【273】  四人の美女 - 法隆寺訪問記 -
        2014.05.18

 法隆寺へ行ってきた。午後2時ごろに到着。門前のみやげ物店に駐車させてもらって、早速に南大門(国宝)をくぐり、金堂、五重塔が立ち並ぶ西院伽藍へと向かう。
 「南大門」は、
法隆寺の玄関にあたる総門。創建時のものは、永享7(1435)年に焼失し、永享10(1438)年(室町時代)に現在の門が再建されたとある。

 両側に土塀の並ぶ参道の正面が「中門」(もちろん国宝)。深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものだ。

            
 西院伽藍の入り口 「中門」→

 中央に柱をしつらえたこの門を見ると、梅原 猛の「隠された十字架」を思い出すが、門の左右に立つ金剛力士像(奈良時代)は、日本に残る最古のものだとか。それにしても、その形相の恐ろしいこと!

 法隆寺の伽藍、御物は、ほとんどが国宝か重文である。拝観料を納めて足を踏み入れた回廊が、すでに国宝。目の前に並ぶ、五重塔・金堂・講堂など、すべて国宝だ。
 五重塔の一階の塑像群(奈良時代)を南東北西と一巡して拝観し、金堂では釈迦三尊像の前で暫し屹立…。
 伽藍や仏像については、今さら繰り返すまでもないので省略させてもらうとして、このあとは聖徳太子の尊像(平安末期)を御本尊として安置する聖護院(国宝)に上がったのち、大宝蔵院(百済観音堂)へと向かう。


 大宝蔵院にはおびただしい数の宝物が収められているが、足を止めたのは「推古天皇の御物の玉虫厨子(飛鳥時代)」「金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)」そして「百済観音(飛鳥時代)」。
  さらに…、5年ぶりの訪問だが、いつ訪れてもこの寺には発見がある。今日は「夢違観音」像のふくよかなやさしさに、今さらながら1400年という歳月を越えて来られた、信仰というものの奥深さを知らされた思いであった。

← 悪い夢を見た時に この観音様にお願いをすると
 良い夢に取り替えてくださるという。




    
大宝蔵院(百済観音堂)から西院伽藍を→

 『
法隆寺では、百済観音の安住の殿堂をお造りすることが永年の悲願でありました。その夢がついに平成10年秋に実現いたしました。それがこの百済観音堂であります』とある。
 朱塗りの柱に白塀が真新しい宝物殿は、かつて金堂消失を経験している法隆寺にあって、地震や火災から寺宝を守るのに、万全の備えが施されているのだろう。

 東大門(国宝)をくぐって東院伽藍へ…。そうとは知らずに訪問したのだが、夢殿に安置されている救世観音が、今日18日まで春季の御開帳で、黄金に輝くそのお姿を拝んできた。

 さらに、その東の中宮寺に向かい、「如意輪観音」に拝謁。この観音様は、前回に訪問したときには弥勒だと説明を受け、「如意輪観音じゃないの?」と訊ねたら、「その次第はこの本に記してあります」と奈良の仏像を解説している写真集を見せられた記憶がある。
 今日は「如意輪観音」との説明に、「一時期、弥勒と言っていましたよね」と訊ねてみた。「半跏思惟像という形が広隆寺の弥勒像と同じなので、学会で弥勒といわれたときがあったのです。当寺では、ずっと如意輪観音と申して参りました」との説明を受け、「いやぁ、安心しました」と申し上げてきた。

 さわやかな初夏…、夢違観音、百済観音、救世観音、如意輪観音と、日本の古代史を彩る四大美人にお目にかかれて、至福の一日であった。

 家に帰って、録り溜めていたビデオを見たら、ちょうど今朝の「NHK日曜美術館」で、明治から昭和のはじめにかけ、失われゆく古い仏画をありのままに模写し、後世に伝えようと、5千尊もの作品を残した仏画師・鈴木空如(1873~1946)の特集を放映していた。空如の最大の画業は、法隆寺金堂壁画12面の原寸大の模写を単独で生涯三度も行っていることだとされる。
 昭和24年の火災で焼失した壁画の復元に、彼の模写は大変に貴重な役割を果たしたことは言うまでもない。画壇とは一切かかわりを持たず、展覧会に出品することもしなかったゆえ、その名はほとんど知られていない空如の偉業を、法隆寺壁画の復元を通して改めて紹介しようという一編であった。
 ただ、日清戦争に出征、九死に一生を得た空如であることを紹介したのち、大東亜戦争の終戦に際し、「日本軍国主義が滅びて万歳…」と記した彼の書き付けをアップにするところに、NHKの浅ましさが見え隠れする(苦笑)。
 そういえば、金堂の壁画を見てくるのを忘れた。




