【276】 
金沢紀行  その① 九頭竜ダム 永平寺    2014.06.13-15

    【写真にポインターを合わせたとき、手の形に変わったら、大きい写真にリンクしています】

 粟津温泉「法師」の格安宿泊券をグルーポンで手に入れた。「法師」には15年ほど前に、ある会合で宿泊したことがあり、そのときは会から宿泊費が出たので4万円ほどの部屋に泊まったのだが、今回は2万円ほどの宿泊プランを半額で提供するというのを見つけたものだ。世界最古の旅館としてギネスブックにも登録された「法師」の紹介は、のちの宿泊報告にゆずるとして、さあ出発しよう。

     
午前7時50分、津インターを上りました。
            「経が峰」ともしばしのお別れです。→



← 午前9時、名神高速から
 「東海北陸道」へと
 入ります。


 東海北陸道へ経路をとるのは、今まで高山から平湯峠を越えて上高地などを訪ねるために、何度となく行き交った国道158号を、今日は美濃白鳥から油坂峠を越えて九頭竜ダムに寄り、福井市へと下る計画だからだ。

  東海北陸道「美濃白鳥」から西へ、
   自動車専用道路が建設されています。→


 







 ↑ 建設中の道路は中部縦貫道の一部で(油坂峠道路とも呼ばれています)、未完の現在は開通部分を
  無料で公開しています。

 「中部縦貫道」とは、長野県松本市を起点とし、岐阜県高山市の飛騨清見ジャンクション(JCT)で東海北陸自動車道に接続、同道を経たのち白鳥JCTで分岐し、福井県福井市に至る。現在は、東海北陸自動車道との重複区間は高速自動車国道、越坂トンネル関連区間は国道416号、それ以外の区間は国道158号に指定されている。
 以前は県境区間の国道158号安房峠および油坂第三トンネルまでの郡上市側は冬季になると閉鎖されていたが、安房峠道路(安房トンネル)および油坂峠道路(油坂第1〜3トンネル)の完成により、年間を通して長野県や福井県と岐阜県飛騨地方との相互通行が可能になった。
 全線開通した場合は、北陸自動車道から当道を経て長野自動車道・中央自動車道へ至る、福井県と関東地方(特に東京都)を結ぶ高速自動車交通の最短ルートを成す。

 
高速道路として開通している部分は、結構きれいな道路です→

← 油坂トンネル

 かつては九十九折のカーブが続くたいへんな難所だったけれど、今は油坂第1〜3トンネルを組み合わせて峠を登っている。それでもトンネルはヘアピンカーブだ。

 「油坂峠」は、岐阜県側から峠までの標高差が約420mと険しく、峠を上る道で旅人がだらだらと油汗をかいたことから「油坂」と名づけられたという説がある。その険しさは、油坂峠道路の構造(ループ状の高架橋とトンネルを組み合わせることで勾配を出来るだけ緩和している)を見ても実感できる。
 冬季は雪かきをして車を通していたというが、峠(トンネル)道路の完成により、現在、冬季は完全通行止めとなっている。
   油坂峠をの下を抜ける「越美トンネル」を抜けると
    道は下り坂…。「福井県」の表示が見えました。 →









← 下ること10分、左手に九頭竜ダム湖が
 見えてきました



             
ダム湖の上流方向です。 →

 九頭竜ダムは、高さ128メートルのロックフィルダムで、洪水調節・発電を目的とする、国土交通省・電源開発(Jパワー)共同管理の多目的ダム(兼用工作物)である。





← 下流から振り返って撮りました。

 ダムは満水位から深さ4メートル、3,300万立方メートルを洪水調節容量として確保しており、伊勢湾台風相当の流入量1,500立方メートル毎秒の大洪水があっても、5分の1以下の270立方メートル毎秒を下流に放流するのみで対処できるという。

    午前11時15分、JR九頭竜線の終着駅
           「九頭竜湖駅」に着きました。→


 「九頭竜線」は、福井県福井市の越前花堂駅から福井県大野市の九頭竜湖駅に至るJR西日本の鉄道路線「越美北線」の愛称である。JRの旅客案内ではこの愛称が用いられている。
 「越美北線」は福井駅と岐阜県の美濃太田駅の間を結ぶ鉄道(越美線)の福井県側として建設されたが、「南線」の岐阜県側は現在長良川鉄道越美南線となっている。
 この駅舎に隣接して、道の駅「九頭竜」が設営されていた。食堂があり、昇竜まいたけ・スイートコーン・木工品などの地元特産品が販売されている。

