【42】瀋陽総領事館への北朝鮮住民亡命事件 その2        (2002.05.16)


 中国側は、「日本領事館員の了解のもとで拘束連行した」と言い、日本側は本庁から調査員が出向いて、「要請したことも、了解したこともない」という調査結果を公表した。しかし、「日本領事館員の安全を守るために立ち入った」というコメントから、「日本の要請によって…」と転じた中国の発表も説得力はないが、日本外務省の発表も、「(調査報告にはなくて、中国側から指摘され)駆け込んだ人は英文の亡命希望を領事館員に見せていた」などと次々と新事実が出てきて、いまいち信憑性に欠ける。わざわざ外務省から小野正昭領事移住部長ら調査団を派遣して、ことの真実をつぶさに調べたわけである。結果は、日中両国の威信にかかわる真実を示す重大な責任を持っていた。それが、報告にない新事実があとからポロポロと出てくるようでは、その責務を果たした調査であったといえないし、更には日本側の対応自体の信頼を損なってしまう。
 阿南惟茂駐中国大使が、この事件が起こる4時間前に会議の訓示で「亡命者は追い返せ。人道問題になっても、政治のゴタゴタよりましだ」と発言したという問題が生じているが、十分な根拠のある報道なのだろうか。事実とすれば、人智に悖る発言といわねばならないが、「不審者には十分注意せよ」という訓示ならば、大使として当然の訓示である。『そんなことは言っていない』で片付いてしまうような報道ならば、報じたほうの見識を疑う。話題の事件の関連だから、とにかく小耳に挟んだ程度のものでも、しっかりとした裏付けもとらないままに記事にしたと言われても仕方のない軽さである。
 阿南大使は、第二次世界大戦終戦時の阿南惟幾陸軍大臣の子息である。父の生き方をもって息子の今を云々するつもりはないが、玉音放送に先駆けたその自決こそが終戦時の各地陸軍の暴走を食い止めたとも言われる生き方を貫いた人であった。今、阿南大使の訓示が、「亡命者をできるだけ排除せよ」という意味合いを帯びるものであったとしたら、日本の戦後外交の指針がそうである以上むべないことというべきであるとしても、父子の世代でこれほどの違いを日本という国は生じていることに愕然とする。父は命を賭けて日本の国のかたちを守ろうとし、子は世界の中でできるだけ紛争の渦中には巻き込まれまいとする国の施策を守ろうとしている。


 この問題の教えるものは何であったろうか。ひとつに、国家や民族の誇りを持って生きることを、日常の中でいつも思い考える大切さに気づかされたことだろう。
 国を守り、民族の矜持を保つことは、智に働き情に掉さす場合が多いことを覚悟せねばならない。日常の中に緊張した精神を持ち続ける苦労もせねばならない。だが、日々にその覚悟と緊張を持ってこそ、人は生きるという意味を全うすることができる。経世の諸事にも、的確な対処をなすことができるのである。主権を侵されても排除できない…国の誇りを辱め、人道上の支援に手を差し伸べることもできない…自らの人格を切り売りしているような生き方は、人として生きるうえで恥ずかしいことである。
 この国は、今、大きな曲がり角に差し掛かっていることも、この問題から改めて知らされた。ここで改革を成し遂げなかったら、日本は経済破綻から政治崩壊をたどり、行き場のない国民は貧しくとも品位ある国家を選ぶことはなく、国民投票の結果として合衆国日本州への道を選ぶことになるのだろう。日本は米国の一つの州となることによって、憲法改正も経済の自己責任徹底も食料自給や社会保障の問題も容易に解決するし、対中国におびえる国防もペンタゴンの指示を待てばよいということになる。
 ヨーロッパ諸国がEUとしてクローバーリズムに対処しようとしているように、もはや世界的な激流を受け止めるには、国家としての規模は小さ過ぎるのかも知れない。日本にはもうひとつ、地理的にも歴史的にも必然性のあるアジア諸国との連携をもって、35年になるASEANを核として更なる発展強化を図り、南アジア・西アジアを含めた政治的経済的連合機構を実現していく道がある。このほうは、国家と民族の独立を掲げ、発展途上にある国も多いアジア諸国の要請を受けて援助や指導に手を貸し、新しい地域世界の実現を図らねばならない。中国や北朝鮮とも、独力で渡り合って大同団結を図らねばならない。このやっかいすぎる隣国を抱えて、日本にそれを実現する政治的土壌と経済の底力そして何よりも「志」はあるだろうか。
 このことはまた別の機会の論を待つとして、日本はここで改革を成功させなければ、国家として世界の舞台に立つ機会はもう訪れないことを繰り返しておきたい。
 小泉首相は改革を叫んで1年を経てきたが、その改革はとても失敗したら腹を切る覚悟を持っての、本気であるとは思えない。2010年に上海は、人口も規模も東京を抜く大都市になる。このことは、中国がアジアにおいて不動の位置を占めるにいたることと同義である。
 他のアジアの諸国も経済危機を乗り越えてV字型の経済復興を成し遂げ、安い人件費と建国の情熱をもって、日本のあとを追っている。欧米ヘッジファンドによって壊滅的な打撃をこうむった数年前、アジア諸国は、マレーシアのマハティール首相などのように、日本が中心となって経済共同圏を構築することを求めていたのに、日本は米国の意向に応じてアジア共同体を視野に入れることはなかった。
 不良債権の処理が進まない国内経済の建て直しに必死で、米国の意向を汲まざるを得なかったことも事実であったろう。世界の激流は、年を追うごとにその流れを加速度的に速めている。日本がここで改革に足踏みしていれば、これからの10年は、失われた10年の痛手の何倍かの致命傷をもたらすことだろう。
 アジア共同体を主導する国家と成りえるのか、それとも米国日本州として極東防衛を担うのか…、いや中華人民共和国日本省として中国語を国語とする国になるのか…、正念場であることを肝に銘じることである。



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