【123】 祖国…って、何だ!                 2007.01.30
  - 中国残留孤児訴訟、 東京地裁 国の賠償を認めず -


 永住帰国した中国残留孤児が「戦後、中国に置き去りにされ、帰国後も苦しい生活を強いられた」として、国に1人当たり3300万円の損害賠償を求めた「中国残留孤児集団訴訟」のうち、関東地方に住む孤児40人(1人死亡)が起こした第1次東京訴訟の判決が、30日、東京地裁であった。
 加藤謙一裁判長は「国が孤児の早期帰国を実現する義務を負うと認めることは出来ない」などと述べ、孤児側の請求を棄却する判決を言い渡した。


 判決を聞いたとき、「祖国とは、一体 何なんだろう」と思った。その過酷な歳月と国に棄てられた無念の胸中を察すると、思わず涙がこぼれた。


 残留孤児たちは、決して自らの意思で中国に残ったわけでなく、抗(あらが)う術(すべ)もなく運命のままに大地に生きねばならなかった彼らの一生は、あまりに過酷であった。中国残留孤児を生んだ状況を、「Wikipedia百科事典」の記述を抜粋しながら、もう一度見つめてみよう。
 1931(昭和6)年9月18日に勃発した満州事変ののち、日本は清のラストエンペラー溥儀を担ぎ出し、旧満州(現中国東北部)に満州国をつくった。建国と同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住が実行され、多くの人たちが国策としての満蒙開拓団に参加して、王道楽土の実現を目指し海を渡った。
 1936年、廣田内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、計画では500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んでいる。満州国の首都であった長春をはじめ、はるか北方のハルピンを越えてソ連国境付近に入植した人も多かった。
 しかし、満州開拓に夢を描き、厳しい自然に立ち向かって大豆・高粱などの大規模農地を拓いた人々を、悪夢以上に苛烈な現実が襲った。ソ連が、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄して、1945年8月8日 日本に宣戦布告、翌9日に満州国境を越えて侵攻を開始したのである。これに対して満州国を防衛する関東軍は、日ソ中立条約をあてに1942年以降南方戦線などへ部隊を転進させるなどして十分な戦力を持たず、侵攻を食い止めることは全くできなかった。


 ソ連の侵攻で犠牲となったのが、主に非戦闘員である満蒙開拓移民団員をはじめとする日本人居留民たちである。関東軍司令部が通化(トンホワ)へ移動する際に民間人の移動も検討されたが、邦人130万余名の輸送作戦に必要な輸送手段、水食料、時間もなく、東京の開拓総局に拒絶され、結果、彼らは日本軍の保護もなく満州の荒野に放置され、攻め込んだソ連機甲師団に蹂躙される結果になった。
 ソ連兵の残虐行為については伝える人もほとんど残っていないが、略奪・暴行・強姦・殺傷はいたるところで行なわれ、市民を道路に一列に横に寝かせ戦車の履帯でひき殺したことなどが、当時幼かったわずかな生存者の口から語られている。残留者たちは、その強引な土地収奪経緯から開拓団に恨みを持つ満州族や漢族、朝鮮族によって殺害されたりもしたが、逃げることもできないとの判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。
 この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身によって、より多くの生存の機会を子供に与えるためにと現地人に預けられたりして大陸に残り、いわゆる中国残留日本人孤児として、日本語も肉親の顔も、さらには自分の日本名さえも忘れて(もしくは知らぬまま)育ち、『日本人』として差別されて苦難に満ちた人生を送ることとなる。のちに帰国してさえも、今度は『中国人』として日本社会の中で差別されて生活は厳しく、政府の援助も薄くてその苦難は終わってはいない。
 終戦間近か、当局は、この戦争が敗戦に終わること、ソ連の参戦が迫っていること、関東軍に抵抗する戦力はなく満州はソ連の機甲部隊に蹂躙されるであろうことを知っていた。ソ連軍侵攻の翌8月10日、、新京の軍属(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)はいち早く莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車で脱出して帰国を果たし、犠牲者の中に含まれることはなかった。同日、関東軍が撤退するに当たって弾薬を爆破処分。安全確認を疎かにしたため満州から引き揚げる民間人多数が巻き込まれ死傷するという、いわゆる「東安駅事件」が起きている。