← 玄関前に、恐竜県福井らしく、恐竜の親子がいる。

 福井県が恐竜で有名なのは、勝山市にある中生代の地層(手取層群)から恐竜の全身骨格が発掘されたからである。これがきっかけとなり、勝山市に「恐竜博物館」が建設された。展示内容の量・質共に極めて高く、日本における恐竜博物館の代表である。

 九頭竜川沿いに国道158号を下り、落ち全大野氏、勝山市を経て福井平野へと至る。程なく国道364号に交差して左折し、北側から「永平寺」へと向かった。

 
12時30分、永平寺着。門前の駐車場へ車を止めました。→

 ここまで、家を出てからコーヒーを飲んだだけ。『手打そば』の看板にひかれて、駐車場横の食堂に入った。

← にしんそばと、永平寺名物「胡麻豆腐」を頼みました。


 午後1時5分、通用門をくぐって、七堂伽藍へと足を踏み入れる。

 章くん、永平寺を訪れるのは5〜6回目である。先年、立松和平著「道元」を読んでからは初めての訪問だ。病を得てもなお道元が、修行の厳しさを求めて雪深い越前の山奥に修行の場を開いた永平寺…。都のきらびやかさから遠く離れた深山幽谷に建立した座禅の場…。その空気に、今一度触れてみたいということとともに、章くんには永平寺の御本尊に拝顔したという記憶がない。御本山はいかなる御仏であったか…、この目で確かめてみたいと思ったのである。

← 通用門。ここで拝観券を買う。

 大仏寺山の西側斜面の懸崖に建つ永平寺の伽藍は、急な勾配の斜面にそれぞれが立てられているので、各御堂は急な階段廊下で結ばれている。

                    
七堂伽藍を結ぶ階段廊下 →







← 永平寺の中心をなす「仏殿」
  (露出過多でちょっと見にくいですね)


 この御堂の中央の須弥壇には、章くんの念願の御本尊「釈迦牟尼佛」がおわし、両脇には弥勒仏・阿弥陀如来が祀られていて、現在・未来・過去の三世を表すとされている。


  緑深い境内の一番入り口にある、一般の
   人たちの納骨や供養を行なう「祠堂殿」 →


 境内を歩くと、多くの巨木や巨岩を目にするがそれらの一木一岩が、800年の歳月を物語っている。 









               
山頭火の句碑がありました ↓

 明治より昭和初期に生き、自由律俳句を沢山残した山頭火(種田山頭火)は、曹洞宗熊本報恩寺住職望月義庵師の得度を受け、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」と西日本を中心に各地行脚して、句作を続けた。独特のリズムで漂泊、生活、自然、心情を切り取った句は今も人々を魅了して止まない。
 山頭火は永平寺にも宿泊していて、「水音のたえずして 御仏とあり」→
「 てふてふひらひらいらかをこえた」、「生死の中の雪降りしきる」の3句の碑が建っている。

 永平寺は、道元が自ら身をもって示した、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を具現する道場であった。ちょうど訪問時に、寺のあちこちから木槌を打って合図しあう僧の姿を見ることができた。
 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢の明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」であるという。

 午後2時30分、永平寺を辞して粟津温泉「法師」へと向かう。 




【276】 
金沢紀行  その② 粟津温泉「法師」     2014.06.13-15

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 午後4時、「法師」に着きました。玄関へ車をつけると、半被をまとった兄ちゃんが出迎えてくれました。「車は…?」と聞くと、玄関脇にどうぞ…と案内してくれました。

← 玄関
        
玄関 →

 まだ時間も早いせいか、他に客の姿も見かけません。

 章くん、15年ぶりぐらいの「法師」です。あの光景は面映くて苦手ですが、女将さんをはじめ仲居さんが並んで「いらっしゃいませ」と声を掛けてくれた『出迎え』も今日はない(笑)。しかし、出迎えを受けた15年前のあの時は1泊4万円10数人の団体客だったけれど、今日は1泊1万円そこそこのバックパッカー…。兄ちゃんに迎えてもらっただけでも有り難いと思わなくてはならないですね(苦笑)。
フロント ロビー ロビーから玄関を

