【76】 自衛隊のイラク派遣に思う                 (2003.11.29)


 戦後の日本が、軍備をアメリカの保護に委ねて、ひたすら経済の復興に力を注いできた国家再生の方策を「吉田ドクトリン」という。日本が今日の繁栄を遂げたのは、昭和21年から29年まで復興日本の首相を務めた(間に1年ほどの下野)吉田 茂が、経済優先の政策を遂行したからだとして、この姿勢は戦後保守政治の基本哲学とされてきた。
 しかし、吉田の本意は、昭和20年代に日本が再軍備に踏み出すことは、経済的にも社会的にも、そして何よりも当時の国民の意識として不可能であるという判断のもと、冷戦下の選択として経済優先の政治を進めたのであって、国を守り、世界の一員として役割を果たすことを放棄するものではないと書いている(回想10年 吉田茂著、中公新書)。
 日本はアメリカの傘の下で、さまざまな保護と援助を受けて国力を回復させてきた状況から、今、経済的にも科学技術も世界の国家の一員として、その役割を果たせる位置にいる。果たすべき役割を果たさずにいる日本を世界は認めるわけはなく、人員を派遣できないので何とか金で済ませてくれという姿勢は、キャッシュ・ディスペンサー(現金自動支払機)と蔑まれている。
 世界の中で、日本がその役割を果たすとはどういうことか。日本が、他の国と同等の責任と義務を果たすことである。知恵を出し、分担金を出し、科学技術を提供し、NPOの協力人員を派遣し、必要なときに自衛隊を派遣することである。当たり前のことだが、日本国内の議論はこの当たり前のことを忘れて、方法論を言い合ったり、手続きの不備を言い合っているのではないか。
 自衛隊を派遣するには、憲法条項との整合性がないのであれば、憲法を改正することである。緊急の間に合わないから、解釈や政治判断でできることを優先させるべきである。それが、世界の評価という国益を守るための、政治の責任であろう。
 派遣した場合には、テロ勢力の攻撃の標的になることは避けられまい。最悪、命を落とすことも考えられる派遣であることを承知しておかねばならない。駐屯地の周囲には堀をめぐらせ、鉄板で囲って、その中で活動するとも聞いたが、派遣の目的と支援活動の内容を考えれば、穴熊を決め込んでいることは許されない派遣なのだから、活動や移動の間に攻撃を受けることは当然であるとの覚悟が必要である。
 「テロ勢力の攻撃の標的になることは避けられまい」とか、「命を落とすことも考えられる派遣」というと、「無責任」とか「人の命を軽んじている」とかの非難をする人や勢力がある。しかし、責任があるから言わねばならないのであり、人の命の重さを思うからこそ避けて通ることができないのである。「怪我をしたり死ぬかもしれないから、しなければよい」というのであれば、こんな安易なことはない。警察官の犯罪取り締まりも、消防士の消火活動も、やめてしまえばよいのか。国民の生命と安全を守るための使命に燃え、その役割を果たすために、時には命を賭して責務に臨むのである。自衛隊員は、国家の威信を保持し、世界の一員としての当然の役割を果たすために、イラクへ赴くのである。
 だからこそ、派遣した自衛隊員が十分に活動できるだけの支援体制を、法律整備をも含めて整えることが望まれる。日本がイラクで十分な活動のできる組織として自衛隊を送り出し、自衛隊がその役割を立派に果たしてきたならば、自衛隊は日本の中での位置を大きく前進させることができるだろうし、新しい世界平和の構築へ積極的に参画していくことができることだろう。今回の自衛隊派遣は、日本が当たり前のことができる国になるかどうかが問われている。


 イラク派遣の希望者を自衛隊内で募ったところ、定員をはるかに越える応募があったという。自らの任務に対して旺盛な士気をたぎらせる自衛隊員の誇り高い志に敬意を抱くが、反面、今回の派遣には、一人一日当たり3万円の特別手当がつくという話を聞いた。もしそれが事実だとしたら、命を賭してイラクに赴く行動が、法外に高額な金目当ての労働作業と化してしまい、自衛隊の存在意義を地に堕す処置である。国民合意の支援と激励で送り出そうという意味も失せてしまうとともに、将来の自衛隊像が歪められ侮られる素因となることだろう。


 この項を起こしている途中、午前0時のNHKニュースが、「イランの日本大使館員2名が車で移動中に攻撃を受けて死亡したもよう」と伝えた。痛ましい出来事で、犠牲になられたお二人には心からのお悔やみを申し上げる。
 その遺志を全うするためにも、日本はここで踏ん張らなくてはならない。日本の進むべき道が問われている。



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