【物見遊山 P4】
【29】爽秋の軽井沢 (10/ 15・16)  軽井沢物語と浅間山・万平ホテル


 どうしてこんなに良い天気の日が続くのだろうか、僕の体がもたないではないか…と嬉しい悲鳴をあげつつ、今日も澄み切った秋の空に誘われて、午前6時、信州を目指す。
 恵那SAで朝食を取りながら、案内所で貰った地図を見ていたら、いつも走る中央道の先に「長野道−上信越道−関越道」が続いている。上信越道−関越道はまだ走ったことがない。こいつを走ってみようと思い、ついてはどこへ行こうかと地図をたどると、「軽井沢」の地名を見つけた。今日の目的地はこれだ。

長野道 豊科付近
長野自動車道
 上り下りの多い中央道から、松本盆地を走る長野道に入ると、道は平坦で走りやすい。遠くに中央アルプスの峰々を望んで、ゆったりと走る。 


         運転しながらガラス越しにパチリ


上信越自動車道浅間サンライン
 梓川SAでコーヒーを飲んだ。すでに10時を過ぎている。ゆっくり走りすぎか。さらに北上して、ほどなく更埴JCTから上信越道へ入る。このあたりはトンネルが多い。片側1車線、ところどころ2車線になっていて、速い車はここで低速車を追い越していく。交通量の少ないところでは、この方式の高速道路で十分だなぁと思いつつ菅平高原を左に見て過ぎると、やがて小諸IC。ここで高速道路を下りて、あとは広域農道「浅間サンライン」を東へ走り、信濃追分で国道18号線に合流して軽井沢に入紅葉の浅間山る。
 道の左手、紺碧の空を背景に錦の衣をまとった浅間山が望まれる。『小諸でぬけりゃ 浅間の山にヨー 今朝も三筋の 煙立つ』と馬子唄に謡われた浅間山は、佐久平からはどこからでも見ることができる活火山である。その優美な姿は、文学や絵画など芸術の対象として、島崎藤村の「千曲川旅情のうた」、堀辰雄の「信濃路」や梅原龍三郎・地元の画家小山敬三の油絵などに盛んに描かれている。
 この優しげな山は今も時々噴火を繰り返していて、鬼押し出しに見られる膨大な凝結溶岩は、1783(天明3)年の浅間山大爆発の痕跡を今に伝えて、当時の惨事を物語っているが、刈り入れが終わった田んぼの向こうに収まる今日の浅間は、どこまでものどかであった。


軽井沢
 「軽井沢物語」やホテルのパンフレットを参考に軽井沢の歴史を紐解いてみると、上古の時代、日本武尊が「吾妻はや、あぁ、吾妻はや」と三嘆されたのは、関東と信濃を画す碓氷峠の頂上であった。軽井沢を通るこの道が、古来、関東と北陸を結ぶ要路であったこと、それが難所の続く道であったことを、よく伝えている話である。平安時代から鎌倉にかけては、この高原台地は関東馬の産地として知られている。
 江戸時代になると諸国への街道が整備されて、参勤交代など人々の行き交いも大きく増え、諏訪・木曾方面から来る中山道と北国越後の高田・加賀の金沢から来る北国街道が合流する軽井沢は、大名行列・善光寺参り・佐渡の金や北の海で採れた塩などを運ぶ牛馬の声が賑やかに響く宿場町であった。
 賑わう宿場の反面、この地の農村地帯は高冷地のためごくわずかのアワ、ヒエ等の雑穀物が主産という寒村で、しかも例年の如く襲う冷害や活火山浅間の噴火による災害に見舞われ、加えて宿場への助郷にかり出されるため、農業に携わる民の生活は悲惨なものであったと伝えられている。言うなればこの時代の軽井沢は、旅人たちの落とす路銀が生活を支える大きな収入源であった。
 ところが明治の時代になると街道を往来する旅人は年々少なくなり、かっての隆盛を極めた宿場もさびれて住民たちは四散し、高寒冷地の一村として衰退の一途をたどるばかりであった。さらに、明治17年碓氷新道(現在の国道旧18号線)の開通によって、このあたりで一泊する必要もなくなり、中山道沿いの旧宿場町は決定的な打撃を受ける。
 更に、明治26年 (1893) に鉄道(上野〜直江津間)が開通すると、この辺りを歩く旅人は一人もいなくなった。なにしろ、横川から軽井沢・沓掛・追分の三宿までの碓氷峠越えは、たっぷり一日の行程で、それゆえにこれらの宿は賑わったのであり、歩く旅人がいなくなれば宿場の命数はそれまでで、ここに長く続いた浅間三宿の歴史は完全に終止符を打つに至ったのである。
 維新後、欧米から続々と入ってきた宣教師の一人 A・C・ショウは、布教の途次たまたま通った軽井沢の風光…樅の林、乱れ咲く高原の花、青い空気、太陽の輝き、住民たちの親切さに魅せられ、明治21年 (1888) 、大塚山に簡素な家を建て、一夏を過ごした。これが軽井沢の別荘の第一号である。このあと、ショウ氏とその友人達は次々と夏を軽井沢で過ごすようになり、彼ら外国人の手によって避暑地として新しい生命を与えられた軽井沢は、碓氷新鉄道によって東京からの便利さが見直され、今日の姿を築いてきたのである。