 それでも、玄関を上がると和服の妙齢の女の人が出迎えてくれて、「どうぞこちらへ」とロビーの奥の、庭が見える30畳ほどの広間(上の真ん中の写真、右の柱の向こうに見える部屋)に案内してくれます。到着した客をもてなす、抹茶サービスですね。妙齢のご婦人は、「先生」と呼ばれていましたから、茶道の先生なのでしょう。
 小ぶりのお盆の上に菓子と抹茶を同時に乗せて運んできてくれて、「お菓子からお召し上がりください」と教えてくれました。

 結構なお手前を頂戴したあとは、これまたちょっと妙齢の仲居さんが、「お部屋へ御案内しますね」と言って先導してくれます。
 「建て増しに継ぐ建て増しを重ねて、館内は迷路のようになってしまって…。先日も、おじいさんのお客さんが迷ってしまって、叱られましたよ」と笑う。宿泊する階によって、乗るエレベータが決まっているのだという。「向こうのエレベータは3階は止りませんから…」といった調子だ。

← 扉が総天然色のエレベータ

  古いものは、ベージュ一色の扉でスピードも遅い。

 ぐるぐると廊下をめぐり、「あっ、そこのエレベータは乗らないでね」などと教えてもらいながら案内されたのは、窓の下に駐車場が広がるお部屋。それでもテレビはついている。
 「お食事は何時にします。…、7時? お風呂に入ってゆっくりしてからのほうがいいもんね」と愛想はいいがタメ口だ。祝儀を出す可能性もないバックパッカーだから、丁寧にしゃべるよりも気楽なほうが良いだろうという気遣いでしょうか。

 「風呂の前に庭を見てこよう」と、前回は遅い到着で歩くこともなかった中庭に出てみました。
 館内の廊下は庭を取り巻いてぐるりと一周するように造られていて、廊下の数箇所から庭へ出られるように履物が置いてあります。

← この内玄関から庭へ出ました。









  
飛び石を踏んで、庭園をめぐります。→


← 池には錦鯉が ↓








 あの小堀遠州も愛でた『法師』の庭…と、宿のパンフレットに記されている庭園は、歴史と美庭を守る人々の思いが隅々まで詰まっていました。

 
古木、岩石には、分厚く苔が ↓    
 さらに、パンフには『北国の厳しい風雪に耐えぬいてきた椎の巨木。古武士のごとき風格の中にも意外な優しさを感じさせる赤松。ひたすら真っすぐに己の行き方をつらぬくかのような杉…。名匠佐野藤右衛門の手によって一段と表情豊かになった法師の庭はその趣をさらに深めている』…とも。






    小さな祠が祀られていて、その横には大黒様が →
 




← 石造りの藤棚に、大きな藤の木が
 伸びていました。







 部屋に戻って、風呂に浸かることにします。

    
廊下にも、枯山水の箱庭がありました。→


 粟津温泉は、
北陸で遍く信仰された泰澄(たいちょう)法師が白山権現のお告げによって西暦700年ごろに発見したと伝えられる、開湯1300年に及ぶ歴史の古い温泉場です。
 旅館「法師」は、粟津温泉の開湯と同時に白山開祖の泰澄法師の命によって湯治場として718年(養老2年)に開業し、「法師」の名を戴いたという。2011年2月にその座を、705年(慶雲2年)に開湯したとされる慶雲館(山梨県)に明け渡しましたが、『ギネス・ワールド・レコーズ』に「世界で最も歴史のある旅館」として登録されていました。フランスで発足した創業200年以上の歴史を持つ企業だけで構成される「エノキアン協会」に加盟していて、加盟企業内で最古の歴史を有しているとか。

   
館内「夏の館」1階にある男性用大浴場「豊明の湯」→

 この右手に女性用大浴場「艶明の湯」があるのですが、潜入取材は不可能でした(笑)。

← 男湯と女湯の
 間には、飲用泉
 と「『粟津八景』
 の陶壁画があります。


 法師の泉質は、無色透明・純度100%の芒硝泉。口に含むとほのかな塩の香りと酸味を感じます。


            
男性用大浴場 →

 手前がゆっくりと浸かるぬるい目の湯、向こう側がやや熱い湯になっています。でも、熱いとはいっても39度ぐらいで、熱い湯が好きな章くんには全然物足りません(笑)。

 粟津温泉開湯の15年後、天平5年(733年)に成ると伝えられる『出雲風土記』の中に、こんな一節があります。
 「一濯則形容端正両濯則万病悉除」(いったくすなわちけいようたんせい、りょうたくすなわちまんびょうしつじょ)『一度入ればたちまち美人、二度も入れば万病はなくなる』と。昔から温泉は人々に愛されていたのですね。

