【95】 小泉首相の靖国神社参拝について                2005.6.5


戦後続いてきた 歴代首相の靖国参拝
 小泉首相の靖国参拝に対して、内外がかまびすしい。中国・韓国からは「中韓国民に対して(日本国民をも)多大な被害を及ぼした戦争を指導したA級戦犯を祀る靖国神社へ、日本の指導者が参拝することは、中韓国民の心情に反する」との理由で、強い反発が表明されている。
 日本国内からも、「外交上の配慮に欠ける」「中韓との貿易などを考えると国益を損なう」さらには「南京大虐殺の数の違いを問題にしているような稚拙なことを言って居らずに、大戦の生き残りが生存している限り謝罪の意を尽くせ」といった稚拙な意見まで、様々な人々がいろいろな立場から発言している。
 衆議院の郵政特別委で民主党の岡田代表は、「靖国に参拝するなと言っているわけではない。なぜ反対を押して参拝するのか、その理由を明らかにせよ」というのは、理路が整然としている。それに対し、小泉首相は「かの大戦で国のために命を落とされた英霊に、感謝の誠を捧げるため」と言い、「その参拝を、他国がとやかく言うべきではない」とする。
 昨日は中曽根康弘元首相が、参拝中止を唱え、「行かない決断も政治家の責任」という談話をぶった。世論調査の結果が、先月の賛成55%・反対43%から、賛成45%・反対51%と、反対が過半数を超えたことを受けての「政界の風見鶏」らしい発言である。そもそも、戦後、首相の靖国参拝は昭和60年までは慣例として春秋の例大祭などに行われてきたのだが、それが途絶えたのは、昭和60年8月15日の中曽根元首相の公式参拝を、中国が批判してからである(詳しくは、靖国が、問題化したのは…の項で後述)。
 首相の靖国公式参拝のはじめは、敗戦の年、昭和20年の10月、幣原首相が靖国に参拝して大戦の戦没者の霊を弔ったことに遡ることができる。その後、一時中断されたが、昭和27年、サンフランシスコ講和条約が署名されると、吉田首相は、「戦没者の慰霊祭等への公人の参拝は差し支えなし」という占領軍の許可を得て、公式参拝を行った。以後、吉田(在任S21〜29)は4回、岸(同S32〜35)は2回、池田(同S35〜39)は5回、佐藤(同S39〜47)は11回、田中(同S47〜49)は5回、それぞれ首相として公的形式で参拝している。


公式参拝と私的参拝
 靖国参拝に公式と私的の区別が言われるようになったのは、三木首相(同S49〜51)の時からである。三木首相が参拝したとき、当時は中国・韓国などからの異議は全くなかったのだから、特に公式参拝であることの不都合はなかったのだけれど、また、先の歴代首相と変わらぬ形の参拝であったにもかかわらず、私人として参拝したと説明した。福田首相(同S51〜53)もその前例にしたがい、その後は昭和60年に「戦後政治の総決算」を掲げて中曽根首相が公式参拝を宣するまでは、歴代の首相は公的・私的に言及せずに参拝する形が多かった。


A級戦犯合祀
 さて、戦争犯罪についてであるが、太平洋戦争の戦犯は講和条約の規定のもとに関係諸国の同意を得て、昭和33年までに全員が釈放された。日本国内では、日本の刑法で懲役3年以上の刑に処せられた者の恩給は停止されたが、戦争裁判の刑死者等は日本国内法の犯罪者ではなく戦争の犠牲者と考えるということが、当時の左右社会党を含む国会の全会一致で決定され、全員が恩給支給の対象と認められた。
 戦争の災禍を身をもって体験していたにもかかわらず、いや、それが故にというべきだろうか、当時の日本人は迷うことなく、「この国のために戦い…それが故に裁かれた、戦争裁判の刑死者等は戦争の犠牲者」と受け止めていたのである。それが今、中韓からのクレームで大きなゆがみが生じているというのは、いかなる妄動であろうか。
 靖国神社へは昭和34年から戦争裁判受刑者が次々と合祀され、問題となっているA級戦犯の合祀は53年に14名が合祀されて、靖国への祭祀は完了している。このとき、中国などからは何の抗議もなく、54年の大平首相(同S53〜55)、55・56年の鈴木首相(同S55〜57)の参拝に対しても、さざなみ程度の波紋も生じてはいない。