【262-2】
ソウル 街歩き              2013.10.17〜19
  - 明洞(ミョンドン)、「ハムチョ・カンジャンケジャン」 -

  ●写真にカーソルを当てたとき、手の形に変われば、大きな写真にリンクしています。

 「南大門市場」を東へ抜けて、ソウル一の繁華街「明洞(ミョンドン)」を目指しました。

 「南大門市場」には、たくさんの店や屋台がひしめいています。品物の値段は安く、ソウルの庶民の暮らしを支えているとか。

 午後5時10分、あたりはまだ明るいですが、そこここの屋台から良い匂いが漂い、座り込んで乾杯している人が結構いました。
 

  南大門から東に延びる道沿いに建つこの石造りの
 重厚な
 建物は、
もと韓国の中央銀行「韓国銀行」です。
  現在、銀行機能は新しいビルに移り、「貨幣金融
 博物館」
 として開放されています。
  近くのソウル市庁、ソウル市議会議事堂などと同
 じく、日
 本の併合時代に建てられた歴史建造物です。街中を
 彩る、これら風格のある建物は、全て日本統治時代
 の遺構。コンクリートの塊でしかない近代ビルのな
 かで、ひときわその存在を際立たせています。

 ← このモダンなビルは「ソウル中央郵便局」

 近代的な感覚のデザインビルですね。

 
 
 


   
途中にあった「新世界百貨店」
            入ってみました。→


 右の写真はパンフレットよりスキャンしたものですが、この本館はやはり日本併合時代のもの。このエリアで一際存在感がある洋館風の建物だとか。

 「新世界百貨店」は
1930年三越の京城店として開業し
ました。終戦後は韓国の人間が経営することとなり東和
(トンファ・とうわ)百貨店と改称されましたが、
1963年にはサムスングループの傘下となり、店名は公募
により新世界百貨店と改められました。1991年、サムス
ングループから独立宣言、2001年「新世界」と改称して
います。

 館内は明るく清潔で、とてもお洒落な空間でした。韓国最初の百貨店であるこの「新世界(シンセゲ)百貨店」は、韓国セレブ御用達の高級デパートだそうです。


 「新世界」前の交差点。ここを南へ直進すればソウル
タワー、東へ10分弱歩けば「明洞」に着きます。↓








 ソウル最大の繁華街で日本語が通じやすく、観光客に人気NO.1の明洞(ミョンドン)。交差する何本もの道路のそれぞれに専門店と屋台と人が溢れ、夜遅くまで賑わいます。      
           →

 ガイドブックを片手に、ケジャンの名店
「ハムチョ・カンジャンケジャン」を探していたら、ごつい体のあごひげを伸ばしたTシャツ姿のマッチョが近づいてきて、「どこの店をお探しですか」と近づいてきました。
 ちょっと警戒しながら、ちょっとビビリながら、「この店へ行こうと思っているのだが」とガイドブックをみせると、「ああ、あそこの赤いネオンのビルの地下ですよ」と教えてくれました。個々の人々は温かく親切…、反日は政治の建前の話です。それに、人は見かけで判断してはいけませんね(苦笑)。
 
 教えてもらったビルに行くと、地下に降りる階段がありました。
 ケジャンはワタリガニをカンジャン(醤油)やコチュジャン(唐辛子味噌)のタレに漬けたものを指し、醤油に漬けたものをカンジャンケジャン、コチュジャンタレで漬けたものをヤンニョムケジャンと呼びます。
 実は、この韓国旅行の第一の目的が、この店の「ワタリガニの唐辛子味噌漬け」を食べることだったのです。
 階段を下りると地下のフロアには何軒かの店がありますが、すぐ右手が目指す「ハムチョ・カンジャンケジャン」店です。

