【日本は今、219】 古賀茂明氏 通産省へ辞表を提出   2011.09.22
       − 民主党&枝野幸男新経産相に、国政改革へ意欲なし −


 古賀茂明氏が辞表を提出した。古賀氏は、2007年当時の渡辺喜美大臣(現・みんなの党党首)が取り組んだ公務員改革に際して、内閣官房に設置された国家公務員制度改革推進本部事務局審議官に就任し、「年功序列人事の廃止」「天下り規制の強化」「事務次官廃止」など急進的な公務員制度改革に取り組んできたが、2009年12月、唐突に内閣事務官の任を解かれ、経済産業省に戻ったところ、それ以降は仮置きの部署である「経済産業省大臣官房付」に長期間留め置かれるという、異例の人事措置に甘んじてきた。
 再三の辞職勧告や出向も断って、省内に留まっての改革に意欲を燃やしてきた同氏であったが、鉢呂前経産相のあとを継いだ枝野新経産相の、「古賀氏の人事については、従来の経産大臣および経産省の判断を踏襲する」との発表を受けて、改革派の同氏が腕を振るう場所は民主党政権下の経産省にはないと判断しての辞表提出である。


 古賀氏の人となりを、ウィキペディアから抜粋して、確認してみよう。


 崎県生まれ。その後東京に移り、麻布中学校・高等学校卒業。東京大学法学部に進学するが、麻布の校風と異なり東大法学部にはつまらない秀才が多いと感じ、次第に授業から足が遠のいて2年留年。もともと公務員になるつもりはなかったが、2年留年すると民間企業に 入るのは難しいと考え、公務員試験を受験し合格。1980年、大蔵省からも内定を受けていたが、東大法学部と同じく秀才が集まる雰囲気を感じたため、通産省を選んだという。
 通産省や後継の経産省では大臣官房会計課法令審査委員や本省筆頭局の筆頭課長である経済産業政策局経済産業政策課長を歴任するなど本流のエリートコースを歩んでいた。しかし、経済産業政策課長時代に当時の杉山秀二事務次官と産業構造審議会の部会新設をめぐり対立。若手官僚とともに事務次官室に乗り込み、財務省管轄の税制改革を経産省が扱うことは危険だと主張し部会新設に反対する杉山事務次官と数時間にわたり議論し、部会新設の同意を無理矢理得たことを契機に傍流に外される。次官室乗り込み事件の1年後の2005年に外局の中小企業庁に出され、その後中小企業基盤整備機構に出向となった。
 その2005年に大腸癌の手術を受け抗がん剤の投与を受けるようになる。この年、公務員改革に力を入れていた渡辺喜美行政改革担当内閣府特命担当大臣から、大臣補佐官就任の要請を受けたが、癌による体調悪化から辞退し、代わりに経産省の同僚だった原英史を紹介し、原が大臣補佐官に就任した。
 2007年には独立行政法人の産業技術総合研究所に飛ばされたものの、渡辺大臣が福田康夫首相の反対を押しきる形で2008年に霞ヶ関に復帰させ、内閣官房に設置された国家公務員制度改革推進本部事務局審議官に就任。当時の渡辺喜美行政改革担当相の下で、「年功序列人事の廃止」「天下り規制の強化」「事務次官廃止」など急進的な公務員制度改革に取り組んだ。


 その後、政権は民主党へと移り、就任した仙谷由人行政刷新大臣は、当初は公務員改革への意欲を見せて古賀氏を補佐官に就かせ行政改革を続けさせるつもりでいたものの、そのような人事は財務省が認めないとの古川元久内閣府副大臣松井孝治内閣官房副長官ら官僚出身議員からの進言を受け断念する。
 2009年12月、唐突に国家公務員制度改革推進本部の幹部全員が解任され、古賀も内閣事務官の任を解かれて、経済産業省に戻ったが、それ以降は仮置きの部署である「経済産業省大臣官房付」に長期間留め置かれる異例の人事措置が取られる。
 この間、数度にわたりマスコミを通じて政府の公務員制度改革案を批判し、広く名を知られるようになった。官僚批判の著書も出版し、ベストセラーになっている。
 2010年10月15日の参議院予算委員会に古賀氏はみんなの党の参考人招致を受けて出席し、政府の天下り対策や公務員制度改革を批判した。それに対し、内閣官房長官仙谷由人が「
上司として一言…、こういうやり方ははなはだ彼の将来を傷つけると思います」と発言し、「恫喝」であるとして話題になった。後日、鶴保庸介参議院決算委員長(自由民主党)が、決算委員会冒頭の挨拶で仙谷の言動について批判、仙谷は弁明に追われることになる。


 2011年6月、
7月15日までに辞職届を提出するよう海江田万里経済産業大臣及び松永文夫経済産業事務次官から通達されるが、これに応じなかった。同年7月には事実上の退職勧奨である民間出向の打診も受けたがこれも拒否した。
 しかし、今般の枝野幸男経産相の就任後に同省の立岡恒良官房長から「枝野大臣は辞める手続きを進めてくれと言っている」と連絡があったため、9月26日付で辞職することを明らかにした。ところが枝野経産相は「私が直接対応すべき事務次官級幹部官僚人事ではない。事務次官以下に任せる」との発言があったため、古賀氏は「これは民主党が提言した党主導で行う官僚人事のひとつであり、官僚である事務次官以下で決めるのはおかしい。辞表を撤回して再度(枝野に)大臣としての判断を求める」としていたが、枝野経産相は「
古賀氏の人事については、従来の経産大臣および経産省の判断を踏襲する」と発言、経産省官房長からも退職を促されたために、月22日、同月26日付で辞職する内容の辞表を提出した。


 古賀氏の処遇は、政権の公務員改革を初めとする国政改革に対する意欲のバロメーターのひとつであった。高橋陽一(元・財務省)、岸博幸・原英史(元・経産省)など、改革を志す官僚たちは押しなべて省庁を追われてきた。政治の強力なバックアップがないからだ。彼らは、自分たちの所属する省庁や公務員の仕組みを変革して以降という取り組みを進めるわけだから、所属する省庁や公務員仲間からバッシングを受けることになる。
 それでも、改革は国政の最重要事項なのだから、それに邁進した優秀な官僚たちに対しては、将来にわたって政治が彼らの地位を保護していく義務がある。それを、政権や担当大臣が変われば使い捨てのような扱いでは、公務員の中から改革に努力・協力をしようとするものが出てくることは期待できなくなってしまう。改革に志のある彼らの力を引き出せないのは、政治がだらしないからだろう。
 その意味でも、古賀茂明氏の去就は注目されていた一件であった。民主党野田政権が、改革に本気なのかどうかを問う、大きな判断材料であった。古賀氏が重要なポストを与えられ、職務に邁進する姿を見ることができたならば、この国の将来にまだ希望が持てる材料を失わずにいられる思いを繋ぐことができたのだが…。
 何が増税だ! 国政改革に実効的な手段も示せない政権が、国民に負担を求めるなど、本末転倒した話である。やっぱり民主党の政権には、政治は任せて置けないと…そう思った。



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