばれています。


 手前が江尻地区、向こう側が文殊地区で、上の写真は北から南向きということになります。両地区間は3.6kmですから、約1時間ほどの散策コースです。砂州は文殊地区へ渡る寸前で切れていて、その部分で阿蘇海は宮津湾から日本海へとつながっていることになります。
 砂州の切れ目は2箇所あって、2本の橋が架かっていますが、江尻港から出る観光船は阿蘇海ら宮津湾を巡るコースを走っていますから、この橋は廻旋橋になっていて、遊覧船の通行時には橋がクルリと回り、船の通路が開けられます。

 
 
 股からのぞくと、
こんな景色ですね



← ご存知「股のぞき」。高所恐怖症としては、うしろへ
 よろけると落ちていきそうで、ちょっと怖かった。



 「天橋立」は、風土記(丹後国風土記逸文)によると、伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通うために梯子を作って立てたもので、そのため「天の橋立」と言うのですが、命が寝ている間に倒れて現在の姿になったとされます。
 天橋立は天への架け橋ですから、股のぞきを行うことで天地が逆転し、細長く延びた松林が一瞬天にかかるような情景を愉しむことができるというのです。
 
 
 砂州にある井戸「磯清水」は、両側が海であるにもかかわらず、飲んでも塩分を感じない不思議な名水とか。散策する観光客の休憩時の飲料水として古くからよく知られていて、和泉式部が「橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲なまし」と詠っています。環境省選定の名水百選にも選ばれています。 
 「天橋立」は古代より奇勝・名勝として知られ、いくつかの歌にも詠まれています。歌枕の一例として平安時代の百人一首の小式部内侍の歌「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立」が見られます。


 傘松公園の一段高い台地に「観光センター」がありました。
 レストランがあって、章くん、コーヒーを飲もうと上がっていきました。


    「観光センター」の
       レストランのガラス越しに →





← ちょうど出てきた、傘松公園イメージキャラクター「かさぼう」とすれ違いました。


 大きなガラス面の展望テラスから、絶景を前にして飲むコーヒーは格別…。


 天橋立は、松島、宮島とともに『日本三景』のひとつと言われています。「日本三景」のゆえんは、江戸時代前期の1643年(寛永20年)に、儒学者の林春斎がその著書『日本国事跡考』において、「松島、天橋立、厳島 三処奇観」と書き記し、これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされます。
 その後、1689年(元禄2年)に儒学者貝原益軒が、その著書『己巳紀行(きしきこう)』(丹波・丹後・若狭紀行)において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記しています。これが「日本三景」という言葉の文献的な初出とされますが、この書き振りから貝原が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた認識であったと推定されています。
 日本三景を雪月花にあてて、「雪」は天橋立、「月」は松島、「花」は紅葉を花に見立てて宮島としているのは、まことに風流と言うべきでしょうね。
 

 午後2時30分、傘松公園をあとにして、下りのケーブルカーに乗りました。


 せっかく冬の若狭に来るのだから、吹雪の舞い散る日本海の波濤砕ける後継を期待していたのですが、曇り空ながら風もなく穏やかな一日で、途中の滋賀・福井県境の山中には残雪が見られたものの、雪の気配はなし。
 自分で運転しなくていい今日ぐらいは、雪の北陸を実感したかったのですが…。


 午後2時45分、籠神社の駐車場からバスは帰途に…。


 このあと小浜市内で箸屋に寄りました。日本全国で使われている箸の8割がここ小浜で作られていることをはじめて知りました。
 午後4時45分、小浜を出発。外も暗くなって、バス内にはビデオが流され、ほとんどの人は睡眠タイム…。
 と…、「こんなにスムーズに帰れたのは、記憶にありません」と添乗員さんが言うように、渋滞も無く7時20分に名古屋駅到着。ビデオが終わりまで見られなかった…と残念がっていた人もいました(笑)。
 

 お疲れさまでした。 


【物見遊山257】 てっさ・たらばがに 食べ放題バスツアー 2013.02.02
 

   ( 旅の詳細は、旅のブログにも記しています。よろしければ、ご覧ください )