旧軽井沢のホテル「音羽の森」道の両側には別荘が並ぶ
 中軽井沢駅を過ぎて左折し、旧軽井沢へ向かう。道の両側には、オシャレなレストランや別荘が見られる。
 午後1時、出発から7時間。お昼を食べなくちゃと思い、旧軽の町なかを走りながらレストランを探す。白樺の木立の中に、瀟洒なホテル「音羽の森」を見つけた。「食事 できる?」と聞くと、OK!
 置いてあったパンレットを見ると『混雑が予想されますのでご予約をお願いいたします』とある。ということは空いていてラッキーということか。重ねてのラッキーは「開業20周年2000円ランチ」。9月24日〜12月31日の期間限定で、税・サービス料込み。メニューは『アミューズ・グール(一口前菜)・スープ・シェフのお薦めのメインディッシュ(例 @ 渡り蟹のリングイネ A 極薄のパートで包んだサーモンと帆立貝のフリット、香草風味 B 豚肩ロース肉のプティサレのグリル C ホロホロ鳥のフリカッセ、栗と秋トリュフの香りで(800円プラス)D 牛フィレ肉のポワレ シェフのスタイルで(1000円プラス)から1品を選ぶ。僕はCを頼んだ。・デザート・コーヒー』と、これで2000円+800円。旧軽井沢礼拝堂
 食事を終えて玄関を出ると、右手に白い教会が見えた。「旧軽井沢礼拝堂」と呼ばれ、日本キリスト教団の牧師により司式される本格的なキリスト教式の結婚式を挙げることができるという。結婚式を軽井沢で…とやってくるカップルは結構いるのだって。両家の親戚縁者は、遠方より駆けつけ1泊で参列しなければならないということになる。
 山々は秋色に色づき、錦秋たけなわの景観を呈しているが、里の紅葉はまだ2週間ほど先のカンジだ。今から山へ出かける時間もなく、街中をあちこちとぶらつく。
 軽井沢銀座を歩いてみた。洋服屋、特産のジャムやはちみつを売る店、みやげ物雑貨店などが雑然と並んでいる。この通りが日曜日などは若い子たちで溢れ返るという。入ってみるほどの店もなく、通り抜けただけで帰ってきた。 
 駅の南側、西武鉄道グループが新しく開いた地域は、プリンスホテルを中心にプリンス通りと名づけられた新道の両側におびただしい数の新しい店が並んで、一大ショッピングモールとなっている。その周辺には晴山GC・軽井沢GC・軽井沢72GCなどのゴルフ場が広がり、その東側、碓氷峠から矢ケ崎山一帯の斜面は冬場はスキー場になる。