A級戦犯
 ここで「極東軍事裁判」における、戦犯について考えておこう。日本国内の見解として「戦争裁判の刑死者等は戦争の犠牲者」という見方が形成されたことはすでに述べた。
 さらに、「極東軍事裁判」とは、勝者が敗者を裁いた軍事裁判であって、徳川家康が石田三成の首を刎ねたのと同等の出来事である。「極東軍事裁判」の非合法性・矛盾・手続不備などはかねてより指摘されていて、例えば、この戦争が多くの人民を殺害したとするのが罪ならば、国際法が厳しく禁じている、非戦闘員を無差別に殺戮することが明白な、原子爆弾の使用は罪ではないのか…、あるいはまた、日ソ不可侵条約を無視して突如満州に侵攻したソ連軍の横暴は、旧来の国際法に照らしても明らかな犯罪ではないのか…、満州から引き上げる日本の一般民間人に対する暴虐は、「極東軍事裁判」が裁こうとした関東軍の犯罪に匹敵する罪状ではないのか…。そして、それを裁こうとしないのは裁判の公正さを損なうのではないか。
 結果は歴史の検証を待つことになるが、日本のA級戦犯は戦争指導者として、相手国のルールで相手国の裁判所によって裁かれたのである。サンフランシスコ講和条約において、日本はその結果を受け入れたから、裁判は確定したものと理解するが、それは、量刑・刑の執行・赦免・減刑などの手続きを受け入れたのであって、勝者が敗者を裁くという裁判そのものを認めたわけではない。
 A級戦犯とは、勝者が敗者を裁くための特別軍事法廷で、勝者から彼らのルールによる「有罪」を宣せられたものの呼称である。
 歴史を振り返るとき、「石田三成は天下の形勢を誤り、徳川方の人命・財産を損なわしめた。また、多くの同盟者とその家臣・領民を死に至らしめたり、塗炭の苦しみを与えたので、その墓に参ることはご遠慮願いたい」などと言うものがいるだろうか。


靖国が、問題化したのは…。
 57年に日本の自虐史観が指摘されている「教科書問題」が起り、中国の対日批判が激しくなるが、ここでもまだ「A級戦犯合祀」への批判はなく、中曽根首相(同S57〜62)となった58・59年の参拝も問題なく行われている。
 現在の靖国問題が始まったのは、昭和60年からである。中曽根首相は、「戦後の総決算」をかかげて靖国懇話会(59年)を設け、出された報告に基いて60年8月15日に公式参拝を行った。
 これに対し、8月7日の朝日新聞は、中曽根靖国参拝を「中国が厳しい視線で凝視している」と書き、呼応するように11日の人民日報は靖国参拝に批判的な日本国内の動きを報道、はじめは互いに相手国を引用する形で参拝反対の記事を掲載しはじめた。そして14日、中国外務省スポークスマンが、「アジア各国人民の感情を傷ける」と、初めて公式に反対の意思を表示したのである。
 さらに、8月の27日から30日までの社会党訪中の際、社会党訪中団と中国は公式参拝批判のメッセージを出して反対機運は大きく燃え上がり、中曽根首相は参拝中止を余儀なくされる。
 この干渉の成功に味をしめた中国は、以後、靖国問題干渉を中国外交政策のカードの1枚として維持し、また、江沢民の掲げた(反日を国民団結の求心力とした)愛国運動などにより、中国の「国民感情」とされたのである。