             
 ↓ 露天風呂 →










 時間が早いからか…、でももう6時、浴場に人影はない。おかげで、ゆったりと手足を伸ばせました。

 午後7時、夕食です。食事処の4階大広間へと向かいます。格安宿泊だから、部屋食などは望むべくもないし、加えて大広間へ行ってみると、章くんの席は入り口の一番近い席です。奥の側は、向こうの庭を下に見ながらの景観も楽しめますが、章くんの席はただ食べるしかない。思うに、この部屋で食事をとっている16人ほどの宿泊客の中でも、一番安い客であったのかな(笑)。

← それでも、テーブルに並んでいる品は、隣のものと一緒だつた(…と思う)。

 
 
 








 あわび…だと思うンですが。7〜8cmぐらいの大きさだったから、トコブシじゃないのかと言われると、そんな気もします(笑)。
 →
 貝殻にあいている穴が4〜5で噴火口のように尖っているのがあわび、トコブシの穴は6~8個で滑らかな所に穴が開いていますが、怖くて貝殻を裏返すことができなかった(苦笑)。
 トコブシは手で簡単に剥して取る事ができますが、アワビは吸着力が強くてアワビおこしのような道具を使わなければ通常は取る事ができません。…、そういえば、ちょっとナイフを入れたらするりと外れたぞ(大笑)。

 とか何とか言いながら、美味しくいただいた夕食も終えて、館内を散策してみました。さすがは1300年の歴史を誇る老舗、さまざまに見るべきものがあります。

← 極彩色大壷、後ろのふすまも美しい。

 いろいろな美術品が、廊下に飾られていました。

小川雨虹の美人画  縦2m横5mの段通


← 庭を見ながらコーヒーが飲めるラウンジ
  (翌朝、撮ったものです)


 
カラオケ居酒屋→

 遅くなってから、団体さんが入ったみたいで、歌声が聞こえてきていました。


 午後9時分、外に出て近くを歩いてみました。居酒屋らしきものを2〜3軒見かけましたが、開いている店もなく、ほとんど人影を見かけません。
 保養・湯治向けの湯として長く知られ、木造旅館が建ち並ぶ風情ある湯の町情緒を醸し出してきたという粟津温泉は、いわゆる温泉場によく見られる歓楽街はないと聞いていましたが、みやげ物店などもなく、ちょっと寂しい。

← 共同湯「総湯」

 2008年(平成20年)、新総湯がオープンしました。








 北陸温泉郷には、戦後、高度経済成長期を迎えると阪神圏を中心に団体旅行客が大量に押し寄せ、山代や山中、片山津は相次いで大規模資本によるホテルチェーンの建設や集客増を見込んだ既存旅館の増築によって、次々と路線を拡大させていきました。
 その中で粟津温泉は、一部例外はあったものの、基本は地元の顧客中心であり、他温泉地に比べ安易な拡大路線を採用せず、バブル崩壊後の余波は比較的軽微であったとされています。しかしながら、全国的な宿泊客数減少により、数件の旅館で経営が圧迫され廃業の憂き目に遭い、旅館街は大きく衰退しました。それでも2000年以降、個人客中心の集客によって、近年は回復基調にあるといいます。


 翌朝は7時30分起床。可もなく不可もない朝食の後、もう一度大浴場にざぶりと入り、9時30分、「法師」をあとにしました。

 格安クーポンでの旅人に極上のおもてなしを施せとは決して望むものではないのですが、15年前の接客とあまりに違う様相に正直驚きました。
 15年の歳月は、人をうつろわせ、社会を変転させるに十分な年月ですが、1300年の源泉を守る老舗旅館の相貌を変化させるにも余りある時間であったということでしょうか。

 『近年は回復基調にあるという』とある、温泉ブログの報告に期待を抱きつつ、歴史ある温泉郷の再興を祈るばかりです。

 今日も良い天気…、能登半島へ向かいます。



【276】 
金 沢 紀 行               2014.06.13-15

  
 その③ 能登半島 - 千里浜ドライブウエイ能登金剛 -

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 午前9時30分に粟津温泉「法師」を出発、今日は能登半島へ向かいます。どこへ行こうという目的地は無いのですが、日本海を見ながら走ってみようというわけです。 