 「ワタリ蟹の唐辛子味噌漬け(ヤンニョムケジャン)」を頼んだのですが、韓国料理店ではメインをひとつ頼むと、いつもおかずの何品かが添えられてきます。




   「ワタリガニの唐辛子味噌漬け(ヤンニョムケジャン)」で
  す。



 薄い手袋が添えられてきました。それをはめて、唐辛子味噌まみれのカニを手づかみにし、中の身を取り出すのです。
 でも、そのままかぶりついて、バリバリと噛み砕き、殻だけを吐き出す食べ方が、ちょっと行儀は悪いのですが、いちばん効率的で美味しい食べ方でした(笑)。
 唐辛子味噌の香りが立って、カニの身が口の中でとろけます。これだけ食べに、韓国へ日帰りでも良いですね。

 日本では生肉禁止でもう幻となってしまった「ユッケ」です。→

 ごま油で練られた肉の味が広がる口の中に、添えられていたダイコンの短冊を少しわさび醤油をつけて食べると、何ともさっぱりとした口触りが広がりました。


 僕達のテーブルの係としてついてくれた男の子は、ソウルに留学中の日本人の学生。ご飯は、彼がお勧めのビビンバです。


     
店内の様子 →

 この店のことを、案内書には「地元の人にも人気の店」と書いてありました。
 が、聞こえてくるのは日本語ばかりで、今夜は日本人のお客ばかりのようです。


 この店のもうひとつのお勧めは「カンジャンケジャン(ワタリ蟹の醤油漬け)」。店の名前になっているぐらいですから、こちらのほうがいち押しのメインディッシュだったのかもしれません。
 今回は、韓国らしい唐辛子漬けを頼みましたが、今度来たときは是非これを食べようと思います。

     
「カンジャンケジャン)」。パンフより →


 「ハムチョ・カンジャンケジャン」を出て階段を上ると、店の上、地上1階に
クルミ饅頭を売る店があります。

 ここのおばちゃんはすごい。「美味しいお饅頭、いつ買うの? 『今でしょう』。 このお饅頭をお土産に持っていったら、もらった人は『10倍返し』だよ。『じぇじぇじぇ~!』」と、日本での流行語を網羅して、饅頭を勧めてきます。
 「日本人よりも、はるかに日本語が上手いなぁ」と笑っていたら、55000ウオンも饅頭を買わされていました。


 時刻は7時…。明洞では、まだまだ宵の口です。

 昼間は車が走る道路も、夕方ごろから屋台店が出て、いろいろな品物を商っています。








 
 ロッテの「ヤングプラザ」です。ビル全体が広告塔のよう
でした。↓







 まだまだにぎわう明洞ですが、昨夜はあまり寝ていない章くん。午後8時、そろそろホテルに戻ることにしました。


 これは、帰り道にあった両替所。となりあって2つの店が並んでいるのですが、手前の店は明るく、制服を着た店員が並んでいる窓口はガラス戸に囲まれていて、セキュリティも万全のよう。それに引き換え、向こう側の店は表に戸もなく、窓口に座っている女の子は私服のTシャツで、とても金融機関(?)とは思えない無防備さ…。
 でも、それが入りやすいのか、こちらの店には客の姿は見えないのに対して、向こう側の店には入れ替わり立ち替わりして、お客さんが絶えないのです。
 ソウルには、路上の売店でも両替商を営んでいて、円・ドル・ユーロに対して手書きの換算比率表が貼り付けてある気楽さです。客は、その表を見比べて、「この店は換金率がいいな」と判断し、1万円札を…100ドル紙幣を…差し出します。眠そうなおばちゃんが、大きな電卓に数字を打ち込み、「ウオンでこれだけだ」と示してくるのを見て、「OK」と合図すると、腰の巾着袋からウオン札を出してきて「はい、10万ウオンだよ」と渡してくれるのです。

