【202】 糖衣をまとった毒薬 − 第二次 菅内閣 スタート −   2011.01.16


 第二次菅内閣がスタートした。国家観もない内閣に何の期待をすることもないが、スタート直後のしばらくは静観するのがエチケットというものだろうから、その出航を見つめていることにしよう。
 それにしても、ここまでの民主党政権の歩みはボロボロであった。「生活が第一」と掲げた政策の、子ども手当て・農家の個別保障…などバラマキは全て財源不足で実現できず、安全保障では自由主義諸国の信頼を揺るがせ、尖閣問題では国辱的責任逃れの外交に終始してしまった。
 政権交代とはこういうことだったかと、今更ながら歴史の教訓を思い起こしている。権力を簒奪するものは、いつも耳に快い大衆迎合の言葉をささやきながら政権をわが手に収め、権力の座に据わると私利私欲を貪(むさぼ)るのが常であったが、まさにこの民主党による政権交代もその感が強いからだ。
 今、読んでいる本の一節に、ロシア革命で成立したソビエト共産党政権の政策は『糖衣をまとった毒薬』だったと書いている。
 マルクス主義では、「資本主義の発展により矛盾が増大すると、社会革命(社会主義革命、共産主義革命)が発生し、プロレタリア独裁の段階を経由して、市場・貨幣・賃金労働などが廃絶された新しい無階級社会である共産主義社会が生まれ、階級抑圧の機構としての国家・軍隊・戦争なども消滅する」としているが、その理念はそれとして、その政権は外交・謀略・暴力などあらゆる手段を講じ、また手段を選ばず、他国政府を覆滅させることによって共産主義を拡大させることを第一義の使命としている点において、当時の日本をはじめ諸国が危険視したのである。
 1919年3月にモスクワにおいて開催された共産党大会において、レーニンとポルシェビキは共産主義インターナショナル(通称コミンテルン)という世界革命組織をつくりあげた。各国共産党は、第1条に暴力革命とプロレタリアート独裁を掲げる、21か条の綱領を受け入れることが第一義の絶対条件だと規定されたのである。
 こののち、コミンテルンは世界各地で活動を活発化していくが、ヨーロッパや日本では活動を抑えられた彼らは、その矛先を列強に分割統治され、混乱を極めていた清朝末期の支那に定め、いわゆる「カラハン宣言」という甘言を提示したのである。その内容は、「ソビエト政府は中国政府が諸外国と結んだ一切の条約を破棄する目的をもって、中国と協議に入る。…略…、中国の領土にして簒奪したものおよび居留地の全てを中国に返還し、…略…、中ソ両国は満州や東支鉄道の運営に際して特別条約を結ぶ」と謳っている。アヘン戦争以来80年の外国支配を受けてきた支那の政府や民衆にとっては、この宣言は甘美な福音のごとく聞こえたことだろう。
 けれども、アイグン条約、北京条約で帝政ロシアが奪った広大な中国領土を、ソ連(ロシア)は今日に至るまで1平方センチメートルも返してはいない。満州にいたってはこれを実質的に占領して支配し、東支鉄道の権益を奪い、さらに旅順の租借も要求している。まさに、カラハン宣言は、『糖衣をまとった毒薬』だったのである。
 そして、ソビエト共産党政権は、当時の中国を代表する孫文の国民党政府の政治顧問にボロヂンを送り込み、葉剣英・周恩来ら共産党分子を軍の要職に就けることに成功した。やがて孫文の死去により、国民党の北京政府は共産等の支配に委ねられることになり、コミンテルンの指示のもと、ほどなく支那には武漢共産党政権が誕生して、蒋介石政府と対立抗争を繰り返しつつ、日本との泥沼の戦争へと突入していくことになる。
 現今の中国共産党による、一党独裁・国民の搾取・少数民族への弾圧・周辺諸国への横暴は、見ての通りである。


 つい、話が長くなってしまったが、民主党のマニフェストも『糖衣をまとった毒薬』だったということか。いや、民主党には共産党政権ほどの残虐さはないだろうから、毒薬といった世の中を変えてるほどの効き目はない。
 むしろ、嘘も吐(つ)き通せば真実になるというのに、そこまで貫く覚悟もなく、思いつきの域を出ない幼稚さで米軍基地の国外移転と言ってみたり、政権をとれば金権問題はどうにでもなるとかつての闇将軍にわが身を重ねた豪腕の幻想もあわれで、この政権交代は日本に混乱をもたらした効果以外の何ものも生まなかった。
 いや、歴史に学ぶことの大切さを再確認させてくれたことが成果であったか。では、今の日本の
次なる展開は…、世界に認められる一人前の国家となることが、先ず第一だろう。


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