【117】学校式典で、日の丸・君が代を義務付けることは違法と東京地裁  2006.09.23


 東京都立の高校・養護学校教師、元教師らが、「日の丸・君が代の強制は、思想・良心の自由の侵害だ」と訴えていた裁判で、東京地裁の難波孝一裁判長は、「国歌斉唱などを強制するのは思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反する」「都教委の通達や指導は、行政の教育への不当介入の排除を定めた教育基本法に違反する」と述べ、『日の丸・君が代を教師に義務づけた東京都教委の通達と校長の職務命令は違法』との判決を出した。


 法律的論理も、社会の規範も、国際的な常識も吹き飛ばす、破天荒な判決である。裁判官というのは、自分のそのときの信条のみで、判決文を書いていいのだろうか。
 判決は「式典で国旗を掲げ、国歌を斉唱することは有意義」「国旗・国歌を尊重する態度を育てることは重要」と言い、「入学式や卒業式は、生徒に厳粛で清新な気分を味わわせ、集団への所属感を深めさせる貴重な機会だ」と述べている。それなのに、『日の丸・君が代を教師に義務づけるのは違法』だという。論理的矛盾に満ち満ちているといわねばなるまい。
 判決文中に、「(日の丸・君が代は)宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という部分がある。これが、矛盾に満ちた理由と結論を縒り合わせる理由であると考えられなくもないが、日の丸・君が代が、かつての大戦を想起させ、日本軍国主義を復活させるなどといった議論は、何百回と領海領空を犯されながら1発の砲弾も撃ってはいない、戦後60年の日本が淘汰し尽した幻想でしかない。今の日本人の誰に聞いても、争いの解決手段に戦争を挙げる人はいないし、軍国主義の復活を危惧する人もいまい。
 式典が「式次第」に従って進行されることは当然であり、いかなる式典であっても、起立するときには起立し、礼をする場面では礼をしなくては、式典は成立しない。しかし、原告たちは『日の丸に起立・礼をさせ、君が代を歌うことを強制するのは「思想・良心の自由の侵害だ』と言い、判決は『教師には、そうした通達・命令に従う義務はない。国旗に向かって起立しなかったり、国歌を斉唱しなかったとしても、処分されるべきではない』と言うのである。「起立」と言っても自分の判断で起立しなくてよいというのでは、入学式も卒業式も心に残る厳粛なものにはなるまい。
 繰り返すが、「日の丸と君が代」だから、起立・礼・斉唱は「思想・良心の自由の侵害だ」というのか。国民の意識としては、平和日本の60年間に過去の戦火の幻影は払拭されていると先に述べた通りだが、今や日本人は、オリンピックにも、サッカーのワールドカップにも、高校野球の甲子園にも、日の丸を手に人々は声援を送り、国歌斉唱には選手も観客も君が代を歌っている。今や、全国津々浦々に国旗「日の丸」と国歌「君が代」は何の違和感もなく受け入れられていて、人々は日の丸を振って皇室の新宮様の誕生を祝い、国歌斉唱と言えば君が代を歌っているのである。また、世界中、いずれの国であってもセレモニーなどの場では国旗掲揚・国歌斉唱は普通に見られる光景であり、国旗・国歌に対しては、自国・他国を問わず敬意を表するのは当然の国際的な礼儀だろう。
 「日の丸・君が代」に国家主義の幻影を見るほうが、特異な存在なのである。判決は、これら「少数者の思想・良心の自由」を過大評価し過ぎている。少数意見は貴重であり、時として警鐘の役割を果たす。しかし、国の方向を判断する裁判所の判決が、少数の幻想的意見を正とし、法律的論理に則った多数の常識を否とする判決を出していては、社会は混乱する。それでは、裁判所は、裁判官の恣意的な個人の見解をもって判決とするのかと糾弾されても仕方がない。


 今回の誤った判決が、全国の教育現場に、無用の混乱をもたらすのではないかと心配である。トラブルを生じなくとも、校長の自発的判断で、一部の教職員に配慮し、「東京地裁の判例もありますので、君が代の斉唱はなしということで…」などという事態があれば、無用の混乱である。
 さらに、「起立・礼」に立たない生徒がいても、それは「思想・良心の自由」なのである。判決は、「入学式や卒業式は、生徒に厳粛で清新な気分を味わわせ、集団への所属感を深めさせる貴重な機会だ」と結論部分で述べているが、むしろこの判決が、教師も生徒も保護者も、個人の思想と良心による、てんでんばらばらな式典を奨励するようなことにならないだろうか。
 指導要領に明記されている「国旗・国歌を尊重する」どころか、不敬・反発の態度を育てたりはしないか…。自由と身勝手をはき違える、戦後教育が繰り返してきた誤りを、また子どもたちにさせてしまうことになるのではないか…。
 この危惧が、無用の心配に終われば幸いである。



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