【物見遊山 第8ページ】


【58】 奈良 桜井市 大神神社(おおみわじんじゃ) 参拝       (9.18)

 10日前に引いた風邪が長引いていて、まだ咳が抜けきらない。クーラーで体を冷やし続けているせいか、夏の風邪はなかなか治らない。9月11日の「唐招提寺 観月供仏会」を楽しみにしていたのだが、出かけられずに終わってしまった。大神神社 二の鳥居
 今日は名張で1件の用事を済ませ、咳き込みながら、久しぶりに奈良へ足を向けてみた。伊賀盆地から西へ、榛原・桜井を抜けて大阪へと延びる国道165号線の沿道には、室生寺や長谷寺などの名刹が点在する。この道を、途中、左へ折れれば吉野山〜明日香の里である。
 今日は、それらの名跡を通り抜けて、桜井市で右折すると程なくの「大神(おおみわ)神社」。大物主命を祭神とする、わが国最古の神社が目的である。


 天津神の大和豪族と国津神の出雲豪族との間の「国譲りの神事」は、日本古代史上の最大の謎である。両者は摂津・和泉のあたりを主戦場として、政権をかけた戦いを繰り返したことと思われるが、やがて大和朝廷が成立して、出雲の主である大国主はわが国最大の寺社である出雲大社に鎮魂される。
 このあたりの歴史を紐解けばロマンは限りなく膨らむが、今日は出雲神である大物主が大和の地に日本最古の神社として祀られていることに着目したい。
 この大神神社(三輪大社、三輪明神の呼称でも知られる)のパンフによると、『大国主神が自らの和魂を三輪山に鎮め、大物主神の御名をもってお祀りされたのが、当神社のはじまり』とある。とすれば、大物主は大国主の魂ということだ。
 大国主命はいろいろの名を持っていて、「日本書紀」の中には「大国主命、またの名を大物主神、国作大己貴命、葦原醜神、大国玉神、顕国玉神という」などとある。インドの神と融合して、大黒天とも呼ばれている。たくさんの名前を持つということは、バラエティに富んだ活躍をしていたということにもなろうが、我々を惑わす原因でもある。井沢元彦著「逆説の日本史」は、出雲の国の国主に大国主が決まったとき、その兄の大物主は国を出て、諸国の平定に向かったといい、二人は兄弟だとする。
 大国主命は日本の神さまのなかのスーパースターだ。縁結びの神さま(記紀神話の中でもたくさんの姫御子と契るからかな?)で、少彦名神とともに全国をめぐり、国土の保全と修理、農業技術の指導、温泉開発、病気治療と医薬の普及、禁厭の定めを制定といった、数々の業績を残したと伝えられている。
 大国主命の名は、国(出雲)を治める大王を意味している。大物主の「モノ」は霊威、霊格のことで、のちの悪しき「物化(もののけ)」の「もの」と共通するが、ここでは大きな力を持つ高い霊格をたたえる名だ。
 また、大穴牟遅や大己貴(いずれも「おおなむち」と読む)などの「チ」は自然神的霊威にあてられる音で「地」を意味し、「大地の王」であることを表している。大国主命は、大地主命の名も持つ。
 国玉(魂)は、国土の霊魂。醜男の「シコ」は、醜い男ではなく葦原のように野性的で力強い男の意味で、八千矛(やちほこ)は文字通り武力・軍事的なパワーを象徴する名である。
 大国主命が英雄神として語られるのは記紀神話や風土記のなかにおいてであり、それ以前はおそらく農耕民などが信仰する素朴な自然神拝殿だったのだろう。
 とすれば、大国主命は出雲を中心とする土着の人々を統率し、その生産や文化を司った指導者であり、大和朝廷を立てた人々は新しい文化を持って朝鮮半島から渡来した勢力であったのではないか。壮絶な戦いののち勝利した大和朝廷は、敗れた出雲豪族の主、大国主の魂を大物主として祭祀することによって、国の政(まつりごと)の安定を図った…というのが、大神神社を訪問しての私の推論である。


