【11】小泉首相、8月13日 靖国参拝について    2001.08.14


 8月13日の小泉首相の靖国参拝から一夜明けて、国の内外各方面からさまざまの反応が寄せられている。参拝賛成派は「15日の公言を繰り返しておいて、13日に突然の訪問では意味が半減する」と言い、反対派は「これほどの反対の中、参拝を強行するのはゆるせない」といったようで、賛否両派から厳しい批判が相次いでいる。
 「私はここに、こうしたわが国の悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を捧げたいと思います」とする小泉首相の談話の真意を疑うものではないが、「現在の私は、幅広い国益を踏まえ、一身を投げ出して内閣総理大臣としての職責を果たし、諸課題の解決にあたらなければならない立場」にあるため苦渋の選択を行って8月13日に参拝したとする論理は、小泉支持者の理解すら得られない。
 事実、8月13日の参拝では、靖国問題に関わる事柄は何一つ解決されることはなかった。先の大戦の検証、開戦の必然性、戦争そのものの犯罪、A級戦犯とは何か、極東軍事裁判の正当性、日本と日本人は戦争犯罪人なのか、戦時賠償とは何か、そしてそれは物質と心の両面でどのように処理されてきたのか、第2次世界大戦は日本とドイツとイタリヤが悪者で連合国は全て正義なのか…。
 日本は、先の大戦の廃墟の中から再興することを至上の目標として、この56年間をあらゆることに目をつむり突き進んできた。だから、その過程においては常に戦後がつきまとっている。正の財産としては、焼け野原を出発点に見事な躍進を遂げた経済発展を柱として、国際舞台への復帰、豊かな国民生活の実現などである。反面、経済発展は「軍事や防衛を一顧だにしない平和主義(?)一辺倒」であったし、国際舞台への復帰は「金だけ出して血と汗を流さない、戦争犯罪人の日本」であり、豊かな国民生活は「自らの国家や家庭に誇りの持てない人々の精神的基盤なき物質的満足」であって、これらはみな、先の敗戦から生じた社会の構造や精神のあり方の影を引きずっている。
 戦後56年間の日本の根底にあるこれらの問題に正対する機会を、わが国はまた失った。


 指摘されているように、今後の改革の推進は本当にできるのかが危ぶまれる。小泉首相は、13日参拝の決断を山崎幹事長と加藤紘一元幹事長に相談した際に行なったと伝えられているが、かつてYKKと称された連携時代のよしみであろうか。
 国の大事を相談する相手として、山崎 拓氏は自民党現幹事長で形の上で外すことは出来ないけれども、その意見を最終的なものとしてはならない。山崎 拓氏は、長年の経験から現状の政治に対してそれを理解判断して手段を講じること、そしてその人柄は信頼できる。先年の「加藤の乱」のときも、到底理解の範囲を越える加藤紘一氏の行動にも黙って支持を表していて、信義に厚い。しかし、道を切り開き、新しい時代を創る役割を求めてはならない。
 加藤紘一氏であるが、この政治家の判断・行動は全く理解し難い。先年の「加藤の乱」のお粗末さは何をかいわんやであるが、それは別にしても、対中国策を辿ってみると、官房長官時代には天安門事件・地下核実験で先進7カ国のうち日本を除く各国が制裁措置を続ける中で、こともあろうに天皇訪中を実現させている。そして幹事長時代には、日本はガイドラインの見直しを行ったのだが、その年訪中して、「日本のガイドライン見直しは中国を念頭に置いたものではない。日本国民は中国に北朝鮮の数百倍の軍事的能力があっても本気で心配していない」とコメントしている。かつて防衛庁長官を務めた加藤氏が、中国の脅威を知らないはずがない。心にもないその場を取り繕うおべっかである。加藤紘一とは、この程度の、中国シンパである。
 この2氏に、政権の成否を賭けた事柄の判断を問うたというのであれば、小泉首相も、周りに人がいないというべきか。これからのさまざまな政策について、その行方が危ぶまれる。
 

 参拝を終えて小泉首相はテレビに向かい、「小泉は人のいうことを聞かないといわれていますが、幸にして耳は二つありますので…」と述べていたが、今までの歴代の政権が、不幸にして耳が二つあり、周囲の雑音を聞きすぎてこの国を迷走させてきたのである。国民は、今までの首相と違って、自分の信じる通りの道を進もうとする小泉首相に信を託して、80%を越える支持を与えたのだ。今更、人の言に左右されてどうする。
 8月13日の参拝で、小泉首相は大きく支持率を下げたことだろう。ここでもう一度、確かな言葉で国民に語り、自らの志に邁進する姿を見せてほしい。日本国民はもうファシズムや軍国主義に染まる愚かなことはしない。その日本国民にとって、小泉首相は政治を託した夢なのである。



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