【232】
 平成24年 憲法記念日
    2012.05.03


 30年ぐらい前には、「憲法改正」を口にすれば「右翼、反動、軍国主義」と非難され、「日本国憲法」こそが平和を守る至上の手段だという信仰が大手を振って日本を席巻していた。
 世の中は変わって、今や憲法改正は60%を超える支持を得ている(産経新聞とFNNが合同で行った世論調査)。日本が自力で国を守るという、ごく当り前の国になるための最大の足かせが、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と謳い、第9条第1項の「戦争の放棄」、第2項前段の「戦力の不保持」、第2項後段の「交戦権の否認」の3つの規範的要素を定めた、日本国憲法であることが広く認識されてきたということだろう。
 大東亜戦争終了後の日本を統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって制定された日本国憲法の目的は、日本を二度と戦争を起こさない国にすることであり、そのために「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を規定したのである。しかし、理念としての平和主義はあるとしても、国際社会は武力の優劣を基盤として成り立っているのが現実である。スイスのような永世中立国たるにも、武力なくしては実現しない。「非武装中立」などというのは人間の営みや国家の成立を理解しない、言葉遊びの類に過ぎず、現在、世界の国でそれを継続的に実行・実現している国は存在していない。
 


 日本が自主独立の国たるには、憲法を改正しなければならない。それは、単に自国を守る武力を保持するためだけでなく、東京裁判で裁かれた日本の正当性を回復することが大きな目的である。
 大東亜戦争は日本の犯罪であると断罪した東京裁判の違法性は、今や世界が認めるところである。「事後法による裁判」「戦勝国の一方的な裁き」といったこれまで論証されてきた諸事実に加えて、ヴェノナ文書の公開などによる新証拠の発掘により、東京裁判は冤罪に基づく、でっち上げ裁判であることが明らかになったのである。
 日本を大東亜戦争の遂行による犯罪国家と断罪し、戦後日本を覆ってきた空想的進歩主義・平和主義・左翼思想などは、全て東京裁判史観とGHQによる統制統治が出発点である。この統治下において、戦前の日本に根付いていた思想・風俗・習慣・暮らしなどを否定し、二度と戦うことのない日本を実現するために、GHQのケージス大佐を中心とする若手将校が作成したのが、「日本国憲法」なのである。
 日本にとって憲法改正とは、戦後体制を見直し、日本を取り戻す作業である。戦後66年間の歴史は「日本国憲法」のもとで綴られてきた。やさしいだけの戦後教育も、利己的拝金主義を育んだ経済も、国家意識のない政治も、子を捨て親を捨てる社会も、みんな「日本国憲法」下で繰り返されてきた日々が生み出した現実である。
 日本社会の、そして日本という国の劣化は目を覆うばかりだ。ものづくりの技術も継承されず、人間の信頼も省みられず、文学や文化も沈下し、外国に対して正当なことも言えなくなってる日本…。これらは「日本国憲法」が招いた現象だ…とは言わないが、「日本国憲法」の下で招来した日本の劣化であることは間違いない。
 

 憲法改正は、戦後日本が喪失してきた、国家意識を回復し、日本人としての誇りを再確認するための課題である。
 GHQが、日本側の異議を受け付けない体制の中で、草案を作って押し付けた、武力の保持を否定する憲法は、その施行のわずか3年後(昭和25年)には、アメリカ自身によって警察予備隊という軍隊を編成せざるを得なかった。国家が軍隊を保持することは、国際社会における現実的要請だからである。
 このように「日本国憲法」は、制定の段階から正統性を欠き、施行に際しては国際政治の実情から逸脱し、日本国民に非正常な意識を敷衍してきている。国家観なき政治の主催者…民主党政権では望むべくもないが、日本の政治の最重要課題のひとつが「憲法改正」であることを、憲法記念日を機に確認したいと思う。


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