【265】 「特定秘密保護法」成立!

 「特定秘密保護法」が成立した。この法案の国会審議や採決については、野党は「審議時間が短すぎる」「強行採決は巨大野党の横暴」などと叫び、多くのマスコミは「国民の知る権利を阻害する」「政策を批判すると逮捕される」「言論の自由が侵される」などと国民の不安を煽り、法案成立前後の世論調査では反対が75%に達して「これでも成立を急ぐのか」と反対論を展開していた。

 しかし、この法案に反対を叫ぶ人々は、法案の意味するところを本当に理解して反対しているのだろうか。
 要は、『誰かに「これは秘密だ。誰にも話すな」と伝えたことを、その人が他の誰かに話したら、もうその人を信用することはできず、以後、大事なことは一切話さない』という、当然過ぎる話である。これを国家や国際社会に置き換えれば、秘密をもらしたものは法律によって罰すると定めることが、国内規律を正すことになり、外国に対しても秘密保持の保証を与えることになる。
 誰でも、秘密がないほうが良いに決まっている。そんな論点で世論調査を行えば、大多数の国民は「特定秘密保護法案、反対」を叫ぶだろう。しかし、国際社会の現実は権謀術数に満ち満ちていて、それに勝ち抜くためには確かな戦略を立て、有効な戦術を以って、効果的な手段を講じなければならない。そのための基本的な条件は、高度で正確な情報である。現代社会においては、単一国家で十分な情報を得るなどということは不可能であって、価値観や利益が共通する多国間において、さまざまな情報を共有することになる。高度で正確な情報を得ようと思えば、国家の仕様を整えて、信頼にたる体制を整えねばならない。それが、この「特定秘密保護法案」の成立が意味するところである。

 今、日本を取り巻く状況を俯瞰してみると、第一に「尖閣領有」を巡る、中共との緊張が挙げられる。中共は日本侵攻を企図しているのか、しているとしたらいつ・どのようにして実行するのか、彼我の戦力の比較はどうか、日本はそれを防ぐことができるのか、日中を取り巻く諸国の思惑・様相はどうなのか…など、分析しなくてはならない情勢は多岐にわたり、かつ、いずれも正確に把握しなければ日本の浮沈にかかわる。
 そのための役割を担うのが、過日、設置が決定された「国家安全保障会議(日本版NSC)」であり、その活躍を保証するのが「特定秘密保護法」である。
 さらに、中共・韓国・ロシアとの領土問題、北朝鮮との拉致問題などは係争中といえる外交課題であるが、同盟国・友好国との付き合いにも、情報を活用する重要性はいうまでもない。精巧な情報を得ることができれば、例えば今年1月に起こった「ナイジェリア日本人人質死亡事件」も、回避することができたのではないか。途上国の経済発展に寄与している人たち…という日本人の認識と、先進資本主義国の資本家が途上国の資源と労働力を搾取するための尖兵…というテロリストたちの反感を、冷静に把握する必要もあったろうし、何よりもその襲撃は事前に予想されたことでもある。それなのに何の防御手段を講じなかったことは、繰り返してはならない失態といわなければならない。
 

 法案成立直後の世論調査では、内閣支持率が「支持55%(前回(11/8-11)より)−9ポイント」「不支持38%(同+15)」となった。マスコミが「特定秘密保護法案」対して「国民の知る権利を侵害する」と言い、強行採決を「巨大与党の横暴」と伝えるのは、国家権力の監視役を任じるとともに、ニュースはセンセーショナルなほうが読者は喜ぶから、仕方のないことなのかもしれないが、そんな報道を受け取った読者は「反対」と叫ぶのも無理はないのだろう。
 ここで思い出すのは「60年安保」である。『【以下、ウイキペディアより抜粋】1951年(昭和26年)にサンフラン講和条約とともに締結された安保条約は、岸信介内閣によってアイゼンハワー大統領との間で改定調印された。新条約の承認をめぐる国会審議が行われると、まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや、東條内閣の閣僚であった岸本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」として、多くの市民が反対した。
 これに乗じて既成革新勢力である社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり貫徹したが、全学連の国会突入戦術には皮相的な立場をとり続けた。
 なお、ソ連共産党中央委員会国際部副部長として、日本をアメリカの影響下から引き離すための工作に従事していたイワン・コワレンコは、自著『対日工作の回想』のなかで、ミハイル・スースロフ政治局員の指導のもと、ソ連共産党中央委員会国際部が社会党や共産党、総評などの「日本の民主勢力」に、「かなり大きな援助を与えて」おり、安保闘争においてもこれらの勢力がソ連共産党中央委員会国際部とその傘下組織と密接に連絡を取り合っていたと記述している。
 国会を取り巻くデモ隊は主催者発表で33万人、警視庁発表で13万人に膨れ上がり、事態の沈静に政府は4万人規模の右翼・テキ屋・暴力団らの動因を要請したという。国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死。このように激しい抗議運動が続く中、岸は陸上自衛隊の治安出動を要請し、東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、政府内にも反対があって、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。
 高まる反対運動の中、5月19日に衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案は強行採決され、続いて5月20日に衆議院本会議を通過したが、批准までの期間も大規模な反対運動が続いたのである。6月19日、参議院の議決がないまま自然成立。岸内閣は混乱を収拾するため、責任をとる形で新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職を表明したが、岸は7月15日の総辞職の前日、暴漢に襲撃され重傷を負った。』
 60年安保のとき、僕は15歳。国会前のデモをテレビで見ている立場であったが、学力テスト反対闘争で津高全学ストを主導した身としては、もちろん安保反対であった。以来、学生運動に参加していって、以後10年にわたって、公安警察を名乗る人物(刑事なのだろう)から、2?3年に1回、京都駅、亀山駅、津市の街中で声をかけられ(いつも同じ人物だった)、「うしろに公安の目が光っていることを忘れないように」と念押しされた。
 1972年の「浅間山荘事件」において、反体制運動の虚しさを痛感したことを契機に、僕は保守反動に転じた(苦笑?)のだが、それまでの学生運動とその延長にしても、国家体制の転覆といった高尚な思想性はなく、そのときそのときの是々非々が集団行動に繋がっていったというのが正直なところである。当時の友人は、学生運動の渦中にあっても、僕は「国を憂うるならば、右翼と言われるのが当然だ」と公言していたというから、似非左翼だったのだろう。「若い時に左翼でないのはバカだ、大人になっても左翼なのはアホだ」という言葉を聴いた覚えがあるが、さしずめその口だ。

 空前の盛り上がりを見せた「60年安保闘争」は、岸内閣が退陣し池田勇人内閣が成立すると急激に退潮した。池田内閣は所得倍増計画を打ち出して国民所得の向上が図られるとともに、11月の総選挙では社会党と民社党が互いに候補を乱立させた影響もあり、自民党は追加公認込みで300議席を獲得する大勝を収めた。安保条約の改定が国民の承認を得た形になり、現在まで半世紀以上にわたり、あれほど大きな反対運動が展開された安保条約の再改定や破棄が、現実の政治日程に上ることはなくなっている。
 この「特定秘密保護法案」を巡る攻防も、野党の反対は法案の本質に対する疑念よりも、審議が不十分という方法に対する怒りである。国民は、「言論の自由がなくなる」「国家の批判をすると逮捕される」などといった、ありもしないデマに煽られての反対である。国民の日常生活は何ら変わらない。「安保反対」と同じようにいつの間にか人びとの口の端にものぼらなくなって、「特定秘密保護法案があればこそ、日本の安全が守られる」という状況が、自然な流れのままに築かれていくのだろう。

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