明けまして おめでとうございます                   (2004.1.1)
 本年も よろしくお願い申し上げます


【77】 年頭に際して、今年は教育についての提案をしたいと思う。 このサイトの「教育」の副題にも掲げているように、現在のわが国が抱える諸問題は、その原因の全てが教育に内在し、全ての問題の答は教育にあると、改めて思うからである。
 昨年12月に出された中教審の答申を見ると、昨年度から「ゆとり教育」の中核としてスタートした学習指導要領は「学力低下を招く」と明確に批判し、文部科学省が鳴り物入りでスタートさせた「生きる力を育てる教育」は、わずか2年足らずで見直しを余儀なくされた格好である。
 最終答申では、学習指導要領を全国の教育水準を確保する「最低基準」と鮮明に打ち出すとともに、発展的学習内容に上限を定めた「歯止め規定」の撤廃を明記している。 児童生徒の学力低下への不安、規制緩和を求める機運の高まりを踏まえた格好で、各学校が「指導要領に示されていない内容を加えて指導することで、知識を深め、学習意欲を高めたりすることも期待できる」などと、弾力的な運用や意欲的な取り組みを求めている。指導方法や教材を用意せずに、現場に丸投げするいつものやりかたで、またまた学校現場の悲鳴が聞こえてきそうである。
 あわせて、昨年度から正式に導入された、教科の枠にとらわれない授業「総合学習」の時間にも改善を求めた。総合学習は『体験活動や教員の意欲的な取り組みで児童生徒の問題意識を高めたり、児童生徒の学習意欲が向上した』とする実績の半面で、教育内容に乏しい授業が意味もなく行われていたり、教師の政治信条や独善的な思い込みに基づく偏向教育が見られたりもするなどと指摘し、答申は市町村教委や学校で全体計画を作成、授業後の自己評価の必要性を指摘し、改善を求めている。


 新指導要領が学力の低下を招くことは明確に見通されたことであり、私は以前疲れ果てる教師、崩壊する授業の項で、「これで、日本の子ども達の学力低下を招いたら、遠山文相や文科省局長・課長のクビで償える問題ではない」と書いて、文科省や担当者の責任を問うた。
 振り返って、教育の現場から、新指導要領や総合学習などに対する批判と改善策が提示されなかったことも、極めて残念なことであるといわねばならない。
 私は、さまざまな取り組みを実現させている愛知県犬山市の例を挙げて(地方自治体は、独自の教育プログラムを)、「今、文部科学省を初めとする国の教育政策がそうであるとするのならば、愛知県犬山市などですでにその取り組みが始まっているように、地方自治体は学習事項を整理して独自の教育プログラムを組み上げ、学力低下必至の現状に対して郷土の教育を守って、敢然と立つ姿勢を示さなければならない。「全国学力テストで、平均に対してこれだけのプラスをしました。学校崩壊・学級崩壊は、我が県や市町村ではでは無縁です」と胸を張れる成果を挙げ、結果を満天下に堂々と誇るべきプログラムをスタートさせるべきだと思う」と、途方自治体と学校現場の取り組みを促してきた。
 現在、私の近い周りで、新指導要領によって懸念される学力低下を防ぐために、新しい教育プログラムがスタートしたという話は聞かない。
 だとすれば、教育委員会などの行政当局も各種の教育機関も、さらには学校現場も、文部科学省と同等の責任を問われても仕方がない。実例として蔭山メソッドで知られる蔭山英男先生や犬山市の取り組みなどがあるのに、なぜ全国の教育担当者は動かなかったのだろうか。問題が存在することを知りながら、自ら行動しようとしないところに、教育改革への最大の問題点があるのではないだろうか。
 

 学力低下への歯止めに対して、行動しようとしない教育現場の姿勢は、自らの教育権を手放そうとしているかにも見える。
 顕著な一例が、「学習は塾で」と学校や教師までもが口にしてはばからないことである。かつての学校には、全体にも個々の教師の間にも学習塾に対抗する意地のようなかたくなさがあって、教師の子弟が塾に通うことは珍しくはなかったけれども、建前では学校や教師は塾を認めてはいなくて、例えば生徒が部活を「塾の時間なので」と切り上げることが言い出しにくい雰囲気があった。今は、『勉強は塾で』を教師自身もどこかで認めていて、「部活と塾の、どちらが大事ナンや」と一喝できない。
 私自身も20年間ほど学習塾を開いてきたが、先年、変わってきた子どもと…何よりも親たちに付き合うのに限界を感じてやめてしまった。
 学習塾を開いていたときは、「学校にはできない教育をやるんだ」と張り切って、子どもたちとともに、やれキャンプだ、社会見学だ、百人一首大会だ、星空観察会だ…などと遊び歩いていた。宿題を忘れた子どもを夜中の2時ごろまで残して、「もう、私どもは寝ますのでよろしく」とお母さんから電話を受け、「送り届けて、布団の中へ入れますから」と答えたりしたのを思い出す。子どもとも、その家族とも人間関係が密であり、それだからこそ私の言葉は子どもたちの理解に繋がったのだと思うし、家族の皆さんの信頼も得られたのだと思う。
 最大時の生徒数は900名に迫って、公立中学の規模を超え、生徒たちの成績も市内の各中学校の1番の生徒を並べていたし、全国学習塾協会主催の模擬テストにおいても、中3の部で全国順位50位までの中に14名が入るというレベルの高さであった。しかし、「学校にはできない教育をやるんだ」という当初の目標を、成績でも…生徒の掌握でも達成できたと実感したそのときも、『学習塾は、社会のアダ花。学校がしっかりしていれば、必要のない存在』であるということを、明確に認識していた。
 現在、学習塾や予備校は社会権を得て、世の中に必要な存在と認められるようになり、長年にわたって学習塾の内容を充実させて、社会的な認知を得ようと努力してきた私たちにとっては喜ぶべき状況なのであろうが、しかし、私はやはり「ちょっと待った」と言わなければならない。
 もし、学習塾や予備校を認めてしまったならば、教育は「金」ということになる。世界最高水準の所得を誇る日本にあっては、金をかけてハイレベルの教育が受けられるのならば、それでよしとする議論が成り立つというのならば、ことの本質をわきまえない、荒唐無稽な論議である。
 学校教育が学習塾や予備校のレベルで行えていれば、学習塾も予備校も存在しない。生まれることもないのである。膨大な人的資産と潤沢な資金を注いで、国家プロジェクトとして行われる文部行政が、学習塾や予備校程度のことを行えないわけがない。行えない…行ってこなかったとすれば、ここでも文部科学省を初めとする教育にかかわる人々に、その最大の阻害要因がある。
 体制が悪いという指摘もあろう。確かに、競争原理の働かないお役所仕事、結果責任のない甘えた体質、非効率・採算性度外視の体制…など、学校教育をめぐる社会的状況は悲惨である。しかし、日本のあちらこちらでさまざまな実践や改革への動きがあるように、有為な「人」が居れば社会は動く。
 是非とも教育に人材を発掘投入し、実効的な体制を確立して、「学問することは楽しいことだということを知って、主体的に学習に取り組む子ども」「自然を愛し、人を愛して、自らの人生を切り開いていく子ども」を育てる教育を実現していきたい。
 教育現場や研究会・機関・団体、教育行政担当は、それぞれの場で教育の方法を研究・整備し、教材を作成し環境を整備して、子どもたちの学ぶ心に灯をともすとともに、その学問する権利を保障するべきだろう。教育を確立することは、社会を正すことである。



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