← 帰り道も、「南大門」の横を通りました。










 南大門の交差点で後ろを振り返ると、大都会ソウルのビル街がまばゆい光を放っています。    



 ホテルへついた後、16階の「大浴場」へ行きました。「フレイザープレイス南大門ソウル」には、日本のホテルを模したのか、あるいは日本人客を呼び込むためか、最上階に大浴場を設けています。
 その1に写真を紹介していますが、日本の温泉旅館のような大規模なものではなく、浴槽はおよそ30㎡、カランは8基ほどの大きさなのですが、風呂好きの面々には部屋の小さなバスよりもゆったりできて嬉しいものです。
 もっとも、2日目は遅くまで町を歩いていて、「大浴場は?」と聞いたら「午後10時で終わりました」と言われたのには驚きました。10時に終わる風呂屋なんて聴いたことがないぞ…と、ちょっと憤慨しながら、部屋のバスに湯を入れました。

← 16階からは「南大門」が足の下に
 望めます。

 ラウンジで、ソウルの夜景を見ながら一献傾けると旅の思いでも深まったのでしょうが、今夜は眠い(苦笑)。

 では、また明日…。おやすみなさい。


【262】
ソウル 街歩き              2013.10.17〜19
  - そこここに見られる 韓国併合時代の名残り -

  ●写真にカーソルを当てたとき、手の形に変われば、大きな写真にリンクしています。

 
 
2004年、新装成ったソウル駅の横に残されている
「旧ソウル駅(京城駅)」。 日本併合時代に竣工。

 エア・アジア・ジャパンが中部国際空港(セントレア)就航を記念して売り出した「ソウル片道888円キャンペーン」に応募したところ、往復とも888円の航空券をゲットした。
 空港使用料などを合わせても運賃は往復の合計が5860円、我が家から約1時間の名古屋往復よりも安いソウル行きであった。

 昨今の日韓関係から、ちょっと懸念もあった韓国行きだったけれど、ホテル・空港・鉄道案内などはもちろん、街の食堂や屋台のおじさん、道を教えてくれたおばさんなども、とてもムフレンドリーで優しく、個人レベルではとても暖かい韓国の皆さんであることを実感した。
 その顛末は、http://akkiy.o.oo7.jp/z-/005-201310-.html#20131020 にも…。

         
♢       ♢        ♢       

  午前11時50分、定刻に中部国際空港を飛び立ったアシアナ航空OZ121便は、名古屋から若狭湾を抜けて日本海を横切り、慶尚北道から朝鮮半島へ入ってソウルへ向かう。ほぼ一直線のルートを飛んでいく。
 午後1時50分、ほぼ2時間のフライトで、予定の時刻に仁川空港に着いた。ソウルは近いなぁ!

← 仁川空港のメインゲートには
 大韓航空機ばかりだ(笑)


 イミグレ(イミグレーション、入国審査)は、別に脛に傷持つ身でもないけれど、いつも緊張する。特に今日は、日ごろ韓国に対して厳しいことばかり書いているので、「ちょっと別室に」と呼ばれるかと思っていたが、両手人差し指の指紋を取られただけで、問題なくOKだった。
 今日はソウル市内まで「リムジンバス」で行く予定だ。インターネットで調べると、宿泊するホテルの近くに停留所があると書いてあった。
 そのバスの乗り場を、空港内の案内書の女の子に聞くと、メモを書いて「その先2番の出口を出て、6001の停留所です」とにこやかに片言の英語混じり教えてくれた。
 
