【日本は今、214】 大東亜戦争に至った、西洋諸国の国家エゴ 2011.08.15


 終戦記念日を迎えて、日本が大東亜戦争を戦った意味を考えてみたいと思い、いくつかの資料を紐解いてみた。そのうちから、今日は、日本と西洋との心理的なかかわりをもとに、開戦に至る道程をたどってみる。


 日本が西洋と出会ったのは、1534年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着したのがその始まりである。キリスト教の布教と貿易を目的として東洋にやってきたという宣教師集団は、当時の西欧列強が当然としていた奴隷を売買する商人でもあった。日本人が奴隷として売買されていることを知った豊臣秀吉は激怒し、イエズス会の神父コェリョに対して詰問上を送り、日本人奴隷の売買禁止を申し渡している。さらに、1596年、サン・フェリーペ号事件により、宣教師は侵略の尖兵であるとの情報を得た秀吉は、キリスト教禁教令を出す。
 徳川幕府は、当初、家康のころは貿易の回復を目指したが、島原の乱などを経て、1639年、貿易はオランダと中国の二国に限って長崎の出島でのみ行うとし、鎖国の時代へと入っていった。
 なぜキリスト教は禁止されたのかについて、日本の封建体制にとってキリスト教が危険視されたとする説は散見するが、奴隷問題にふれたものは西洋の文献にも、日本の解説書にもほとんど見当たらない。


 そして300年後…。1853年7月8日、アメリカの第13代大統領フェルモアから天皇に宛てた親書を携えた、ペリーの率いる4隻の艦隊が江戸湾の浦賀沖に現れ、日本の泰平の眠りは破られた。
 ペリーの日記を見ると、「日本人は優柔不断。だから、常に力を誇示し、日本人の言うことはいっさい無視する」という対日交渉の基本戦略が書かれている。ペリーは国力・軍事力・組織力・技術力など、あらゆる面で圧倒する力を見せつけ、日本人に直面しているときは、本音、疑問視、弱音などは一切見せず、顔色ひとつにしても終始強硬姿勢を貫き、アメリカは必ずその意思を通すのだという姿勢を崩さなかった。
 アメリカは、1776年に独立宣言を発して以来、外国の支配や影響力を排除し、西へ南へと領土を拡大して行ったが、その過程で大陸の先住民インデアンたちは騙され、虐殺され、追われ、隔離された。物々交換で渡す毛布に天然痘菌を付着させ、免疫のなかったインデアンたちを大量死させたりもしたという。
 このアメリカの国家形成と拡大の政治哲学は、他民族や異文化に対する尊重や配慮などはなく、全て物事は自分たちの有利になるように力で解決しようというもので、実はこれとほとんど全く同じ考え方が、20世紀、21世紀になってもアメリカの存在と生存の哲学であり、外交方針なのである。ペリーが浦賀に来て開国を迫ったときの交渉姿勢もそうであり、大東亜戦争開戦当時に示したハルノートの提示などに見られる強硬な姿勢もそうであった。


 ペリーの黒船艦隊が示した圧倒的な武力の誇示は、幕府の上層部を混乱させ、老中首座の阿部正弘は「全く不快でいまいましい。血の涙が出るほどだ」と書き記しつつ、「日米和親条約」を結ばざるを得なかった。
 初代日本総領事に就いたハリスは、幕府の優柔不断・先送りに対しては、「日本にアメリカ艦隊を派遣することが検討されている」などと脅し、1758年、「日米修好通商条約」を締結させた。この後、日本は列強各国とこの不平等条約を結ぶこととなる。
 西洋列強の専横の振る舞いに、日本国内の意見は開国反対が大勢を占め、攘夷の嵐が吹き荒れた。1762年の生麦事件では、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾に現れ、砲台は破壊されて鹿児島の町は焼き払われた。1763年の下関事件では、英米仏蘭4カ国の軍艦17隻の砲撃に、長州藩は3日間で降伏した。結果として、日本は圧倒的な武力、技術力の差を思い知らされ、外国軍を追い払うことは不可能であり、彼らの要求を希釈しつつ受け入れるしかないことを思い知らされたのである。