万平ホテル万平ホテル 庭園の紅葉
 10月後半から僕の仕事が忙しくなり、あまり遠出することもできなくなりそうなので、今日は軽井沢でゆっくりと泊まることにした。万平ホテルに空室の有無を尋ねてみたところ、空いているという返事だ。
 旅籠「亀屋」として明治時代に生まれた万平ホテルは、外国人避暑地として栄えた軽井沢とともにその歴史を歩んできた。1894年(明治27年)に、外国人専用のホテルとして「亀屋ホテル」に改装、翌々年、外国人が読みやすいように万平ホテル=MANPEI HOTELへと改名。終戦後は外人専用ホテルとしてGHQに接収されたりしているが、返還後の1972(昭和47)年にはキッシンジャー・田中角栄総理会談の会場となったり、室生犀星・堀辰雄・三島由起夫らが繰り返し投宿している。
 当初外国人専用のホテルとして建てられた万平ホテルのドアは、よくあるような自動ドアではなく、古くも品のある大きなドアだ。ロビーも、天井の高い部屋も、そして廊下のステンドグラスも気品と万平ホテル カフェテラス歴史を感じさせ、落ち着いた雰囲気をかもし出している。部屋や廊下、そしてダイニングについているライトは、ぽ−っと灯っていて、このホテルがくつろげるのは、木造建築のあたたかさやアンティークな家具とともに、このライトのおかげであるのかもしれない。
← ジョン・レノンも愛用していたというカフェテラスでは、ホテルの客がようやく色づき始めた庭をながめながら万平ホテル 玄関語り合っていた。

 部屋へ入ってから、軽井沢72GCへ「明日、プレーできる?」と尋ねると、OKとの返事。しかも11月末まで特別料金で安くプレーできるという。クラブ一式とシューズはいつも車のトランクに入れている。
 夕食は、京料理の「たん熊」がホテルの敷地内に支店を出していて、久しぶりの和食にありついた。冬場は休業すると言っていた。
 食事を終えてたん熊の離れからホテル本館へ戻るあいだ、わずかの距離であったが夜の外気に触れると、身震いするほどの冷たさであった。

軽井沢72ゴルフクラブ 西コース
軽井沢72GC
 明けて16日。今日も空は晴れ渡り、絶好のゴルフ日和だ。西コースゴールド、8時52分のスタート。なだらかな丘陵地に、見渡す限りフェアウエイが続く。芝生は美しく根付き、グリーンは滑らか。打球練習場の打席数は100近くあろうかというほどで軽井沢72 西コース、とにかく広い。



関越自動車道を東京へ
 午後2時30分少し前にホールアウト。風呂に入って、ゴルフ場を後にしたのは3時を回った頃であった。
 さて、帰り道をどうするか。もと来た道をダラダラと7時間かけて帰る気はしない。かといって、佐久や小諸を回るのも今からでは無理だし、地道を走っていては今日のうちに帰りつけるかどうかあやしい。
 ここで名案がひらめいた。東京へ赴任している友人に、「今から車で行くが、しばらく車を預かってほしい。今度、君が帰省するとき乗ってきてくれ」と電話を入れると、「いいよ」の返事。碓氷軽井沢ICから上信越道に乗って、東京に向かった。このあたりの関東山地の山々は、山頂が奇妙な凸凹にとがっていて面白い形をしている。秩父セメントなどの工場があるから、石灰岩の土地なのだろう。石灰質だから雨や流水に浸食されて、とがったりくびれたりして凸凹の形になったのだろうか。
 群馬県に入って藤岡JCTで新潟から来る関越道に合流。埼玉の川越あたりから車が増え始め、所沢にかかると所々で渋滞。練馬の出口ではノロノロで、三鷹に住む友人に5時15分に中央線三鷹駅まで出て来てもらって車を渡す約束が、6時前になってしまった。
 津へ帰ることのできる近鉄連絡の最終新幹線を三鷹駅で調べてもらうと、東京駅発9時19分の「のぞみ」だと教えてくれた。三鷹駅で切符を買ってから8時前まで駅前で友人と過ごす。「この車、いつでもいいからな。2・3カ月、乗っててくれてもええぞ」と言うのに、「次の日曜日にちょうど津へ帰るから、持っていくよ」と言ってくれる。持つべきものは友達だ。相手はそうは思っていないだろうな。
 午後9時19分東京発「のぞみ」にて、10時57分名古屋駅着。11時05分発の近鉄特急最終便に乗り継いで、日付が変わる直前に津駅に着いた。


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