 仁川空港から南大門経由のリムジンバスは1時間に2〜3本、20〜30分毎に運行されている。行く先別に番号が異なるわけだが、一帯には5〜6人のジャンパー姿のおじさんがいて、バスが着くと番号札を渡して乗客の荷物を預かり、バスの横腹の格納室へ積み込んでくれる。
 乗客は手提げカバンひとつで乗り込み、ドライバーに行く先を告げる。章くん、「南大門」と告げると、「ワン…フォー…」と言う。バス代だから1400円では高すぎる、140円が適当なところだろうと判断し、200ウオンを出すと、「ノォ、ノォ」と首を振る。
 そうか、この日の円・ウオンの交換比率は0.092。円の数字の1割弱がウオンのだから、200ウオンでは18円だ。リムジンバスが仁川空港からソウル市街地までの60kmを、18円で走ってくれるわけはない、1400ウオン(≒126円)だと思い直して2000ウオンを出すと、収納箱へ入れろという。すると別の釣銭箱から600ウオンが出てきて、運転手さん、「どうぞ」と言ってくれた。
 座席は大きくて革張り、1列は2席・通路・1席という配列で、ゆったりとしたすわり心地だ。仁川空港から金浦空港へ寄り、その後はノンストップでソウル市内へ向かう。仁川空港からソウル駅までの所要時間は約70分である。

← 革張りのゆったりした座席。日本のデラックス
 バスなどよりも、乗り心地は良い。

 仁川空港を出発したバスはすぐに高速道路に入る↓


 仁川空港は、朝鮮半島の東側、ソウルに近い38度線のやや下側、黄海に浮かぶ永宗島と龍遊島の間にあった干潟を埋め立て、2001年に開港した、大韓航空及びアシアナ航空のハブ空港である。
 だから、自動車道を利用しても、鉄道でも、空港を出るとすぐに海を渡る。

 仁川空港を出てから30分少々、バスの窓に管制塔が見えた。金浦空港である。
 リムジンバスは、仁川空港を出ると金浦空港に寄り、そのあとはノンストップでソウル市内へと走る。

← 金浦空港の管制塔が見えた。


 午後3時、金浦空港を出発。10分ほど走ると、道路の左手にソウル市内を東西に貫く「漢江(ハンガン)」の流れが見えてきた。    


 漢江は、
日本海に面し、景勝地である金剛山を有する北朝鮮側の江原道に源を発し、38度線を越えて南流してきた北漢江と、江原道南部(韓国内)に源を発し、京畿道南東部を北流してきた南漢江がソウル市の東で合流し、ソウル市域の中央部を北西方向へ流れ、黄海の江華湾に注いでいる。
 ソウル市よりも下流の坡州市の烏頭山統一展望台付近で臨津江と合流する地点では、北朝鮮との事実上の国境である、軍事境界線が設定されている
 
 
 

   見えてきた赤い橋は「傍花(パンファ)大橋」 →


 今年7月30日の南端連結道路の工事現場で床板が崩壊する事故が発生して、中国労働者2名が死亡したと報じられていた。

 ソウル特別市と京畿道には27の橋が漢江に架かっている。仁川国際空港または金浦国際空港からバスでソウル東部のソウル駅などへオリンピック大路に沿って移動するときは、傍花大橋からオリンピック大橋まで20の橋を見ることができるはずである。

 
この緑の橋は「漢江鉄橋」、1900年に開通した
  漢江では1番古い橋で鉄がふんだんに使われている→


 大きな漢江に架けられた初の近代橋梁だが、朝鮮戦争の際、北朝鮮軍の南下を阻止するためとして、この橋は漢江大橋とともに爆破されました。日韓基本条約の締結に基づき、日本から供与した資金を充てて、1969年に完全復旧された。

 午後3時40分、ソウル駅が見えてきた。2004年のKTX(韓国高速鉄道 Korea train express)開業に合わせて、駅舎をリニューアルしたはずだが、遠景では周囲のビルに溶け込んでいて、どれが駅舎か解らない。
 日本統治時代の1925年に造られ、2004年までソウル駅として使われていた旧駅舎の屋根が青く輝いていて、遠くからもその存在が確認された。
  ソウル駅から3分、次が「南大門市場」停留所である。運転手くんに合図して停車、バスを降りると格納庫に収納してあった荷物を引っ張り出してくれて、「サンキュー!」。
 この停留所から章くんが宿泊する「フレイザープレイス南大門ソウル・ホテル」までは、徒歩5分。歩道をゴロゴロと旅行ケースを引いて歩いていった。


←「フレイザープレイス南大門ソウル」(パンフレットより)