 テレビで「てっさ・たらばがに食い放題バスツアー」の映像を見て、「こりゃぁ行かなきゃ」と早速申し込みました。画面で「大満足です」と、かにの足をほおばるおじさんの笑顔に、期待は高まる一方…。


← 午前6時過ぎ、津新町駅を出発。あたりはまだ真っ暗…。
 乗客は4人でした。



  7時過ぎ、名古屋駅に到着、構内は人々でいっぱい。カフェや食堂も、
 たくさんの客でにぎわっていました。


 午前7時30分、名古屋駅の南口に集合。今日はあいにくの雨…、添乗員さんもたいへんです。


      
ツインタワーも、雨に煙っていました。→


 名古屋駅南口はたくさんの観光バスが並び、ツアーに参加する人たちでごった返していました。今、バスの旅は大人気なんですね。


 午前7時49分、参加者全員が揃ったところで出発! 名古屋駅前インターから名古屋高速に乗り、一宮で東名道へ。

 運転手さんに聞くと、そのあと北陸道を敦賀で降りて、しばらく若狭湾を右手に見て国道27号を走り、小浜で若狭舞鶴道に乗ります。綾部JCTから京都縦貫道に乗り換え、天橋立を目指します。
  

 午前9時20分、北陸道を敦賀インターで降りて、「昆布館」寄りました。
               
天皇陛下 献上の昆布 →


 宮内庁御用達ときいて、この昆布を買い求めようとしたのですが、毎日10時半ごろしか入荷しないとのこと。で、送ってくれるようにと頼んできました。


 このあと国道27号を西へ小1時間走り、10時45分、小浜ICから舞鶴若狭道に乗りました。 この舞鶴若狭道は、2003年(平成15年)にそれまでの舞鶴道が小浜ICまで開通して、この名まえに改称されました。現在、敦賀までの延伸工事が進んでいます。


 11時53分、宮津天橋立ICを通過。ここを過ぎるとすぐに、本線上に料金所があります。ここから12km先の与謝天橋立IC(終点)まで出入り口はないので、ここで料金を支払い、あとは自由に走ってよろしいというわけです
 

 12時10分、「てっさ・たわばがに食べ放題」の会場、『シーサイドセンター』に着きました。
 通された大きな部屋いっぱいにテーブルが並べられ、各テーブルには所狭しと食材が並べられています。
 食べ放題の「てっさ」「たらばがに」…、さらにこのツアーは「甘エビ」「たこ・ぶりシャブ」までが食べ放題で…、さらにさらに「かにの刺身」「あわびのおどり焼」、そして、}かに・うに・いくらが乗った三色弁当}までがついています。
 
 


    「てっさ」は各人のテーブルに一皿ずつ並べられて
    いて、お替り自由です。           →




← たらばがには、向かい合う2人で食べられるように間に置かれていて、はさみも2つ用意されていました。


  
← これは「あわびの丸焼き」。火がつけられていました。最初見たとき「トコブシ」かと思いました。だって、あわびと言うにはあまりに小さい…(苦笑)。




 食事時間は1時間、「どうぞ、お召し上がりください」の合図とともにスタートしました。
 
 食べ放題につき、一皿分を全てググーッとひとかきでつまむ、いわゆる『長島食い』。巨人軍の長嶋茂雄名誉監督は、ふぐを食べるときはいつも一皿一口だったとか…ということで、この呼称がついています(笑)。
 章くん、今までふぐ屋で試みたことはない、夢の食べ方です。

 …と、いつものふぐの食感とは、ちょっと違うような~?
 夢に見た『長島食い』だからでしょうか(笑)。


 激安ふぐ店などでは、高級河豚(ふぐ)のトラフグと偽り、日本近海のゴマフグや韓国産のマフグ、中国産が出されたりします。質の劣る他種のふぐや、ひどいところではカワハギやウマズラハギまで使うとか。
 確かに、トラフグ食べ放題とは謳っていませんから、ふぐを使っている限りは看板に偽りはありませんけどね(笑)。
  