← 小松インターから北陸道に乗りました。







      
午前10時50分、
       「徳光PA」で休憩しました。→


 「徳光PA」は、上り線・下り線を行き来できる歩行者専用の連絡橋(「ラブリッジまっとう」)があり、また、エリア内にスマートインターチェンジが設置されています。日本海に面する松任海浜公園や、はくさん街道市場などから構成される徳光ハイウェイオアシスが隣接しており、一般道(石川県道25号金沢美川小松線)からも利用できるので、たいへん混雑するPAです。大きな風力発電機も設置されています。

← 北陸道を「金沢東IC」で降り、一般道を走り抜
  けて、11時40分、内灘町で「のと里山海道」
  へと入りました。


 「のと里山海道」は、日本海を左に見て海岸線を走る、景色の良い自動車道です。
 かつては一般有料道路でしたが、現在は全線が無料開放されています。

   
宝達志水町で海岸へ出て、
   「千里浜なぎさドライブウエイ」を走りました。→


 
日本で唯一、一般の自動車やバスでも砂浜の波打ち際を走ることができる数少ない道路として広く知られています。そのため、砂浜でありながら道路標識が設置されています。




 一般の自動車や大型車が走行できる理由は、この海岸の砂が特別細かく締まっている(水分を吸って固くなる)…、普通の砂浜のように沈まないためだとか。





                
海鳥くんたち、休憩中 →





← 波打ち際に車を停めている人も
 います。











← 羽咋市で、約8kmのなぎさドライブは
 終わります。






   
ふたたび「のと里山海道」にもどり、北へ →

 羽咋市を過ぎると片側一斜線になり、内陸を走るようになります。
 「能登金剛」の看板にしたがって、道を海岸沿いの国道249号から県道36号へと取り、日本海を左手に見ながら走ります。


 「巌門」の矢印の通り、道の左手の駐車場に車を停めました。

 真っ青に広がる海原に、漁船の航跡が白い軌跡を残して伸びていました。
 黒い岩に打ち付ける波の波頭が白く砕け、青い海、緑の大地と鮮やかなコントラストを描きます。

← 右手にこんもりと見えているのは鷹ノ巣岩

 その北の「能登金剛センター」の駐車場に車を停めて、海岸へと降りる階段を下りてみました。

 
海面から屹立しているのは、先ほど上から
  覗いたときに見えていた「鷹ノ巣岩」です。→

 

← 階段の途中の左手
 に、断崖を海へと落
 ちる小さな滝があり
 ました。







 階段を海岸まで降りると、右手の岩に波があけた洞門がありました。
 
     
 ↓ 能登「巌門」です。→





 遊歩道を歩いていくと、洞門の手前の右手が彫られていて、石段が造られていました。













← 石段を登っていくと、湾の内側から、外海側へと
 抜けることができます。

 
洞穴を抜けると、視界に外海が広がりました。




     
洞穴の向こうは、能登金剛を巡る
       遊覧船の船着場になっています。→


 能登金剛は、約30kmに亘って奇岩、奇勝、断崖が連続する海岸であり、能登半島国定公園の代表的な景観の一つです。見所としては巌門、関野鼻、機具岩、ヤセの断崖、碁盤島、吹上滝、増穂浦、玄徳岬などがあり、陸路からそれぞれを訪れるのは困難で、遊覧船で海上から鑑賞するのが一番でしょう。
 海も凪いでいて、今日は絶好の遊覧船日和でしたが、輪島に行って夕方には金沢へ帰る予定だったので、ちょっと時間が無くて遊覧船はパスしました。

 能登金剛は松本清張の小説『ゼロの焦点』の舞台となったことで、全国にその名を知られることになりましたね。夫、憲一の失踪の真相を知ろうとする禎子と、過去の秘密を握られていたがために憲一を殺害したのではないかと疑っている佐知子とが対決する「ヤセの断崖」…。思い出すに、戦慄のシーンでしたね。

 さらに国道249号を北へ向かいましたが、時刻は午後2時を過ぎ、輪島を回って金沢へ帰るのはとても無理な時間になってしまいました。
 輪島まであと30kmほどの門前町に入ったところでUターン、国道249号から「のと里山海道」を戻ります。