靖国問題は、政治的問題
 靖国問題は法的問題や自然発生的な問題ではなく、極めて特殊な政治的問題だということが解るであろう。中国共産党政府の掲げた愛国運動が、82年の教科書問題以降の日中関係の中で、日本国首相の「靖国参拝」というものを、中国が政治的カードとして利用できることに意味を見出し、使い続けている政治的手段である。
 戦死者を慰霊する儀式は、世界各国で行われている。米国では、5月末の戦没将兵記念日や11月の復員軍人記念日に、大統領や閣僚がワシントン近郊のアーリントン墓地に赴き、戦没者らを称える演説を行う。フランスでは、第一次大戦の休戦記念日の11月11日と第二次大戦の戦勝記念日の5月8日に、大統領が凱旋門の下の無名戦士の墓に献花する。これらに対して、相手国がその戦争で国民を殺されたと言って、国家として中止を求めるだろうか。
 終戦後、靖国神社を国家神道の中心とみなすGHQ(連合国軍総司令部)は、その焼却を計画したという。だが、駐日ローマ教皇庁代表だったイエズス会のビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ人々に対して敬意を払う権利と義務がある」とマッカーサー元帥に進言し、靖国神社は焼失を免れたと聞いた。
 戦死者に感謝の誠を捧げ慰霊することは、まさに世界各国共通の国民の権利と責務であり、行うことを誇りとし、行わないことを恥とするべきであろう。


靖国参拝を国是に
 靖国問題は、内閣の姿勢が動揺し、日本国内のマスコミや世情が騒然となるかぎり、中国や韓国にとっての外交カードたりうる問題である。国のために命を捧げた英霊に対して、参拝の誠を尽くすことに何のためらいがあろうか。また、余人をして何の異議をさしはさむ権利や資格があろうか。
 靖国参拝を控えることが中国・韓国への配慮であり、それが国益と称して金銭的な利益を追求することを優先させるという考え方は、日本の将来を危うくする。戦後の日本が、エコノミック・アニマルと蔑称され、経済成長を至上のものとして、心の問題を置き去りにしてきたことが、今日の荒廃した社会問題の根源であることを忘れてはなるまい。
 今、日本国民は、日本を守ることの意味とそのために命を捧げた方々の御心を思い、極東軍事裁判史観にも正面から取り組んで、国民としての姿勢を凛として持つべきであろう。
 また、中国政府は「日本がいくら経済援助をしたといっても、アジアの人々を傷つけたという過去の歴史は消えない」という、まさに歴史認識を曲解しているとしか思えない談話を発表している(H17.6.7)。もし、以後の贖罪行為や歳月が、過去の歴史をあがない、風化させるものではないと、いつまでも言うのならば、アイルランドに対するイギリスの占領…東ヨーロッパへのロシアの侵攻…朝鮮半島への中国の制圧…など、世界のほとんどの国々は犯罪国家であり、壱岐の島民のほとんどを殺戮・殲滅して日本へ来襲した元寇は、中国の最たる犯罪行為ではないか。
 
 ( 蛇足ながら、中国は、問題の当初は相手に対して居丈高である。相手が動揺すればますます付け込み、堂々と相対する相手には妥協を図るのが中国外交の常套手段だ。弱いものには、容赦なく強い…、チベット、新疆ウイグル自治区、そして、日本…などなど。しかし、強い相手には、妥協し懐柔しようとする…、アメリカ、台湾…などなど。
 日本は、中韓の関係を粘り強く保持しつつ、アジアの諸国との連携を深め、その理解を得ることによって、中韓の突出した意識の見直しを求めていくことが大切である。さらに言えば、数学的素養に富み欧米的価値観を身につけているインドは、中国をしのぐ経済的魅力と将来への可能性を内在している。アジア興隆のパートナーシップをインドに求めていくことは、重要な選択である。)


 小泉首相は自らの信念に従い、ただ「国を護る英霊の御霊を鎮め給う」ことを願って、静かに玉砂利を踏んで欲しい。その姿を貫くことで国民を糺し、中国や韓国にはもはや外交カードたりえないことを知らしめ、粘り強く交渉して相手カードの清算を成し遂げてほしい。靖国参拝の姿勢を崩さないことで、平和を維持してきた戦後日本の60年の信頼が揺らぐことはなく、むしろ信を貫くその延長上に平和を守る日本の将来の国家像があることを、誰もが信じて疑わないのだから。



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