【157】 シベリア墓参  −終わらない戦後−         2008.07.25


 友人が、「今、ロシアからの帰りだ」と言って、暫く我が家で話し込んでいった。「ウラジオストックから新潟港に着き、上越新幹線〜東海道新幹線と乗り継いで、東京回りで帰ってきた。新潟から乗り継ぎを入れて6時間…、美味しいお茶を飲ませてくれ」と立ち寄ったものだ。
 彼は、満州国の首都であった新京(現在の長春)で生まれ、日本の敗戦が色濃くなった昭和20年7月、満鉄勤務の父親を一人残し、母・姉とともに帰国した。母親の腕に抱かれて日本の地を踏んだ彼は、まだ生後2ヶ月の乳飲み児であった。
 社員や現地に残された人たちの世話にあたっていた父親は、8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して侵入したソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留され、バイカル湖畔のイルクーツク近辺で死亡したとされている。
 冬は−40℃の日が続き、バイカル湖の湖面が波立ったままの姿で凍るという極寒の地で強制労働に従事させられた日本人将兵・民間人の総数は60万人、うち彼の地の土となったものは26万人と言われていたが、ペレストロイカ以降の情報開示によってソ連の機密文書が次々と公開され、今では抑留された人数は105万人、うち死亡したものは35万人を下らないことが判っている。友人は、その顔も知らず、今なお遺骨も戻らない父親の、墓参に行ってきた帰りであった。


 往き、新潟からウラジオストックへと船で渡り、シベリア鉄道に乗って2日間、イルクーツクに着いた墓参団一行40名は、このあたりで死亡したであろうと思われる一帯の町や原野を訪ね、墓地があったとされる場所で慰霊・墓参の行為を繰り返してきたと言う。日本人捕虜たちの遺骸が埋められたと伝えられている場所の上に、今は街や道路が築かれたり、ロシア人の墓地が整備されていて、もう遺骨を掘り返すことも出来なくなっているところも多いと語る友人の顔には、旅の疲れとともに無念の思いが滲む。
 かつての墓参団では、シャレコウベを掘り出して、参加していた兄弟4人が「父のものです」と一様に叫び、持ち帰ってDNA鑑定をしたら見事に一致したという信じられないような話もあったという。
 今回の墓参団に同行した人の一人は、満州から引き上げる際、子供たちだけ400人ほどで帰国列車に乗せられ、途中の駅に何日も停められたり、乗り込んだ船の中で疫病が発生したりして、6ヶ月かかって日本の港にたどり着いたときは、生存者が10人もいなかったとの体験談を語ったとか。また他の参加者から、引き上げの途中に被害に遭った略奪・暴行・強姦の悲惨な目撃談を聞いたときには、耳を塞ぎたくなる衝撃であったと言う。
 友人を腕に抱き、姉の手を引いて帰国し、戦後60年間、女手ひとつで二人を育てられたお母さんは、今年90歳を越えた。痴呆症が進み、預かってもらっている施設へ友人が訪ねていっても、息子であることが解らないことが多いとか。そのお母さんに「シベリア墓参に行こうと思う」と話したら、「親父の名前を口にしてなぁ」と驚いていた。極寒の地で過酷な運命にもてあそばれて命を落とした夫のことを、忘れたことはなかったのだろう。お母さんにとっても、この世に残した最後の気がかりであり、息子から聞いた最後の親孝行の記憶が、シベリア墓参ということであるのかも知れない。


 戦後間もなく、当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団がシベリアの収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事をとった戸叶里子衆議院議員(戦後初の女性代議士の一人)は思わず、「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという
 その社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者たちの帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となった。
 その後、日ソ共同宣言(1956年)をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。
 抑留者の帰国事業は実現したが、しかし、日本政府は抑留時の労働に対する賃金支払いすら行わず(国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰れば、その捕虜の所属国が支払うことになっている。1992年以後、ロシア政府は労働証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない)、満蒙開拓団民への保障や中国残留孤児への援助など、祖国としての責任は重大であるはずなのに、日本政府・厚生行政の対応の冷たさはいったいどうしたことなのだろう。(資料は『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


 こんなことで、これから先、この国を守るために、国民は命を賭けることが出来るだろうか。政治の責任とは、かくも重いものであることに思いを致すべきだろう。


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