 二の鳥居前の駐車場に車を停めて、大きな鳥居をくぐり参道を進むと、正面の石畳の上に豪壮な茅葺き屋根の拝殿が見えてくる。お払いを受ける参拝者であろう、5人の家族連れが殿内に並び、紅白の上下に金色の髪飾りをつけた巫女さんから、紙垂(しで)を受け取っている。
 社域は三輪山全体に及び、域内には幾多の社殿を持つ。大物主の御霊のまします三輪山はなだらかな稜線が美しく、古来より神体山として斧鎌を入れずして、万葉集にも詠まれた「みわの神杉」が生い茂る。


  「大和は 国のまほろば  畳(たたな)づく青垣 山籠れる 大和し うるはし」  




【57】 9月9日 重陽の節句、 今宵は 十三夜             (9.9)

 中国の陰陽説で、奇数は陽の数、偶数は陰の数。9は一桁の奇数としては一番大きな数で、陽数を代表する数と考えられていた。「陽の代表数の重日」ということで「重陽」となったわけである。「菊の節句」「重九の節句」ともいわれ、宮中では古式ゆかしく観月の宴が催されるが、民間では1月7日の七草の節句(1月だけは1日ではない)、3月3日の上巳(じょうし)の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕(しちせき)の節句に比べて、特に行事は伝承されていないのは、ちょっと寂しい。十三夜の月 右下の火星は写らなかった
 午後9時。見上げると、澄み切った空に煌々たる月が出ていた。すぐ左下に、赤く輝く火星が見える。午前0時ごろにもう一度見てみると、火星は右下へ月を追い越すように移動していた。


     自宅の庭から撮った十三夜の月。右下にあった火星は 写っていない → 


 明後日、9月11日は旧暦8月15日、中秋の名月である。ということは、今宵の月は十三夜! 「河岸の柳の行きずりに ふと見合わせる 顔と顔、 立ち止まり 恥ずかしいやら 嬉しィやら 青い月夜の十三夜」と唄われた夜は、こんなに明るい月の夜であったのか。
 一昨日、名古屋のイマナス亭へ出かけたとき、22階のビルの窓から見た月も美しかった。眼下に広がる街の明かりの上に、燦々と輝く月があった。空気が澄んできて、夜空も夜景もきれいな季節になってきた。
 明日の夜は「宵待月」、そして本番「中秋の名月」、その翌日は「十六夜(いざよい)」、そして「立待月」。この時期は台風や秋雨前線の影響で晴れの日が続かず、いずれかの月を愛でることができればよしとする人々の気持ちが、前後の月にも意味深い名前をつけたのだろう。ところで、「月月に 月見る月は多けれど 月見る月は この月の月」って、誰の作でしたっけ?



【56】 乗鞍スカイラインと白骨温泉   (9.3/4)乗鞍スカイライン
 今日も、中部以西は晴れマークが並んでいる。9月の声を聞いてから、下界がどうも暑い。どこか涼しいところへ行こうと思って、乗鞍岳を目指した。スカイラインは今年からマイカー規制が布かれ、ちょっと様変わりしたようである。
 朝7時30分出発。東海北陸自動車道を荘川まで走って、朝食を食べていないので高山で少し早い昼食を取り、平湯に着いたのが午後1時前。ほおのき平駐車場に車を停めて、畳平までの専用バスに乗る。往復1800円は、かつての乗鞍スカイラインは往復3000円ほどしたと思うので、安いというべきなのだろうが、3名・4名と人数が増えれば物入りというべきか。
 バスの座席に座ると乗用車よりも視線が高いので、車窓から眺める景色も目新しい感じがした。何よりも運転しなくていいので観賞に浸ることができる。下界は良く晴れていたのだが、山頂に近づくにしたがって雲が出てきた。ほおのき平を出発してから約50分、畳平に降り立つと肌を撫でる風が、ほんのりと冷気を含んで心地よい。周囲の木々はほのかに色づいて、どこ白骨温泉となく秋のいでたちである。
 今まで乗鞍へは10回に余るほど来ているが、実はコロナ観測所や山頂へ行ったことがない。いつも畳平に夕方着くので、山頂付近を歩き回る時間がないのだ。白骨温泉の露天風呂今日もすでに2時過ぎ、山頂散策はあきらめて、3時30分、早々に下りのバスに乗る。
 途中から白骨温泉の丸木旅館に電話を入れて、今夜の宿を頼む。白骨は、昔は白船温泉といったそうだが、中里介山の「大菩薩峠」に白骨温泉という名で登場し、以来その名まえが定着したとか。ここのお湯は炭酸石灰を多く含み、噴出するまでは無色透明だけれども、空気に触れると白濁するのだという。湯の色は、ミルクを流し丸木旅館の大浴場込んだような乳白色である。
 石灰を含むので、噴出口に多くの沈殿物が堆積する。幾重にも積もって「噴湯丘」という独特の景観を呈する。浴場にも石灰の沈殿が溜まり、湯殿にも、排水溝にも、いたるところに沈殿物が見られる。
 沈殿物が混ざっているせいか、神経質な向きには異物が浮いているようで気になるかもしれないが、乳白色の湯は肌に優しく、湯上りの心地も申し分がない。胃腸病・神経系統諸病・婦人病などに効くとされていて、少量の硫酸を含むので皮膚を丈夫にするためか、古来「3日入れば、風邪をひかない」といわれる。
 日が暮れると、あたりの山々は漆黒の闇に包まれ、その懐(ふところ)に抱かれたいで湯の里は静寂の中に沈む。宿の浴場は24時間。12時過ぎ、ひとり、露天風呂の湯船にひたる。見上げれば満天の星空! ゆったりとひそやかに時が過ぎる山間(やまあい)の夜…。あたりの涼やかさは、もうすっかり秋の気配である。