 明治になって、西洋との実力差を思い知らされ、西洋からの圧迫・軽蔑を受け、そして、東南アジア諸国や阿片戦争後の清国などに対する帝国主義・殖民主義を目の当たりにして、日本は富国強兵を国是とし、西欧列強と肩を並べる国にならねばならないというのが、国家を挙げての目標となった。
 反西洋・嫌西洋の意識は、いじめられっ子日本の深層心理に根強く潜むものとなったが、一方ではその西洋のようになることをも望んだのである。福沢諭吉も「(香港で見たイギリス人の中国人に対する傲慢さを見て)日本も貿易に励み、強力な海軍力を持てば、イギリス人のみならず、世界の国々を支配できる」と書いている。「西欧が東洋の国々に威嚇脅迫をもって不平等条約を調印させ、アフリカやアジアの国々を植民地とし、人々を奴隷としているのだから、日本もその道を目指そう」としたことは、日本の憧れの道であった。


 第一次世界大戦のあと、日清・日露の戦争に勝利し、「日英同盟」の締結などにより、ようやく西洋の国々の一員として認められたという自信と自覚が芽生えた日本にとって、遼東半島返還を迫る「三国干渉」は、西洋社会に対する失望と反発を覚える出来事であった。
 それぞれの国益を第一とし、国家エゴのもとに動いている国際社会では、それほど珍しいことではなかったが、西洋社会の仲間として迎えられたという盲信を芽生えさせていた日本の指導的立場にある人たちにとっては、幻滅と怒りを覚える出来事であった。この喪失感が、その後の軍国主義と日本的人種主義にもとづいた、殖民主義・侵略主義へと展開していくことになる。


 1900年代に入ると、ヨーロッパでは「黄禍論」が起こり、アメリカでは、低賃金で働き、生活水準が低く、出生率が高く、他と同化せず、忠君愛国主義の日本人を排斥し差別する動きが高まり、いわゆる排日移民法が成立する。
 第一次世界大戦では、日本は日英同盟をもって連合国側で参戦し、戦勝国のひとつとなったが、ヨーロッパにとっては全く異質の、地図ではほとんど確認できないアジアの小さな島国が、ヨーロッパ戦線にでしゃばってくること自体が不愉快なことであった。
 第一次世界大戦の事後処理をするパリ会議に 日本は人種差別に反対する人種平等案を提案するが、中国移民問題を国内に抱えていたオーストラリアは強硬に反対し、植民地を持つ西欧諸国も反対に回ったため、法案は否決されてしまった。
 中国・朝鮮やその他のアジア諸国とは違って、西欧諸国の一員として認められたと信じていた日本人が、自分たちは中国人や朝鮮人と何ら変わらない目で見られていたことを思い知らされたのである。しかも、日本人であるがゆえに、アメリカでは排斥され、暴行・襲撃を受け、財産を脅かされる現実に直面していたのだ。(ただ、アメリカでは新しく移民してきた人たちに対しては、イタリアや東ヨーロッパ出身者、ユダヤ系メキシコ系の移民などにも同様の攻撃がなされていたのだが、日本はそれを人種的なものと受け止めてしまった傾向はある。)


 しかしそれでも、日本は欧化政策を基本とし、欧米に対してはいじらしいほど対立を避けて、柔軟な外交に終始している。朝鮮・満州・台湾に対しては、世界の大勢に習って西洋式の殖民主義を推し進めているのに、西欧諸国に対しては、1916年には日露協定、1917年には石井・ランシング協定を締結し、ソ蓮の極東の権益やアメリカの中国における門戸開放を認めている。1921年にはワシントン会議で日米英仏の4カ国条約、1922年には中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルを加えた9カ国条約を結び、太平洋での現状維持を確認し、中国山東省の権益返還に応じている。
 また、1930年にはロンドン軍縮会議で米英日の海軍補助艦比率を10:10:7とすることにも合意し、海軍の反対を押し切ってこれを批准した浜口雄幸首相は、軍や右翼の反発を買い、狙撃され死亡した。


