【68】 58回目の終戦記念日                   (2003.8.15)


 今年も8月15日を迎えた。58年前のこの日、天皇陛下の玉音放送によって日本は連合国に無条件降伏し、太平洋戦争に終止符を打つ。爾来、この日を終戦記念日としてきた。
 新聞やテレビでは、この日に向けてさまざまの平和への提言、歴史の検証、政治の動向などの特集が組まれている。また、各政党やいろいろな団体が、やはり同様のテーマでもっての取り組みを行っている。繰り返されるのは、内閣総理大臣を初めとする閣僚たちの「靖国神社参拝問題」だ。中国・韓国からの抗議は、純粋に政治的な要請であることが解ってか解らずにか、今年も小泉首相は参拝を他日にした。中国や韓国の民衆が、「靖国へ参拝するな」と叫び続けているというのだろうか。
 昨年の終戦記念日に、「東京裁判 上・下 (朝日新聞社刊)」を読み始め、その後、他事にかまけて下巻のさわりのところでストップしてしまっているのは、わが身の怠惰であると恥じ入るかぎりだが、今思うことは、『日本は先の大戦をつぶさに検証し、国民的合意のもとの歴史的評価を確立すべき』であろうことだ。
 人は歴史を知ることによって、先人がいかに苦難を乗り越えて今日を築いてきたか、自分たちの現在には先人のいかなる願いが込められているかに思いをいたして、自分もまたその一員であることに誇りを持ち、先人の思いを汚さずに生きようとする。
 現在の日本を形成している精神的背景には、東京裁判史観が色濃く影を落としている。個々の検証は他稿に譲るとして、はたしてあの大戦は、日本の世界平和や民主主義に対する罪悪であったのか。A級戦犯とされる人々の罪は、国際法に照らして真に有罪であったのか。欧米列強のアジア進出に対して、大東亜共栄圏構想のもと、アジアの政治的共同体を目指したことは間違いであったりのか。ニュールンベルグ裁判で定められた平和に対する罪に対して有罪とされた人々は、その有罪の根拠である戦争行為を行った時点にはなかった法律によって処罰されたのである。
 現在の日本のさまざまな影の部分が、大戦の結果から尾を引く贖罪の意識の中に生じている。かの大戦は、日本にとって恥ずべき行いであったのだろうか。国家というものの非情さや力こそ正義であった世界史を知るほどに、日本がアジアをしてひとつの共同体とするべき構想を進めたことは、欧米諸国の利益に反したことは事実としても、世界平和や人道に対する犯罪だとの認識は持ち得ないのである。
 忌まわしい過去は、歴史の彼方へ風化するまで触らずに蓋をしておいた方がよいのか。いや、そうではあるまい。歴史の事実に正面から立ち向かい、自らの信ずるところに基づく主張をしてこそ、世界は日本を認めるのである。戦後58年…、かの大戦の証人も数少なくなっていく今、あの戦争を検証し、歴史の評価に立ち向かうことこそ、現在の日本に生きる我々の努めである。この国のため、この国の民のため、この国の将来のために戦ってくれた、英霊の御霊に報いる道であろう。



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