 
 海鮮丼
 
 どんこの煮付け
  輪島で食事をしようと思っ
 ていたのですが、叶わぬ望み
 で、高松SAで遅い昼食です。→


 「海鮮丼」と、そのレストランで売っていた「どんこの煮付け」(350円)を、「おばちゃん、これ買うからレンジでチンして、食べさせてよ」と頼み、皿に盛り付けてまでしてもらって食べてきました。
 どんこは旬は冬の魚で今はちょっと時期外れだけれど、食べられれば構わない。身は白身でふっくらとしています。鍋にしても美味しいのですが、今日は煮つけを売っていたので、これをパクつきます。肝がコクがあって絶品なのですが、時期外れのパック売りですから、無理を言ってはいけませんね。




 能登の海岸線は山からすぐに海へと落ちていて、平地はほとんどありません。
 その海際の地に、人々の暮らしが細い糸のように伸びています。

 カーステレオで水森かおりの『輪島朝市… 涙をひとり捨てに来た 寒さこらえて店出す人の 声がやさしい能登なまり』の歌を聴きながら、午後5時30分、金沢市のホテルへ着きました。


【276】 
金 沢 紀 行  その 割烹「むら井」2014.06.13-15

    【写真にポインターを合わせたとき、手の形に変わったら、大きい写真にリンクしています】

 金沢香林坊の表通り、国道157号の日銀前交差点から西へ一本入ると、小さな小川沿いの小路…、「せせらぎの道」と呼ばれる小道があります。
 その小道を川沿いに北へ歩くと、小さな橋の向こうに階段が見えました。金沢の地物の素材にこだわり、「人に思いやり、料理に真心、季節のめぐみたいせつに 後悔させません」を看板にかかげる、割烹「むら井」の裏入り口への階段です。

         
この橋を渡り、左手の階段を上がります。→


 店に入ると8人ほどが掛けられるカウンター席と、4人のテーブルが置かれていました。上の階には5つの部屋席があって45人ほどの客を入れることができるのだとか。
 時刻は午後7時30分、すでにカウンターには二組の男女と一人の男性客、テーブルには家族連れらしい3人の客がありました。カウンターコーナーの空き席へねじ込んでもらって着席…。

 ↑ カウンターにずらりと並べられたボトルには、よく知る芸能人のネームプレートが懸けられていました。みんな、店を訪れる人たちなのだとか。『五代夏子』の名前を見つけて、「今度来たときは、電話してね」と言ってきたのですが、我が家から金沢までは3時間半ほどはかかるから、夏ちゃん、そんなに長くは居ないかな。

   
カウンターに座って、まずは「能登マグロ」から →

 ここ何十年かの間に、能登輪島沖に50kg超のマグロの群れが回遊するようになったのだとか。能登にマグロが初めてやってきたころは、漁師はマグロの扱いを知らずに、随分と立派なマグロを台無しにしてしまったことがあった…との昔話を聞いた。マグロはすぐに臓物を出さないと熱を持つので、あっという間に痛んでしまうのだと。
 
 さすがは近海ものと言うべきか、生ものゆえの色艶と赤身のやわらかさにも跳ね返す弾力があるし、また何よりもその安さがありがたい。一口ほおばると、やや厚いめの切り身が口の中を占領してしまいました。
 次に頼んだのは、金沢へ来れば避けては通れない「のどぐろ」くん。正式名はアカムツ、口の奥が黒いので「のどぐろ」と呼ばれ、北陸・山陰では高級魚とされています。

← 日本海名産の「のどぐろ」の焼きもの

 旬は秋から冬ですが、市場へは通年出回っていて、アカムツの名の通り、赤い色をしたムツの意味。「むつ」とは「脂っこい」ことを「むつっこい」、「むっちり」言うように脂っこい魚という意味合いです。
 白身で脂が身に混ざり込んでいるからか、程よく柔らかいし、クセのない味わいです。新鮮なものの刺身は素晴らしい。口の中でとろけるような味わいなので、この「のどぐろ」を「白身のトロ」と言う人もいますが、まさに言い得て妙と言うべきです。
 今日は、皮を引かないで焼き霜造り…、旨味も脂も皮下にあります。魚好きの章くんは、魚を食べるのも名人級で、10分後には頭と尻尾と骨だけになった「のどぐろ」くんが、満足そうに皿の隅に鎮座していました。