【55】 奈良 ライトアップ プロムナード 2003          鷺池の浮御堂  (8.28)

 久しぶりに大阪へ車で出かけた。昨日お昼過ぎに津を発ち、昨夜は大阪泊まり。今日の会議が早くに終わったら、神戸へ足を伸ばしてみるつもりだったのだが、終了が6時半。そのまま帰ることにして、途中、名阪道を天理で降り、奈良へ寄ってみた。
 猿沢の池の横を通ると、ライトアップされた興福寺の五重塔が見える。奈良は今、東大寺大仏殿・興福寺五重塔など、奈良を代表する建造物など11ヶ所をほのかな明かりで映し出し、夏から秋への古都の夕景色を訪ねる『ライトアッププロムナード・なら 2003』なる催しが行われているのだ。興福寺 五重塔
 コースは、奈良駅から猿沢池〜興福寺〜国立博物館〜鷺池浮御堂〜東大寺をめぐるが、夕食もしたいし、歩いて回るほどの余裕もない。ほとんどを車で回り、それぞれで降りて拝観してきた。

 光りに浮かぶ興福寺の五重塔は圧巻だ。この塔は、他寺の五重塔に比べて大きいのではないか。詳しく調べてみたことはないが、塔の下から見上げると、天平の反り上がりをみせる五層の屋根の威容が重々しく迫ってくる。
 鷺池に浮かぶ浮御堂は、平成5年に新装なった優美な姿を池面に映して幻想的である。少し歩いてみようと思い、飛火野の木々の間を縫って、東大寺へ向かった。
 午後8時を過ぎたこの時間でも、夜遊び好きの鹿が松の木の陰から出てきて、おやつをねだる。ごめん、鹿せんべいを売る茶屋も、もう開いていない。
 歴史的建造物と自然的景観が渾然一体となった奈良公園を舞台に、趣き深い古都の情感をいや増す光の演出…。控えめなやわい光りに浮かぶ天平の甍は、昼間とはまた違った表情を見せる。繁華街 奈良タウン
 

 近鉄奈良駅の近くに車を預け、新興の繁華街「奈良タウン」を歩いた。古伊万里の器が店内狭しと並ぶ、和食処『味恵方』へ上がる。季節の食材を吟味した料理は、懐石料理が6000円から。今日は看板近い時間であったので四季御膳4000円を頼み、ウーロン茶をサービスしてもらった。8種の小盛り皿、鮪・鯛・イカの刺身3種盛り、揚げ物、朴葉包みの味噌漬け肉、白味噌の汁。最後にほうじ茶の茶漬けと沢庵の浅漬けがさっぱりと切り上げてくれる。と、思ったら、黒砂糖味のシャーベットまで付いて、満腹!。