 それでは…と手を伸ばした「たらばがに」でしたが、第1節の両端を切って中身を取り出してみると、水気がなくパサパサ…。
 でもこのツアーは、バス代を入れて8490円。普通ならば、かに一杯分の値段にもならない。文句を言うのが間違っていますね。
 考えてみれば、ふぐもたらばがにも、このあたりで獲れるものではない。だから、地物の高級品というわけにはいかないのは自明の理で、食べ放題といって食べさせてくれるだけでもありがたいと思うべきなのでしょう。
 みんな納得ずくで、このツアーに参加しているということなのです。
 

 章くん、30分ほどで食事を切り上げて(と言っても、てっさはお替りをしたし、かにの足は5本ほども食べてきた)、庭に出てみました。


 グルメ(?)ツアーは、これで終りにしよう。これまで、越前ガニツアーでは食べるところのない、軽〜い蟹が並んでいたし、まぐろ・いちご・SL列車の旅では、食べられたのは中トロ寿司の2貫だけ。いずれのツアーも値段から言えば当然であって、ここで美味しいものを食べようなんて望んではならない絵空事なのです。


 ガーデンの前には、宮津湾と砂州で仕切られた阿蘇海が広がっています。この全長3.6kmにおよぶ湾口砂州が、日本三景のひとつ「天の橋立」です。
 「天橋立」のあれこれについては、笠松公園からの眺望と合わせて、次の項で報告します。



1月19日(土) 復活!「藤吉郎」
    
   ↑ ヨコワ

     本マグロ →


   美味しそうでしょう



 「藤吉郎」は絶品の刺身を食べさせてくれる、章くんの貴重なお食事どころです。
 が、血圧が200あったというおじさん、昨年、3ヶ月ほど休業を余儀なくされていました。
 でも、年末に復活して、今年はもう何回か美味しい刺身を食べさせてもらっています。今日も出かけていって、ヨコワの定食に加えて、本マグロを平らげてきました。
 おじさん、養生して、これからも美味しい刺身を調理してくださいね。どなたか、高血圧の治療法をご存知の方は、ぜひご指導ください。



1月5日(土) 美里のイルミネーション
 
 美里の田んぼの中に、巨大イルミネーションが造られていると聞き、夜7時半ごろから行ってきました。
 津市美里庁舎の横を通り抜けて、国道163号をさらに登っていくと、左手に忽然と光の塊りが出現します。


 ← 南長野地区イルミネーション
  ファンタジー

  
 地域活性化ボランティアグループ「南長野12志会」の皆さんが作り上げて来たイルミネーション。南長野生活改善センターと周辺の農地を舞台に、日本の美を再現した五重塔、富士山などのオブジェが、約20万個のイルミネーションで浮かび上がります。
 昨年のテーマは「復活」! 東日本大震災等からわが国が力強く立ち上がることを願い、「不死鳥」のオブジェを制作、再生への光を灯します。 


 今年はさらに、「希望」をテーマに青龍を加え、豪華な輝きを美里の夜空に放っています。


 昨年の12月初旬から点灯しているとのことで、もう今は訪れる人もまばら…。章くんがいた20分ほどの間に、4〜5台の車がやって来ました。
 一見の価値は十二分にあるイルミネーションです。「南長野12志会」の皆さんにエールを!


イルミネーションの紹介ついでにもうひとつ

 これは、松阪のナオミ先生のイルミネーション。伊勢道の松阪インターを降りて、2つ目の信号を右に曲がるとすぐに、田んぼの中に見えてきます。
 産婦人科の医師が少ない南勢地方の出産を懸命に支えるナオミ先生。そのイルミネーションに、今年もまた新たな光が加わる。
 
  

 美里イルミの帰り道、毎年、大きなその年の干支を飾る「辰水神社」に寄ってきました。今年もジャンボ干支潜り門の上に大きな巳の親子が鎮座していました。
 この神社では、「家族円満、万民和楽、五穀豊穣」を願い、この地域の農業後継者達がジャンボ干支を完成させて、毎年12月29日から2月11日まで辰水神社の参道に「干支潜り門」として奉納しています。山村の文化振興と地域活性のため、又地域のシンボルとして参拝者に期待され好評である…とか。
 奉納後のジャンボ干支は、近隣の会社や商店に引き取られ、それぞれの店先や敷地内に祀られますが、過日、丑年のジャンボ干支を祀ったお店の前を通ったときのこと、アメリカ帰りのあっちゃん、「ここ、焼肉屋さん?」と言っていました。
 今年は巳年…。日本は大きく脱皮して、力強い国に生まれ変わることができるでしょうか。