 次のこれは「むら井」の板さんの創作料理で、甘海老と白身魚をすり合わせて練り上げ、からっと揚げた「甘海老団子」です。日本海産の甘エビはそのままで十分に甘く美味しいのですが、ひと手間加えることによって、その味は千変万化…、この「甘海老団子」はカリッと香ばしい。 

 
 「甘海老団子」→

← 河豚の白子

 章くんが満を持して頼んだ、今夜の最後の一品。「天ぷらにもできますよ」と言ってくれたけれど、章くんは塩を振ってこんがりと焼き上げられた焦げ味が好き。「石焼にして」と注文したところ、焼き上がるまでに20分ほど待ちました。
 ちょっと小ぶりの白子が3個、皮はこんがり、中はジューシーで、とても風味良く仕上げられていました。
 待ちかねたので、運ばれてきたものにすぐに箸を入れてしまって、写真を撮り忘れてしまいました。半分食べたところで気づいたのですが、写真も半分…(笑)。

    「むら井」の東側の玄関。西へ落ち込んでいる地形なので、西側から
    入ると、階段を上らなくてはならないのですが、この東側玄関からは
    そのままカウンターのある一階の店へ入っていくことになります。→


 隣に座っていた40がらみの男性の飲みっぷりの良さに、章くん、めったに初対面の人に声を掛けるなどということはしないのですが、「美味しそうですね」と言うと、「日本海の酒と魚のために、私は名古屋から金沢へ移り住んだのです」という粋な答えが返ってきました。
 その言たるやよし…とさらに話を続けていると、「私、小学校は三重県津市の高茶屋小学校を卒業しました」と言うではありませんか。章くんが「僕は津から来たのです」と言うと、「あそこの角を曲がると…」と、しばしふるさと談義が続きました。
 まさか、金沢のぶらりと飛び込んだ割烹の止まり木で隣り合った人と、津市の昔話をするとは、縁は異なもの味なものと言わねばなりません。日本海の酒肴とともに、人の世のめぐり合いに、摩訶不思議な味わいを覚えた、金沢の一夜でした。



【276】 
金沢紀行  その⑤ 那谷寺日本海さかな街   2014.06.13-15

    【写真にポインターを合わせたとき、手の形に変わったら、大きい写真にリンクしています】

 金沢3日目、最終日、今日帰宅します。「那谷寺」を拝観したあと、敦賀の「日本海さかな街」へ寄って夕食の肴を買っていく予定です。

 午前9時、金沢の「東横イン香林坊」を出て、今日も「北陸道」を走って、片山津ICで降ります。
 

 10時10分、「那谷寺」へ着きました。










 

 高野山真言宗別格本山「那谷寺(なたでら)」は、奈良時代、粟津温泉ゆかりの泰澄法師が、千手観音を岩窟に安置したのにはじまるといわれる、美しい岩山と四季の草花に囲まれた、歴史あるお寺です。(那谷寺パンフより)
 寺名の由来は、平安時代に花山法皇が参詣された際、西国33ヶ所の霊場はまさにこの一山にありとされ、第1番の那智山の那と第33番の谷汲山の谷をとって、「那谷寺」と名付けられたとの伝承があります。
 平安中期には、温容寺、栄谷寺とともに白山3ヶ寺の1つとして、寺領も多く、僧兵もいましたが、中世末期の一向一揆ですっかり荒廃してしまいました。これを1640(寛永17)年に前田利常が復興しました。現存の本堂、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院および庫裡は重要文化財です。

 拝観券を買って山門をくぐると、すぐ左手に那谷寺の仏事祈祷は全てここで行なうという「金堂華王殿」と「庫裡書院」それに名勝「三尊石・琉美園」があります。

← 「金堂華王殿」

 金堂は平成二年に六百五十年ぶりに総桧造りにて再建されました。正面に、ご本尊丈六の十一面千手観音がデデーンと立ってみえます。

 その横の「書院」(重文)は天正の戦乱(室町末期)で諸堂伽藍が焼失した後、仮の御堂として建てられたものです。寛永十七年には前田利常が書院として改造、「御成りの間」として、常利が訪問したときに座る間がありました。 