 店を出て、時計を見ると10時。 JR奈良駅から猿沢池に至るこの三条通り界隈は奈良一の繁華街のはずだが、金曜日の夜というのに人通りが少ない。通りの店も、シャッターを閉めているところが少なくない。奈良の人たちの穴場はどこだ。もう一度、奈良公園へ戻って、鹿と遊ぶか。


【54】 名古屋 広小路まつり                      (8.23)

 夕方から、ご飯でも食べようかと名古屋へ出た。途中の東名阪道に車が多い。夏休み最後の土曜日だから行楽帰りか…と思っていたところ、名古屋市内も多くの車で、栄に近づくほど渋滞がひどくなる。いつもの駐車場から少し遠いところに車を入れて歩き出したら、広小路が通行止めになっていて歩行者天国! 沿道にたくさんの屋台が並び、「広小路まつり」の案内板が立っている。広小路通りにしつらえられた移動舞台
 道にしつらえられた仮設舞台では、さまざまな大道芸やバンド、ダンスなどが賑やかに自慢のパフォーマンスを繰り広げている。昼にはさまざまな行列や市消防音楽隊の演奏が披露されたそうだ。百貨店も協賛して、午後9時までの営業という。冷房を求めて入ってみたのだが、三越は3階まで、婦人用の服飾・雑貨・化粧品売り場だけが開いていた。男は相手にしない。三越前の舞台では「リオのカーニバル」、金髪の踊り子のヒップの高さが気になった。
 久屋広場にもたくさんの舞台が設けられていて、屋台が並び、たいへんな人出のようだったが、どういうものか…、私は祭りなどの喧騒が苦手だ。三越前から踵(きびす)を返し、「一品料理全品5割引」と書かれた優待券を握り締めて、錦の「和風四季亭」へ向かった。


【53】 清水寺秘仏のご開帳と大文字送り火               (8.16)清水寺奥の院ご本尊(秘仏) 千手観音 

 清水寺奥の院のご本尊「千手観音菩薩坐像」が、脇侍の地蔵菩薩・毘沙門天や風神・雷神とともに、243年ぶりに開帳されたと聞いて、お昼から拝観に出かけた。
 丸山公園に車を停めて、八坂神社を抜け、高台寺道から三寧坂・二寧坂・一寧坂を登る。すごい人出だ。そういえば今夜は大文字。お盆に帰って来た亡き人の魂を、霊界に送る五山の送り火が、京都の夜空を焦がす。一寧坂で舞妓さんに会った。アルバイトさんか…。
 一寧坂で舞妓さんに会った。でも、振る舞いが素人っぽい。アルバイトさんだろう、本物はもっとキリッとしている。道を歩いているときは…。

 千手観音さまは、まばゆいばかりの仏様だ。正面のお顔と、向かって右に怒りを表す瞋意面、左は慈悲を表す菩薩面の三面を持たれ、過去・現在・未来の三世を観ぜ富美屋の川床られる。ヒノキ材の一本割矧造りの坐像で、鎌倉初期の彫刻仏像である。
 慈愛あふれる観音様に比べて、左右の梁の上から下界に睨みを利かす風神・雷神の躍動感はどうだ! 江戸初期、七条大仏師庚音作とあるが、青肌の裸姿で風袋を背負い天空を駆ける風神、赤鬼のような裸姿で虎皮の褌をまとい、背中の小太鼓を打ち鳴らし雷光を発する雷神。不況を吹き飛ばし、たるんだ世の中に活を入れるためにのお出ましと見た。
 夜7時。先斗町へ出て、富美屋へ上がった。加茂の河原に浴衣姿の人々が行き交い、川岸の床席の灯かりが点る。川面を吹きぬける夜風が涼しい。
 午後8時、東山三十六峰如意ヶ嶽の支峰、大文字山山麓の大の字に火が入る。左京区松ヶ崎西山・東山の先斗町 富美屋の川床妙・法、北区西賀茂船山の船形、北区大北山の左大文字、そして右京区北嵯峨の水尾山(曼荼羅山)の鳥居形を合わせて五山の送り火というが、この三条河原の床席からは東山の大文字がビルの隙間からかすかに見える程度である。
ビルの合間から望む 大文字

