【69】 大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件 宅間被告に死刑判決  (2003.06.28)


 大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件で、8名の子どもの殺人と13名の子ども・2名の教諭に重傷を負わせた罪に問われた宅間 守被告(39)に対して、大阪地裁は求刑通り死刑判決を下した。予想通りの判決とはいうものの、法廷で暴れ、「死ぬことなんて恐れてはいない」と言い放つ宅間被告の姿にやりきれないものを感じた。精神鑑定で下された成熟しきれていない幼児的凶暴性や、遺族の気持ちを踏みにじる被告の行為といった非人間的なものに加えて、圧倒的な暴力を前になすすべを知らない、この社会に対するやりきれなさである。
 マスコミは安全であるはずの学校で起こった事件…というが、今の学校に予測できない乱入者を防ぐ手立てはない。その気になれば、誰でも簡単に教室に入ることができる。学校だけではない。日常生活の至るところで、安全であるはずの場所の、いかに不安であることか。公共の場所や路上などはおろか、個人の住宅でも、その気になればいとも簡単に侵入して犯行に及ぶことができる。95年のオウム真理教の坂本弁護士一家殺害事件、今年6月の福岡一家4人殺害事件…などなど、計画的に住宅に押し入っての犯行がいとも簡単に行われている。
 防止のためには、アメリカの新興住宅街のように地域一帯を塀で囲み、出入り口や地域内に警備員を配して出入りのチェックとパトロールを行う高負担警備型社会を完成するか(早晩、日本もこの型の社会に進むだろうが)、教育を見直して個人の徳育を向上していくことなのだろう。しかし、いずれにしても圧倒的な暴力を前にしては決め手に欠ける。 

 イスラエル対パレスチナの果てしない戦闘も、このむなしさの延長上にあるのではないか。論理も、信頼も、全ての努力が、一発の爆発の前に吹っ飛んでしまう。
 人間は、誰もがその心の奥底に、己の邪魔になる他の存在を許さない…目の前のものを抹殺して排除しようとする、本能的な営みを有している。正義のために、国のために、家族のために…、そして、自分のために! 
 人は、究極の問題解決の方法として、暴力という手段しか持ち合えないのではないか。その性(さが)を包み隠すために、社会のルールを決めて法をつくり、教育を普遍のものとして神を崇めてきた。しかし、欧米列強の帝国主義支配までさかのぼることをせずとも、今日においてさえ、アフガンやイラクでの戦争、ロシアのチェチェン制圧、中国のチベット・新疆ウイグル区への弾圧など、理由はさまざまに説明されるとしても、問題解決に対する力の行使が現実なのである。

 有史以前、人類は高い文明を築いていたけれど、社会の問題をも暴力によってしか解決できない人類は、世界が滅亡する争いを繰り広げ、ついには自らを滅ぼしてしまったのではないか…といえば、グラハム・ハンコック「神々の指紋」の世界だが、ナスカの地上絵・ピラミッド群とスフィンクス・ストーン・ヘンジ・カッパドキアの地下都市・イースター島のモアイなどなど、現代文明では説明できないミステリアスなものは多い。そのロマンの追求は他稿に譲るとして、今日のわれわれも、いつの日にかこの自らの暴力ゆえに滅んでしまうのではないか。
 武力、恫喝、術策をもって、社会の平和や安定を維持しようとする営みの、なんと空しくやりきれないことか。それでも、その努力を続けなければならないのも、人類が背負った性(さが)というものなのだろう。
 今日も、イラクではアメリカ兵が死亡し、どこかの街角では小遣い銭欲しさの少年による引ったくりが繰り返されている。




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