 このホテルは、今年(2013年)4月にオープンした4つ星ホテルだ。日本人観光客の半分以上が訪れるという南大門市場へ徒歩5分、ソウルの中心部「市庁エリア」に位置し、地下鉄1・2号線「市庁駅」からは徒歩6分! 繁華街の明洞へは徒歩10分、また、李氏朝鮮の王宮「景福宮」までも、市庁舎や光化門などを見ながら歩いて30分。これら観光スポットにも近く、ビジネスの中心街「市庁駅」エリアにも至近である。
 新しいホテルだから内部も清潔で、従業員の対応も行き届いている。そして、最上16階には大浴場と露天風呂まである。

 ツインベッドの部屋だ バスタブもある  最上階のラウンジ
 
ジャグジもある大浴場 露天風呂 ラウンジの眼下には南大門が

 朝食バイキングがついて12000円少々の値段だ。まだ新しいので、ガイドブックなどには掲載されていない。今が狙い目のホテルと言えるかもしれない。


 さて、部屋で旅装を解いて、備え付けのインスタントコーヒーを飲んで少し休憩…。午後5時、夕食を兼ねて、街歩きに出かけた。

   
【以上、12月2日 記】【以下、26年1月17日 記】

 ホテル「フレイザープレイス南大門ソウル」から南へ5分ほど歩くと、韓国の国宝第1号に指定された「南大門」がある。2008年2月の放火により、花崗岩製の石造の門を除いた木造楼閣の大部分が焼失したが、2010年2月10日から、今年の4月まで復元工事が行われ、5月4日に復元記念式典が行われた。
 1392年に李氏朝鮮を建て漢城に遷都した太祖「李成桂」によって、1395年から都の城門として建設され、1398年に完成した。正式には「崇礼門」と名づけられたが、俗に「南大門」と呼称されている。

 李氏朝鮮では支配国である中国からの勅使に対して、王が王都の郊外に出向き、「三跪九叩頭の礼」(跪き、手をついて3回頭を地面に打ちつけるという礼拝を、3回繰り返す)で迎えていた。その郊外の地が、この南大門だと思っていたが、「迎恩門」(ソウル市西大門区峴底洞(ヒョンジョドン)101番地に1896年まで建っていたが、現在は独立公園内の独立門の正面に、2本の迎恩門柱礎だけが残っており、大韓民国指定史跡第33号となっている)であった。

← 門は市民や観光客に解放されていて、
 下をくぐることもできる。


 城壁都市であった当時の漢城(かんじょう)には門が4か所あったが、最も規模が大きいのはこの崇礼門である。


      一般的な懸板(扁額)が横書きであるのに対し、
     崇礼門の懸板は縦書きである。          →



 これは炎の形に似ている冠岳山(ソウル市の南にある山)からの火気を阻むため、文字を縦に書いて城門を塞ぐという風水的措置によるとか。 


← 南大門中央下の通路の上には、極彩色の龍が描かれていた。

 

 1948年の大韓民国建国後、朝鮮戦争ではソウルの大部分が破壊されたが、崇礼門は一部の損傷にとどまり焼失を免れた。破損した部分の大規模な解体、改修工事が1962年に行われた後、同年12月20日に改めて同国の「国宝第1号」に指定された。元々日本が勝手に決めた国宝であり、日本統治時代の烙印であるとして、韓国国内の一部には「国宝第1号」を朝鮮の文化的な「独立宣言」である「訓民正音」等に変えるべきであるとの意見もある 。

【以上、26年1月17日 記】




【物見遊山261】 矢田寺(あじさい寺)松伯美術館   2013.06.23


 60種1万本のあじさいが見頃を迎えていると聞いて、あじさい寺の別名で有名な奈良県大和郡山市の「矢田寺(やたでら)」に行ってきました。
 2週間ほど前に入梅が宣言されていますが、今年は一向に雨が降らない空梅雨…。各地から水不足や、猛暑日が続くなどのニュースが届く日々です。でも、2日ほど前に降った雨であじさいたちも息を吹き返したかなと思い、朝早くから出かけました。
    