   
1月5日(土) 吉川栄治、室生犀星らの作品 自由公開へ


 「宮本武蔵」や「三国志」で知られる作家・吉川英治らの作品が、今年から自由に利用・閲覧できるようになり、元日以降、ネット上に続々アップされている。没後50年が過ぎて著作権の保護期間が切れたためで、今年は、ほかに「遠野物語」を著した民俗学の祖・柳田国男、詩人の室生犀星らも加わる“当たり年”だ。(読売新聞抜粋)


 高校時代に吉川英治の「太閤記」に引き込まれ、バス停で読んでいて、やって来たバスに気づかずに乗りはぐれたことがあった。
 織田信長の比叡山焼き討ちの場面では、尻込みする家臣たちに「あの坊主どもは、御法の道を自ら辱め、仏の御心に背いて、鬼畜の所業を繰り返している。彼らの非道が、いかに百姓や町民を苦しめてきたことか。…」と大演説を行い焼き討ちの必然を説くのだが、その迫力と説得力に、「信長は時代を開く英明さと言葉を持っていたな」と友人の植村昌男に言ったら、「あれは吉川英治が言わせてるんだ」と言われた。
 あれから50年…、章くん、心当たりを訊ねたりしているが、東大を中退したあとの植村の行方は杳として判らない。


   
1月4日(金) 阪急三番街
 

 ちょっと田舎ボケしてきたかなと思ったので、大阪に行ってきた。実は章くん、昭和40年代の半ばに、大阪に1年ほど住んだことがあって、連夜、梅田や難波をうろついていた。
 阪急の最終電車に乗り遅れて、当時住んでいた吹田まで何度タクシーで帰ったことか。乗車拒否全盛の時代で、「5000円もらわな行けまへん」「10000円やな!」なんて当り前のように言われた。「3千円で…」と言うと、運ちゃん、あたりを歩いている人に片っ端から「吹田方面、3千円」声をかけて乗り合いタクシーに豹変…、5人乗せて一人ひとりから3千円を受け取って荒稼ぎだ。
 「阪急三番街」は阪急電鉄梅田駅に併設されたショッピングセンターで、地上部分もあるが形式的に地下街に近い(国土交通省の定義では民有地の地下にある店舗は地下街ではないとされているらしい)。地下に人工の川があることで知られていて、僕はこの町ができるころに津に戻っているのでおとずれたことがなく、「地下2階に川が流れいるんや」と噂に聞いていた。


            デパート+ホテルの 阪急梅田ビル →
 
 
 駅前、駅裏とも、当時とはいでたちが全く変わっていたが、あのころ揉みくちゃにされながら渡った大阪駅南口の交差点は、同じ位置にあった。でも、あのころの、赤信号の間に溜まりに溜まった人の波が、青信号になるとどっと流れ出す混雑は、もうない。人の流れが、地下道やビルとビルを結ぶ空中連絡路へと分散されているのだろう。


← これが、地下を流れる川
大阪駅北中央口

 あれから40数年…、大阪は大きく変わった。その第一歩が「阪急三番街」で、その後大阪は「万博」を経て「関空」の完成から「USJ」のオープンと変貌を遂げていくが、横山ノックの混乱のあとは太田房江知事・平松市長の元の停滞、そして橋下徹の出現と、大阪市民の演出は相変わらず心憎い。


      大阪駅北口、右手が伊勢丹ビル →


 こんな街が地下に…と人々を驚かせた「阪急三番街」も、いまや年老いた。その古さが、章くんにとってはどこかに懐かしさを感じさせてくれるような気がして、その一軒「川太郎」で昼食をとった。店の入り口に並べられた待ち椅子に30人ほどの客が座っている。いつもならば「待って食わなきゃならんほどのものなど、この世にあるか」と、まず待つことなどしない章くんだが、大阪は椅子に腰掛けて待つのも町の雰囲気に似合っている。
 

 午後4時前、大阪をあとにした、何となく高揚して…。やっぱり、ときどきあの人ごみの雑踏を歩くことは、精神衛生上必要だ。



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物見遊山 No.39  
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