  書院の裏には、名勝指定の「寺院茶庭」があります。

  書院の横を抜けて、池に架けられた小さな橋を渡ると、
  「三尊石流美園」と名づけられた大庭園が現れます。
 

← 「三尊石流美園」 


 小山のような巨大な石があり、太く苔むした大木が見られます。







← この岸壁が、三尊石の由来です。

 3つに割れた大岸壁は、仏の三尊像に重ねられ、大きなスケールを以って、見るものを圧倒します。

 
植え込みの間を清流が流れています。↓














← 大岸壁に「伎芸天」が彫られていました。

  
岸壁をくりぬいて、流美園か
 ら金堂へと抜ける隧道が掘り抜
 かれています。      →


 隋道の中ほどにさらに祠が掘られていて、水子地蔵尊が祀られていました。暗闇の中に浮かぶ、胎臓界での水子供養のようで、生々しい厳かさを感じました。

 隋道を抜けると、金堂の十一面千手観音像の前に出ます。


← 木立の中の参道を「本堂」へと
 向かいました。











              
参道の左手に、池が現れました。→


← 池の対岸に目をやると、大岩がそびえて
 います。「奇岩遊仙境」です。


 岩の表面には階段状に道が造られていて、
上り下りしている人の姿がありました。
 岩の間の洞窟には、仏像が置かれています。

 大岩の前を行き過ぎると、左手に門が見え、それを入ると「本殿」へと上る石段がありました。↓


 左に見えている赤い鳥居の下をくぐると、大岩に刻まれた石段の歩道へいくことができます。少し上ってみたのですが、高所恐怖症の章くん、帰りには手すりも何もない岸壁の石段を降りてくるには、足がすくんでレスキューの出動を要請しなくてはならなくなるのではないかと危惧して、数m登ったところで引き返しました(苦笑)。

      
石段を上ったところ、右手が「本殿」です。→

 開山「泰澄禅師」は、夢に見た十一面千手観音菩薩の像を自ら作り、この本殿のある岩山の洞窟内に安置しました。ここにお堂を建てられたのがこの本殿の前身であり、那谷寺の始まりです。今も、御本尊は岩窟内に祀られています。
 本殿奥には御堂を取り巻いて一周する洞窟があり、これを「胎内くぐり」と呼んでいますが、もともとここは魂の輪廻転生゜胎内くぐり」の聖地であり、そこの岩窟内に本殿を設け、新しい自分に生まれ変わることを祈る場所であったわけです。

 本殿参拝の後は、石段を降りることなく、右手の小道をたどると、寺の背後にある大きな池のほとりを経て、「三重塔」に至ります。

← 「三重塔」(重文)と高所の伽藍を巡る「楓月橋」

 山上「鎮守堂」からの「奇岩遊仙境」の眺めです。↓









 観音浄土「補陀落山(ふだらくせん)」わ思わせる「奇岩遊仙境」は、まさに天下の奇観…。
 この岩山は、太古の海中噴火によって現出した岩々であり、長い年月の間波に洗われて今日の奇岩の形になったとか。



 下の参道に戻り、帰路につきます。

← 左手に芭蕉が「奥の細道」の旅の途中、この寺を訪れて詠んだ
 
「石山の 石より白し 秋の風」の句碑がありました。


 章くん、実は30年ほど前に、この那谷寺を訪れています。そのときにプレーした「芦原CC」のラウンドの記憶はあるのですが、この寺がこれほどの美園・奇観を有する寺だったとは、ついぞ覚えがないです。
 『人は、見たいものしか見ない』というカエサルの指摘は、このことを言うのでしょう(苦笑)。



 午後0時30分、那谷寺を後にして、福井県敦賀へと
向かいます。


 午後2時、「日本海さかな街」に着きました。→




← 日曜日の今日は、さすがにたいへんな人出です。

    
ここまで、お昼を食べずに走ってきたのは、
     この「焼きサバ」がお目当てだったのです。↓





  店先で焼かれていたサバを、生姜醤油でいただきます。






← 丸一尾をペロリ!



 観光客相手が主流となっている金沢「近江町市場」よりも、ここのほうが品数は多く、新鮮で、安いように思います。
 まぐろの中トロ、明太子を買い込んで、午後3時20分、敦賀ICから北陸道へ乗りました。
 米原JCで名神に入り、「八日市IC」で降りて、国道307・1号を走り、午後6時20分、帰宅しました。

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物見遊山 No.41  
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