鈴木宗男議員の逮捕は、茶番劇の幕引きである。全てを鈴木宗男に背負わせて、外務省改革も、自民党の口利き政治や利権体質も、戦後政治の決算も、全てをあいまいにしたままで幕を引いたということであろう。
外務省では鈴木宗男につながる職員は人身御供のように挙げられ処分された。しかし、Wの背広に髭を生やし、派手なカラーシャツに胸ポケットのチーフ。ベル・エポック的(第1次世界大戦前の古き良き西欧社会)な西洋を崇拝する日本外務省の体質は改善されず、瀋陽事件に見られるように国策を背負う覚悟もないままだ。
鈴木宗男の罪状は、北方領土問題を棚上げし、対ロ外交を経済偏重に捻じ曲げたことだが、この路線を政策としたのは橋本政権であり、橋本龍太郎首相(当時)がエリツィン大統領に示した川奈提案が、鈴木氏の二島返還論の原型である。累積63億ドルにのぼる経済支援を行ったのも橋本政権であり、鈴木宗男はその路線を部分的に引きついだということだ。橋本氏はロシアのエネルギー開発という大義名分を掲げ、旧通産省や元大使を使って三井物産などに実働を担当させるといったように仕掛けは大掛かりで、今も全貌は不透明なままだが、その縮小版の鈴木宗男は捕まってしまったということである。総理として手がけたことは不問にして、一議員がのつまみ食いは見せしめに罰せられる。まさに巨悪は眠り、小悪は暴かれるという典型ではないか。
口利き政治や利権体質についても、政治家の仕事として当然などといった声が聞かれる始末で、特定の企業や団体の利便を図ることに何の反省もない。政治を私(わたくし)したり、社会正義に悖(もと)る言動は、民主主義に照らして恥ずべきことだという社会観が成立するところまでいかなければ、鈴木議員の逮捕の総括にはなるまい。
田中真紀子議員の「秘書給与流用疑惑」は、資料を揃えて彼女自身が説明するべきである。今日まで説明がされないということは、秘書給与流用はあったということだ。
この問題に対して田中真紀子は、認めれば辻本清美氏の先例があるから議員辞職ということになり、「ない」と言い続けるしかない。2年間の党員資格停止という処分も甘んじて受け、選挙を経て復活を図るしかない。この間に、世の中と政界がどう移り変わるか、その間隙に復活の萌芽を探すことである。
田中真紀子応援団の私としては、「秘書給与流用疑惑」は法律に反することと認めつつ、指摘されないだけで他に同様のことをやっている国会議員は多数いることを指摘しておきたい。だから田中真紀子は無罪と言うつもりもないが、秘書給与の一部またはほとんどを「寄付金」として処理をしているから、還流させても無罪であるというのは納得できない。法律に抵触しないとしても、国が秘書としての仕事を全うするために支給している目的を、確信的に犯しているからである。これが政治的道義的に無罪というならば、「寄付金として処理をしていたかどうか」という事務処理上の手続きの問題だけで、2年間の党員資格停止か無罪かという違いになったということである。
また、田中真紀子は外相としてなんらの仕事もしなかったという指摘を、批判勢力の国会議員や評論家・ジャーナリストなどから受けているが、外務省の問題を国民の前にさらし、政治を国民の手の届くところに降ろしたという点において、彼女の政治家としての資質を認めることができる。
外相として田中真紀子が沖縄の地位協定締結への道を開いたことを評価しないと言うのならば、最近の歴代外相の誰が外交を外交たらしめたと言うのだろうか。国策のない国の外交など、誰がやっても同じなのである。しかし、田中真紀子なくしては、外務省をはじめとする省庁の腐敗が暴かれることはなかったろうし、自民党の旧悪を背負う鈴木宗男の逮捕もなかったはずである。
さらに批判派国会議員や評論家・ジャーナリストは、田中真紀子は政治をワイドショーにしたと非難し、茶の間の主婦が政治の世界に首を突っ込んできたと批判する。自分たちの足元を見ない、おごった話だ! 彼らが今日まで、政治的言動やテレビの討論やその著作物で、幾百万語を弄して政治を語ってきて、今日のていたらくである。すなわち、国会議員や官僚は私の利益ばかりに走り、国民の政治不信は募るばかりである。それを彼女は、国民の目を政治に向けさせ、政治悪の一部を糾弾して見せたのだ。学者や評論家がいかに役に立たないものか、束になっても田中真紀子の一撃に及ばないことを、如実に見せつけられたのである。
田中真紀子は、今、政治的活力の半分をそがれている。時代と社会は、新しい政治の潮流と改革のうねりの中で、必ずや彼女を必要とすることだろう。そのために、今しばらくの時間の中で、自らのスタンスと生き方を見つめなおし、新しい田中真紀子を社会に問うて、その認知を受ける必要があるだろう。
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