 1931年、満州事変、32年、満州国建国。これに異議を唱えた中国の訴えにより、国際連盟は「リットン調査団」を派遣。その報告を受けて国連総会は、日本を除く42カ国が満州の承認を取り消し、日本の撤退を決議した。
 日本の全権大使松岡洋右は議場を退場し、翌月、国連を脱退。この時点から、「日本は欧米の言うことは受け入れない」とする思想と勢力が日本を支配していく。
 西洋諸国は軍事力を用いて世界に植民地を作り、日本が同じことをしようとすると阻止する。日本人が移住しようとすると、人種の違いを言って阻止する。日本が西洋並みの軍事力を持とうとするとこれにも反対するなど、身勝手が過ぎるというわけである。
 国連脱退後の日本は、欧米に対する長年の憤懣が爆発したかのように、嫌西洋の国論が沸き起こり、反西洋の行動を起こす。軍部と右翼による数々の政治テロ事件が続発して、社会主義運動や組合活動にも、右翼勢力と合体しようとする動きが生じ、北 一輝「国家改造案原理大綱」や大川周明「復興アジアの諸問題」に見られる、日本式の人種主義・軍国主義・全体主義が形成されて、大東亜共栄圏形成への流れとなってく。1941年 文部省教学局は教科書に「臣民の道」を載せ、八紘一宇のスローガンを掲げて、国民主義教育を行う。


 日中戦争は満州から中国本土へと広がっていたが、蒋介石の軍隊はアメリカとイギリスからイギリス領ビルマ、フランス領インドシナを経由して軍事物資の補給を受けていたため、このルートを遮断するため、日本軍はインドシナに進駐した。これを見たアメリカ・イギリス・中国・オランダは在外日本資産を凍結、さらに対日石油輸出を禁止したため、日本は物資を手に入れることが困難になった。
 近衛内閣は、対米戦争は極力避けたいと和平への道を模索し、野村吉三郎駐米大使とハル米国務長官の会談を持たせたが、ここにアメリカ側の戦争回避条件として、いわゆるハル・ノートが提示される。
 1.日本は、満州・中国・仏印から撤退すること。
 2.日本は、重慶の蒋介石政府のみを、中国の正当な政権と認めること。
 3.日独伊三国協定を破棄すること。
 すでに、膨大な国費と18万余の将兵の血を流して、満州に新しい国家の建設を成し遂げていた日本にとって、その放棄は到底飲める条件ではなかった。
 それから2週間…。日本の回答は、海軍の真珠湾攻撃と、陸軍のイギリス領マレー半島上陸であった。
 林 房雄は『大東亜戦争肯定論』のなかで、「この戦争は、東南アジアの植民地化や阿片戦争などといった西洋の侵略に対する、東洋の反撃である。…、大東亜戦争は侵略戦争ではなく、西洋の殖民主義を東洋から撃退しようとした戦争であり、その意味で日本の行動は正当なものであった」と記している。


 1534年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着して以来、日本はさまざまな形で西洋のエゴとつき合って来た。大東亜戦争が終わって67年、世界の大国は以前と全く同じように、いやそれ以上に、国家のエゴイズムを押し通し、世界を動かそうとしている。
 日本に戦争責任を問い続ける中国は、チベットを制圧し、新疆ウイグルのイスラム教徒を虐殺し、内モンゴル自治区のモンゴル民族を同化して消滅させようとしている。クゥエートに侵攻したイラクに爆撃を加えたアメリカやイギリスは、チベットや新疆ウイグルを制圧している中国には直接行動をとらない。国際社会の国家とはそういうものである。
 大東亜戦争とは、西洋の国家エゴを、時には手本とし、時にはあこがれ、時には目標としてきた日本が、ついに越えられない人種主義の壁にさえぎられ、玉砕していった戦争であった。


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