    午前8時、到着。一番奥の駐車場がまだ空いていて、
   山門まで5分ほどの坂道を登りました。     →




 お布施400円を払って山門をくぐると、そこからが大変で延々と石段が続きます、


 登り切ると、左右に白壁が続き、僧坊が並んでいます。 →


 手前の門が、「大門坊」です。矢田寺には、他に北僧坊・南僧坊・念仏院と合わせて四つの塔頭があります。
 



← 本道前の参道の脇に、お地蔵さまが並んで
 いました。



 この大きなお地蔵さまは、昔、ある人が家の味噌が美味しくないと嘆いていたところ、枕元に現れたこのお地蔵さまに味噌を供えたら、家じゅうのの味噌がみんな美味しくなったという言い伝えから、「みそなめ地蔵」と呼ばれています。


 矢田寺(矢田山にあるため矢田寺(やたでら)と呼ばれていますが、正式名称は金剛山寺)は日本最古の延命地蔵菩薩を安置していて、日本のお地蔵さま発祥の地だそうです。当初は十一面観世音菩薩と吉祥天女を本尊としていましたが、 弘仁年間に満米上人により地蔵菩薩が安置されて以来、地蔵信仰の中心地として栄えてきました…とあります。


     本堂です。ご本尊は「木造地蔵菩薩」です。
  
本堂を裏手から

北 僧 坊

お墓もアジサイの中に

  
← さすがはアジサイ
 寺。どのショットに
 もアジサイの花が入
 っています。



  矢田寺は、今から約1300年前、大海人皇子(のちの天武天
 皇)が矢田山に登られ壬申の乱の戦勝祈願をされました。即
 位後の白鳳4年、智通僧上に勅せられ、 七堂伽欄48カ所坊
 を造営されたのが開基です。


  あじさいは約30~40年前に植えられたそうで、矢田寺
 の歴史と比べればまだ日が浅いのですが、それでもすっかり
 定着しました。
  あじさいの、雨に打たれ、さまざまに色が移ろう姿は、 私
 たちに仏教の「諸行無常」の心を伝えてくれています。また、
 あじさいの丸い花は、お地蔵さまの手に持っておられる宝珠
 の形でもあるのだとか。


  あじさいは日本固有の品種で、諸外国にその野生種はなく、
 西洋あじさいといわれるものは、江戸後期にシーボルトなど
 によって欧州へ送られたものが、改良されたものです。

 2首ですが万葉集にも詠まれていることから、奈良時代にはすでに栽培されていたようです


 本堂の裏手には、「閻魔堂」「大師堂」「舎利堂」「御影堂」などが並び、矢田山に通じる山道は四国八十八ヶ所霊場巡りの道になっていました。一周1時間30分を一回りしてくると、四国巡礼を結願することになるのだとか。
 「閻魔堂」は、普段は扉が閉じられているそうなのですが、この6月だけのご開帳とかで、堂内には大きな閻魔様が鎮座してみえました。閻魔様の横に天秤が置かれていました。『あれが、閻魔の天秤か』と、ちょっと緊張しました。
 

 それでは、「あじさい園」を見て回りましょう。


( 約1万株のアジサイが、高低差のある丘陵の斜面に植えられていて、一斉に花を咲かせている風景は、見事なものでした。
 広い平面に咲く花でなく、折り重なり、ときには眼下に、ときに見上げて、花の中の小路を行くのは、まさしく花に包まれて遊ぶの境地でした。


 花々の写真は大きなものでこそ、その艶やかさを伝えられるのでしょうから、旅のブログをご参照ください。 )


 朝の境内は清々しく、人影もまばらで静かな中を散策できました。


 あじさい園から上がってきて、時計を見たら午前10時…。
  

 そろそろ境内も混み合ってきましたので、お寺をあとにすることにしました。
  

← 帰り道の茶店で、
 宇治金時(氷)を
 食べました。



 奥のテラス席からは郡山盆地の眺望が広がっていて、宇治金時の甘味に景観を添えてくれました。


   坂道を下ってきて、下の道を見ると、駐車場待ちの車が
  長蛇の列を作っていました。              →



 午前10時30分、さて、どうしようか…? 奈良公園・東大寺・興福寺、西ノ京・薬師寺・唐招提寺、それとも長谷寺〜滝谷へ出て今日は徹底的にアジサイを…などと考えたのですが、「そうだ、松伯美術館へ行こう」と思い立って、登美が丘へと向かいました。


