【147】 混迷の政治、そして日本崩壊               2008.01.16
   − C型肝炎訴訟の和解、揮発油税の暫定税率廃止、子殺し・親殺し −


 前項で、私は、閉塞感の蔓延する2008年の幕開けを、「2008年 停滞・混沌、そして衰退へ」と書いた。ところが、年が明けてから今日までの政治・経済・社会などの出来事を見ると、わずか16日間で14件の身内同士の殺傷事件が起こっているなど、いったいこの国はどうしてしまったのかと、戦慄すら覚える。
 日本の政治・経済は混迷から衰退への道筋をたどろうとしているが、日本人の精神的支柱が揺らいでいる現状を見ると、やがてこの国は崩壊へのシナリオを現実のものにしようとしているのではないかと思えてならない。


 15日、薬害C型肝炎訴訟の原告団と国との和解が成立した。救済対象は後天性疾患でフェブリノゲンか第9因子製剤を投与された人と母子感染者で、約1000人が救済されるという。しかし、C型肝炎の罹病患者は23万人、道はまだまだ遠い。
 それにしても、和解金を提示されても、あくまで一律救済を主張した訴訟原告団は立派だったと思う。「私たちの取り分が減っても、訴訟に加わっていない人たちをも含めた一律救済を」と訴えて、福田首相の議員立法による一律救済を導いたのである。
 さて、国が被告となる訴訟でいつも思うことは、国民を守るべき立場の国が、国民と争ってどうするんだということである。
 困っている人が居れば、それを救済する手段を講じて守るのが国家である。原爆の被害者訴訟にしても、中国残留孤児にしても、HIV感染被害者訴訟にしても、国は自分たちに責任はないと主張し、責任のないところに金は出せないとして争っている。
 責任を問われることを回避しようとする、官僚の論理である。日本国内で起こったこと、日本国民にかかわることには、すべて国家は関わりがあって、どんな場合も当事者なのだ。政治をするものは、『雨ニモマケズ … 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ、北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ …』というのが、まさに国家たるものの基本的なあり方であることを自覚しなくてはならない。
 当事者としての意識があれば、常に最短距離での解決が図られることだろう。この国は、官僚ありて、政治がない。政治家は、いつも官僚の代弁者でしかないのだから、国にビジョンもないし、夢もない。
 でも、裁判で負けても誰も責任を問われないし取ろうともしない、摩訶不思議な国でもある。


 16日の民主党大会で、小沢代表は「ガソリンの25円値下げを実現する」と宣言し、「生活第一を貫いて政権交代を目指す」とぶち上げた。
 高騰するガソリン価格は国民生活を直撃し、産業界の打撃は甚大である。暫定税率を廃止して、ガソリン価格を下げるのが、何にも優先する喫緊の政治課題である。
 政府・与党は、2.6兆円の歳入不足が生じ、「道路が出来ない」とか、「地方への交付金が不足して、地方の予算が立たない」などと脅迫めいたことを言っているが、毎年35兆円もの赤字国債を連発しているものが、今さら言うことか。長年、政権に胡坐をかいてきた政府・与党は、ガソリンの値下げを断行することが、第一の政治課題であることに思いがいたせないのだろう。
 生じた2.6兆円分の歳入減については、節約を断行すること。タダでさえも高給が批判されている中央官庁公務員よりも120〜150%も高い給与を取っている独立法人(資料 @  A )の整理統合・廃止すら遅々として進めない政府が、2.6兆円の減収で地方へ回す金がないなど、どの口で言えたものか。
 どうしても不足するならば、禁断の借金…国債・地方債の発行をすることだ。どう頭をひねっても地方への交付金が不足するのならば、この得意技を使ってはどうか。今まで莫大な借金を重ねてきたことを棚に上げて、そんなことをしたらまた国の借金が増えると言うかもしれない。しかし、ここでガソリン価格を下げて国民生活を救済し、産業の沈滞を未然に防ぐことと、2.6兆円の国債を発行することとを秤(はかり)にかけたとき、どちらを優先すべきか…、これが政治の判断である。
 ガソリン価格を下げることは、国民生活に潤いをもたらすことから、国内消費を向上させる実質的な効果を挙げるとともに、政治が国民生活を救済するという、政治に信頼感を持たせる効果が期待できる。アメリカにせよ、中国にせよ、国民生活の向上や産業の振興は、国を挙げて取り組んでいる。日本は、手を差し伸べるどころか、その向上は自助努力に委ね、国民生活や産業を外国の手に売り渡そうとまでしてきた、日本の政治の貧しさはどうだ。
 ここで、ガソリン値下げを断行することは、政治に対する信頼を、少々でも繋ぎ止める方策なのである。長期政権に胡坐をかいてきた自民党政権に、ガソリン値下げに取り組む政治センスは失われている。政権を奪取しようとする小沢民主党であってこそ、取り組める政治課題ということなのだろう。


 16日、株価が14000円を割り込んだ。日本経済の実力からすれば13000〜14000円が妥当なところと言ってきた僕としては驚くことはないのだが、この株安をアメリカのサブプライムローンの影響とする、藤井日銀総裁や町村官房長官の見方が安易過ぎて気にかかる。
 年が明けて、いっ気に16000円から14000円割れまで下げてきたきっかけは、アメリカ発の影響だろうが、日本株の不安定さは東京市場の脆弱ぶりという致命的・根本的な問題が内在していることをしっかりと認識しなければならない。
 日本の政治に、東京市場をアジアの株取引の中心地にしようという取り組みがない。ナンバーワンでなくていい、オンリーワンなのだから…か(苦笑)。


 子が親を殺し、親が子を虐待して死に至らしめる無残な事件が相次いでいる。今朝のテレビは、「年が明けてから今日で16日間、14件の身内の殺傷事件が起こっている」と報じていた。
 子が親を殺す…、忠孝の道はどこへいったのだろう。わが国には、親や先生には手を上げるなどもってのほかであるという倫理があったのだが、近年は教育者自身が自らの聖域を否定しているのだから、子どもたちも戸惑ってしまう。
 親が子を虐待して殺すとは、動物にも劣る行為ではないか。皇帝ペンギンは−60℃の南極で卵を守り、ヒバリは我が身をおとりにして雛から敵を遠ざけようとする。親が子を守ろうとするのは、動物の偉大なる本能なのである。
 ところが、自分の快楽・安穏のために、本能をも否定するのが人間であった。泣き声がやかましいのでクッションで押さえつけて窒息死させた、なつかないので食事を与えず餓死させた…など、鬼畜にも劣る人間が増えているのだ。
 昨年末、男と別れた若い母親が虚脱感から4歳と1歳の子どもを部屋に残したまま、家出した。1ヶ月ほどたって、もう死んでいるだろうと思いつつ部屋に帰ると、1歳の子は餓死していたが、4歳の子は生米をかじるなどして生きながらえていたという。その子は、帰宅した母親を見て、「ママ、遅かったね」と言ったという。
 親を殺す子、子を殺す親…。これでも、日本の国の教育は間違っていなかったというのか。


 日本は、衰退から崩壊へと、雪崩を打って転落しはじめているのではないか。日本を救う政治は出現しないのか。


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