【174】 吉田秋田県知事、全国学力テストの市町村別結果を公表    2008.12.25


 先日、僕は、鳥取県の県議会が、4月に実施された全国学力テストの結果を県下の市町村別に公表する決議をしたことに、「当然だ」と賛意を示した【参照】。『テストを行っておいて結果を公表しないなんて、やらないのと同じだ』とも書いた。
 秋田県下のある市町村の教育長は、「まさか公表するとは思わなかった。極めて遺憾」と反対理由も述べずに否定的な見解を示していた。反対の理由は言ったのかもしれないが、NHKのニュース画面では流れなかった。また、別の教育長は、「公表すれば、数字が一人歩きするのが恐い」とコメントして、やはり反対を表明していた。一人歩きしないように丁寧な説明をして、県民や市町村民の納得を得ることが大切なのである。その努力をせずして、結果が曲解されるのが恐いと述べるなど、教育行政にかかわるものとは思えない対応である。
 また、文部省も「公表は前提としていない」とのコメントを発表し、古田秋田県知事の処置を遺憾としている。結果を公表して今後の実践への反省材料に活用しないというのならば、莫大な費用を費やして学力テストを実施する必要はない。文部省がこのテストを実施したのは、子どもたちの学力を客観的に分析し、今後の教育行政の資料とすることが、最大の目的であったはずである。良い結果を示した部分はそのまま伸ばし、結果が芳しくなかったところはその原因を分析して改善していくためのテストであったはずだ。
 その結果は教育関係者のみが知っていれば良いことだというのだろうか。それこそ、責任も当事者意識も改善への明確な道も示しえない、閉鎖的な日本的談合体質そのものであろう。結果を世間の目から隔絶したところに置いて、次の対策もまたその結果も国民・県民・市町村民の査定を逃れようというのである。公表できないようなものから、良い結果が生まれるわけはない。
 その意味で、教育関係者は無責任だ。公表を避けようとしていることは、結果を正面から受け止めようとしていないではないか。子どもたちに、「卑怯者であってはならない」と教えている教育者が、その結果から…世間の評価から逃げていて良いのだろうか。
 堂々とその結果に正対し、良好な結果ならばそれを誇りとし、結果が悪ければそれを起点として次に結果を出せばよいのではないか。そうしてこそ、子どもたちのためにもなるのであり、自らの姿勢や業績を誇ることができるのであろう。



 翻って、三重県はどうだろうか。三重県教職員組合(三教組)を有力な支持母体としている野呂三重県知事が、公表という判断を下すことはない。三重県教育界は、安堵していることだろう。そしてその結果が、最下位から数えて数番目の成績【参照】となって表われているということなのである。


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