【180】 足利事件 菅家さん釈放 −裁かれる警察・検察−        2009.06.04


 昨日、原田伸郎の立件について「暴走する警察・検察」と、その捜査や取調べの行き過ぎに警鐘を鳴らしたところだったが、今日、「足利事件」で無期懲役が確定していた菅家利和さんが、1991年12月の逮捕以来、突然…、17年ぶりに釈放されることになった。
 東京高検の渡辺恵一次席検事が、本4日午前10時半過ぎから記者会見を行い、菅家さんを釈放する判断に至った経過を説明した。朝から普段通り刑務作業をしていた菅家さんには、職員が「釈放だ」声をかけ、今日のうちに釈放されたという、唐突さであった。
 菅谷さんを犯人であると断定する唯一の証拠であった、殺害された女児の下着に付着していた体液と菅家さんのDNAの型が、再鑑定の結果、一致しなかったことは既に報じられていたから、菅谷さんの冤罪は確実視されていた事件であったが、改めて、警察・検察の捜査の杜撰さ、そして、その誤りを自ら正そうとしない姿勢の傲慢さに、空恐ろしさを覚えずにはいられない。
 1993年秋、菅家さんに接見して「無罪だ」と確信したという佐藤博史弁護士は、DNAの再鑑定を裁判所に求め続けたが、最高裁は再鑑定を認めず、昨年2月再審請求した宇都宮地裁からも再鑑定は認められなかった。それでも再審に望みをかけ、3度目でようやく実現した再鑑定は、5月8日、検察・弁護側双方の鑑定者ともDNAは不一致との結果であった。検察は、男性の刑の執行を停止し、釈放した。前例のない事態である。検察が事実上、無罪を認めたものといえよう。
 警察が、決定的な証拠を得るために、進歩する科学技術を捜査に取り入れるのは欠かせない。ただ、DNA鑑定の精度が飛躍的に向上したのは、新たな分析装置が導入された03年以降だ。それ以前に実施された鑑定は4000件を超えるという。裁判所や検察は、再鑑定の実施などについて、ここは真摯に対応していかねばならない。


 この事件が語る最も重要な教訓は、「髪の毛を引っ張られ、足蹴にされた」と菅家さんが話す、当時の警察の取り調べの違法性は今さら繰り返すべくもないが、その捜査には証拠を基にした地道な客観的事実の積み重ねが求められるということと、検察の起訴には徹底した検証が必要であるという点であろう。
 さらに、当時の最高裁判事が、「当時の判断としては間違っていない」と語っているのには、開いた口が塞がらない。法の下に人を断罪するものには、毫の過ちもあってはなるまい。結果として誤っていたとすれば、その判断を不明とする身の処し方をしなければならない。それを、「当時の材料から判断するのならば、あの判断しかない」というのであれば、判決は常に冤罪であるかもしれないということを自ら宣言していることになる。
 「有罪」は、あらゆる客観的証拠に照らして下されるものでなくてはならない。裁判員制度がスタートした今、一般人をして「有罪」の判断に参加させようというのだから、警察・検察は明確な証拠を示して、被告人を起訴するべきである。


 最近の事例として、最高裁で死刑が宣告された、和歌山毒物カレーの林真須美被告の案件が思い出される。状況証拠の積み重ねだけで、『林被告以外に犯人は考えられない』と死刑を宣したのである。彼女を犯人だと指し示す証拠は、何一つない中で…。
 彼女の死刑執行命令に捺印できる法務大臣は、いないのではないか。


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