 ← 真ん中左上、かすかに浮かぶ「大」の字の灯かりがわかりますか。


 もしあなたが「今日は大文字焼きの日ですね」と言ったら、あなたは京都人からヒンシュクを買うことになる。京都の人は「今日は大文字さんの日どすなぁ」というような表現はしても、”大文字焼き”とは言わない。「何とか焼きやなんて、まるで饅頭みたいに言わんといて」なのである。
 小1時間…、最後のほうはかすかな残り火が、この世への未練の情念のようにゆらゆらと揺らいで、やがて、いつの間にか山肌はもとの暗闇に戻っていた。
 大文字の送り火を終えると、京都は足早に秋へと装いを替える。


【52】 躍進する横浜 みなとみらい21花火             (8.2)

 東京での仕事が午前中に終わったので、横浜に出てみようと、JRに飛び乗った。ほぼ15年ぶりの横浜である。躍進する横浜はたいへんな開発ブームで、新しいビルが次々と建設されている。赤レンガ倉庫
 駅前からタクシーに乗って一回りしてもらった。みなとみらい21中央地区に建つ「横浜ランドマークタワー」は、日本一の高さだとか。先日、六本木タワービルに登ってきたのに…。
 新港地区の赤レンガ倉庫は、昔ながらのいでたちでノスタルジアを誘う。タクシーにちょっと待ってもらって中をのぞくと、レストランやお店屋さんが並んでいる。輸入雑貨やアンティークな西洋家具にすばらしいものがたくさんあった。
 大桟橋埠頭を一周して山下公園から、坂を上って港が見える丘公園から 横浜港ベイブリッジ港の見える丘公園へ。ここでも少し下車して横浜港を一望させてもらう。左手にマリンタワーから山下埠頭、その向こうに国際客船ターミナル、さらに新港地区が広がる。右には、横浜ベイブリッジが対岸へと延びる。
 外人墓地へも寄ってもらった。望郷の念を抱いたまま異国の土に帰した人々の思いが胸を打つ。
 「ひととおり、回りました」と言う運転手さんに、もう一度「赤レンガ倉庫」へ戻ってもらい、そこでタクシーを降りて、2号館の「横浜たちばな亭」で軽く昼食。そのあと館内のお店屋さんをのぞいて歩き、オランダ製の帽子とちょっと古い組みガラスのコップを買ってきた。古いステンドグラス、素晴らしい色彩のものがたくさん並んでいた。
 国際ターミナルに豪華客船「飛鳥」が入港していたので見に行ったあと横浜中華街 萬珍楼、元町のショッピング街をぶらついてから、中華街の「萬珍楼」へ。今夜は横浜港の花火大会なので、中華街もごった返している。「飲茶ですか。それともお食事?」と聞かれて、「食事!」と答えると、約30分ほど待たされて席に案内してくれた。
 海鮮おこげ、エビと野菜の甘煮、フカヒレスープをオール1人前と頼む(メニューに全品とも1人用いくら、2人用いくらと書いてある)と、黒服ウエイターくん、ちょっと変な顔をしたように思ったのは僕のかんぐりか。だって、周囲はみんな1万5千円ほどのコースを頼んで、シーンとした雰囲気の中で食べている。でも俺だって、3品で9800ナンボかを払ったぞ!
 萬珍楼は、飲茶専用の店が近所にあって、軽い食事をする人はそちらの店を利用する。飲茶店はこの店の静けさと対照的に、ひっきりなしに人が出入りし、注文に品出しに活気あふれる雰囲気だ。『3品なら、飲茶店でしょ』という黒服くんの雰囲気を感じた横浜 花火のは、読みすぎか。
 しかし大胆にも、たいしたものを頼まなかった割には粘りに粘った。花火まで、まだ間があったし、外は暑い。「まぁこれぐらいにしといたろか。俺を怒らせると怖いぞ!」と捨てぜりふを口には出さずに外へ出ると、ようやくあたりは夕闇が迫り、町に明かりが灯り出していた。山下公園までブラブラ歩き、芝生の上へ新聞紙を敷いて寝転がる。花火見物の態勢だ。
 『ン、何か足らない』。そうか…と気づいて、焼きそばとベビーカステラ、それにコーラを買ってきた。満腹でも、花火アイテムが揃わないと雰囲気が整わない。
 ン、花火を見ていたら、新幹線の最終に間に合わないことにも気づいた。まぁ、なんとかなるだろう。



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