【7】 靖国神社参拝について                 2001.07.25
     − 日本は自国の論理を確立することが必要 −   


 小泉総理の靖国神社参拝について、中国や韓国から厳しい注文がつけられている。「国のために戦い戦死した英霊の御霊を安んじ奉るために靖国神社へ参拝することは、日本国民として当然の行為である」とする小泉総理に対して、「靖国神社にはA級戦犯が合祀されている。中国政府はこれまで国民に対し、先の大戦において日本で悪いのは一部の戦犯とされるものたちで、日本国民も被害者であると、中国国民に説明してきたのに、A級戦犯が祀られている靖国神社へ総理が参拝しては、中国国民は納得せず、中国政府の立場がない」と抗議しているわけである。
 もう戦後56年を経ようとしている今日、まだこんなことを処理できずにいる日本外交の及び腰も、構造改革の対象になるのではないか。中国や韓国は、外交の手段として有効である以上、この問題を時効とすることはないだろう。だから、日本が、正当な論理をもってこの問題についての日本の姿勢を厳然と世界に示し、以後のこの問題およびこれに準じる事柄は、その論理基準に従って判断処理を行うべきである。
 難しい問題であるが、東条英機首相以下の極東軍事裁判において戦犯とされた人たちも、日本の国家と国民のことを慮って行動を起こしたのであろう。諸般の情勢を判断して、日本の国の取るべき道はこれしかないと苦渋の判断をした結果として、戦争への道を歩んだのであろう。もしそれが裁かれるべき犯罪だとしたら、歴史上の幾多の戦争において、第一に宣戦布告を行ったものは、全て戦犯ではないのか。人道に対する罪…、民主主義に対する罪…などなど、所詮は戦勝国が敗者を裁く罪状でしかない。歴史にもしはないが、もし、日本が勝っていたら、広島・長崎に原爆を投下した責任者は、何十万人の民間人を巻き込むことを明白な前提として無差別大量殺戮を行った間違いなく人道に対する犯罪者であろう。
 ここで論じるには膨大すぎる事柄だが、戦後半世紀を経て、責任を問われて絞首刑台に消えた日本人戦犯たちの罪を、中国や韓国は永遠に問わねばならないのだろうか。ましてや、日本の国民が靖国問題を論じるとき、大戦に散った戦死者に鞭打つ言動を弄したり、政争の具としての扱いをなすなどは、恥ずべきである。『A級戦犯が合祀されているのに…』と叫ぶ野党幹事長の言葉には、日本の国家に殉じた死者への慈しみを感じることが出来ない。 
 各国国民はそれぞれの歴史を背負って生きている。歴史を歪曲することは卑しいが、事実を事実として国に殉じた人々の御霊を鎮め参らせることに、なんの不都合があるのか。百歩譲って、日本の国益(利益のために誇りを切り売りするような嫌な言葉ですが)のために、近隣諸国に対する配慮を必要とするならば、日本としての論理を確立して、世界にそれを問うことである。国際社会の中で、日本は今、評価を得るべき自国の論理を発言する時期に来ている。



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