 開拓団員以外でも、ソ連軍が遼東半島へ到達するまでに大連港から脱出できなかった日本人に対し、ソ連は1946年春までその帰国を許さずに極寒の収容所での越冬を強要したため、収容時に家族全員が無事であったものの、越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出し、ここでも家族離散や死別の悲劇が生まれた。この中で、身寄りのない幼児は現地の中国人の養子となって育てられ、成人女性は中国人の妻となってそれぞれ生きてゆく他なかった。
 ソ連軍に投降した兵士や、非戦闘員である開拓団員の中からも、五体満足な男子はソ連へ抑留され、零下40℃の荒野で粗衣粗食のままシベリア開発の強制労働に駆り出された。長年の間、その数65万人、そのうち24万人が酷寒・粗食・病気などで死亡とされてきたが、ペレストロイカ以降の情報公開により、抑留者は107万人、死亡した者は34万人であることが判明している。
 満州からの集団引き上げは、1946年春から一時期の中断を含め開始された。しかし、中国で国共内戦が激化したことや、内戦に勝利して中国大陸を支配した中国共産党政権と日本が国交を結ばなかったという背景もあり、日本政府は1953年に未帰還者留守家族等援護法を施行すると、1958年には集団引揚げを打切った。そして、1959年には未帰還者に関する特別措置法を施行し、給付金を圧力にして家族に死亡宣告を迫り、残留者対策の終息を図るのである。
 1972年、田中内閣のとき日中国交正常化。その9年後の1981年から、残留孤児の日本での肉親を探しが始まり、やがて肉親探しよりも日本への帰国を目的とするようになった。
 中国残留孤児たちは戦後40年近くを経てようやく帰国を果たしたものの、多くは壮年を過ぎてから日本に帰国したために現在でもその約9割が日本語を習得できず、また幼い頃から現地での労働力として扱われて教育を受けなかったり、子ども時代は中国人として育てられてきたこともあって、殆ど日本語は身につけておらず、日本での社会適応能力に乏しいとされる。彼らの労働環境は限られていて所得は低く、生活保護を受けている例も多いのが現状である。


 残留孤児は約2700人。その9割に当たる約2200人が全国で起こした集団訴訟の判決は今回で3件目。05年7月の大阪地裁判決は、孤児側の請求を棄却したが、06年12月の神戸地裁判決は、原告65人のうち61人に計4億6860万円を支払うよう国に命じる判決を言い渡し、司法判断が分かれている。
 今日の東京地裁の訴訟では、<1>国は孤児を早期に帰国させる義務を怠ったか<2>帰国後に国が施している自立支援策は十分だったか…が最大の争点になったが、判決は「原告らの損害は戦争から生じた損害とみるべきもので、帰国が遅れたことに国の違法行為があったとは認められず、法的な自立支援義務も負わない」と判断した。


 しかし、上で見てきたとおり、中国残留孤児問題は国策として進められた「満州開拓移民推進計画」がその根底であり、当時の日本は「王道楽土・五族協和」のスローガンのもと、農村青年を中心に多くの人々をソ満国境へと送り出したのである。
 そして、何よりも国が責任を負わねばならない点は、敗戦が必至であった戦争末期に、その人々に避難・帰国を勧めることもなく、ソ連侵攻が迫る満州に置き去りにしたことである。
 政治家、軍人を含め、国家公務員の行為は国の責任である。敗戦の責任を問うことはできないが、国の施策によって外地へ送り出した人々を、政治や軍務にかかわる者が逃げ出したのち、何の手当てもせずに置き去りにしたことは、大いに断罪されねばならないことである。国が国民を守らずして、何の存在意義があろうか。
 当時、1歳で中国に残された方であっても、すでに62歳の齢(よわい)を重ねている。身よりもない異国に幼い身で棄てられてから今日まで、この年月は筆舌に尽くせないご苦労であったと拝察される。やっと帰国した祖国でも、冷たい現実を突きつけられて、日々の暮らしは苦しい。
 国に、責任があることは明白だ。残留孤児の皆さんには、不幸にして帰国の夢を果たせずに満州の土の下に眠る人々の分も温かく生きていただくことが、日本が国としての責任を果たすことであり、この人々の歴史の上に今日を築くことができた国民の願いである。


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