← 1701年(元禄14年)今井善五郎が
 約9年かけて完成した大渕池にかかる「大
 渕大橋」を渡ります。



 渡ってすぐ、道の東側、大淵池の北岸に「松伯美術館」はあります。
 故佐伯勇近鉄名誉会長旧邸の庭に、上村松篁・淳之両画伯からの作品の寄贈と近畿日本鉄道株式会社からの基金出捐により開館したとあります。

 
 近代美人画を確立し、女性初の文化勲章を受章した上村松園(うえむらしょうえん)、息子で伝統的な花鳥画の世界に新しい造形感覚を取り入れた松篁(しょうこう)、孫で日本花鳥画に新しい境地を求めて活躍中の淳之(あつし)ら三代の作品を展示する美術館です。


 駐車場で車を降りて50mほど奥に進むと、玄関があります。→


 入館料800円を払って館内へ入ると、左手が上村松園の作品を展示している第一室です。


← 鼓の音(パンフレットより)


 ほかに「雪」「虫の音」そして「虹を見る(下絵)」「風(下絵)」「時雨(下絵)」と屏風が一柵展示されていました。
 体の動き、風の吹く様、そのときの人びとの表情や着物の動きなどが、精緻な筆跡で描き出され、それでいてなまめかしく優しさが漂う作品たちでした。


 松篁(第二・四室)、淳之(第三室)の作品にも、自然が奏でる優しさや息吹が醸し出され、日本の豊かな情緒が溢れていました。松園は時代の美人画、松篁は花木や動物を、淳之は鳥たちを描いているのに、三人ともに漂う心の和む情感はこの家に受け継がれる血の為す技なのでしょうか。


 章くん、係りのお嬢さんに「『序の舞』は展示していないのですか」と尋ねた。「あっ、あれは東京芸大の所蔵なので、こちらでは展示していません」との答え。そうなのか…、ずっとここ松柏美術館の所有だと思っていたのです。
 「鼓の音」(上の絵)の模写を一枚買ってきました。家で飾れるように表装しなくては…。


 この時間、訪れる客の少なかったのをよいことに、4つの室を何度も行き来して上村三代を堪能したあと、庭に出てみました。
 実は15年ほど前に、章くんはここを訪れています。その時は作品入れ替えだったのか休館していて、『せっかく来たのだから、庭でも見せてもらおう』と庭師さんが作業している庭に勝手に入っていって、係員のおじさんに「開館日にまた来てください」と叱られたことがあるのです。


 左の門は佐伯勇近鉄名誉会長旧邸の茶室「伯泉亭」→


 右が住居で、暖炉用のレンガの煙突が見えています。


 「伯泉亭」で抹茶を一服いただいたあと、屋敷の北隅の小高い小山に上る「逍遥の小路」を辿ってみました。


← 高台からは、旧佐伯邸のいらかの向こうに、
 登美が丘の町が見えました。



 「北は山城の山、南は郡山盆地の向こうに紀伊の山々が見える」という高台でした。


 佐伯さんは近鉄奈良線を敷設して、奈良市までの丘陵地を住宅用地に開拓したのです。そこで、芦屋にあった自宅をここ登美が丘に移して、自ら移り住んだとか。
 選んだ土地が、東西南北を見渡せる高台だったというのは、天守閣を築いた戦国大名の気概に通じるものがあるようですね。


 午後1時…。昨夜は午前3時30分に布団に入り、今朝は5時過ぎに起きて車を走らせてきた章くん、さすがに眠くなってきて、帰ることにしました。


 
【物見遊山260】 2013 春 京都
    -醍醐寺・大覚寺・嵐山・祇園白川・円山公園-



 未完です

 …では、締めくくりとしては月並みすぎますね。
 『開いたばかりの花が散るのを、…見つめていたあなた。…、今の私を見たら、どう思うでしょう。あなた無しで生きてる私を…。』
 という、エタダヒカルの歌でお開きといたします。


       
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物見遊山 No.40  
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