【寺子屋騒動外伝】 28年ぶりの同窓会                2007.12.30


 2007年もあと1日、今夜は今年最後の忘年会。母上が入院した病院の看護婦長が、僕が学習塾を開いていた頃の生徒で、彼女の呼びかけに、当時の同級生たちが、津桜橋の割烹「友一」に集まった。
 「お前ら、幾つになったンや?」。「43歳です。28年ぶりです」… 顔を合わせた途端、みんな、教室に居たときの顔に戻っていた。30年近い空白を全く感じさせない再会であった。
 
 A雄は、地元のH銀行に勤めていると言っていた。「俺の同級生にI君という四日市支店長で退職したのが居るが、H銀行は事なかれ主義の保守体質だと言ってたぞ」と水を向けると、「Iさんの豪快さには目を見張りました」とさすがに知っていた。「私は名古屋支店のあと、Iさんと入れ替わりに四日市へ転勤したのですが、後始末にキリキリ舞いしました。もう、シッチャカメッチャカで…」と苦笑しながら話す。我が同級生も、教え子世代に後始末をしてもらう時代になったか…。


 B也は、現在、愛知県豊橋市に住んでいて、今日は津市にホテルを取って駆けつけたのだという。看護婦長C子の連絡を受け、「先生に会いに、泊まりで来ました」と泣かせることを言う。
 さらに続く彼の話は、タツヤという名前を出さないと話が成立しないのだが、「僕は教育センターで、先生がつけた『タツマキ』というあだ名が、中学校でも高校でも大学でも通り名になりました」と笑う。授業中に何かの質問をされ、「え〜っと、え〜っと…」と考える彼の思考形態を、タツヤという名まえにからめて、「タツマキ」と命名したのだ。
 彼は今年、長年勤めた会社を辞め、デザイン工房を独立させた。創業間もないが、豊橋市市制周年記念イベントや愛知県消防組合の防火ポスター、静岡県のお茶キャンペーンといった仕事を抱えて、正月もない忙しさだという。その中を、今日は駆けつけたと、また泣かす。
 僕が生徒数840名の学習塾を片手間にやりながら、その頃から今もずっと出版会社を経営してきていることにも興味を示し、「その会社は35年以上続いていますよね。そこまで維持できる原動力は何ですか?」と聞くので、「執念や! 俺の目の黒いうちは、この仕事は潰さんし、潰させんという、強い意志を持つことや」と言った答は、起業した彼へのはなむけになったろうか。


 看護婦長C子が、「今の若い子は理解できやんわ」と言い出した。「トラブったときでも、自分が悪かった済みませんとは言わないもンね。何かかんかと、自己弁護…自己主張するンよ」。
 聞いていて、この子たちも「今の若い子は…」と言うのかと可笑しかった。いつの時代でも、世代間のずれ…ゼネレーションギャップは避けられない問題なのだ。
 「私、最近、歌舞伎に凝ってるの。中村屋一門が好き」と言い出した。『えっ、こいつに歌舞伎が解るのか』と失礼なことを思っていると、「勘太郎、七之助の息子たちも良いなぁ」とA雄も応じている。「この間は七之助の道成寺を見てしびれたわ。若いから、きれいよねぇ」なんて、さらにC子はうっとりしている。他の子たちも加わって、ワイワイと盛り上がった。
 「先生は、誰が好き?」。「菊五郎や」と答えると、「ちょっと歳がいっとるな」と言われた(苦笑)。菊五郎は今の世話物にも味はあるが、若い頃の女形の美しさは筆舌に尽くしがたかったのである。女形の名優6代目中村歌右衛門の現役の頃も知っている僕だが、それこそ2人の「京鹿子娘道成寺」を見たけれど、歌右衛門の円熟味もさることながら、僕は菊五郎(当時菊之助)の美しさに軍配を上げたい。
 歌舞伎に興味を持つということは、古典・漢文の素養があるということである。伝統の世界をのぞくならば、人情の機微や人の世の義理人情・しがらみに思いをいたすことが出来る。それぞれの人生を生きるうえで、大きな素養となることだろう。


 D彦とは最近の読書の話になって、「『カラマーゾフの兄弟』の新訳が出たので、この正月に読んでみようと思っている」と話すと、「今度の訳者は誰ですか?」と聞くので、「亀山…、え〜っと」と考えていたら、「あっ、亀山郁夫ですか。東京外語大学の学長ですよね」とサラリと言う。「前の岩波版は米川ナントカ…でしたね」と。
 おいおい…亀山郁夫や米川正夫の名前をサラリと口にするお前は、ホントに僕の教え子か? そこまでは、教えなかっただろうが…。
 『本が好きな先生に担任してもらった生徒は、本好きになる』と言う。日本・世界文学全集(筑摩書房)、日本・世界の名著(中央公論社)、日本・世界の歴史(中央公論社)、世界大百科事典(平凡社)…といった類の本は、いちおう我が家の本棚には並んでいた僕の本好き(本を買うのが好き?(苦笑))が、少しは彼に影響しているのならば、望外の幸せである。


 「あんな面白い教室はなかったなぁ」と彼らは言う。「『アホぉ』とか言って、即座にポッカーンと殴られるンやからなぁ。風呂に入って頭を洗うと、痛いのさ」とA雄。「私は殴られたことはなかったよ」と言うC子に、僕が「そりゃぁ俺も、相手を見てどついとったンさ。女は執念深いから、どつかン」と言うと、C子は「いやぁ、私もどついて欲しかったなぁ」。「お前、ホンマに痛いンやぞ。頭くらくら〜っとするンや」と男どもは口々に言っている。
 「先生、うちの親に『普通科へ進学させろ』と電話してくれましたね」とC子が続ける。「商業へ行って、それから先の学校へ行こうと思ったら、履修科目の関係で、ホント…行く学校がないのさ。これか、先生が『普通科へ行け』と言うてくれた理由は…と、あのとき気がついたわ。それで準看の資格を取ってから、正看の資格をまた取ったのです」。


 D彦が、「先生、『飛んでけ、ブ〜ンと…』という言葉、覚えていますか?」と言い出した。言われてみれば、授業中にチンプンカンプンな答を言うものには、「何を言うとンのじゃ、アホぉ…。そこの窓 開けて、(津の夜空へ)飛んでけ、ブ〜ンと…(ハエみたいに)」と、差別表現の羅列をしていた覚えがある。( )内はアドリブで、その場の雰囲気や状況で、省略されたりいろいろに変わる。教室はビルの2・3階だったから、窓を開けると近所の民家の屋根が並んでいた、「お前、飛んでけ、ブ〜ンと…」という雰囲気にピッタリであった。
 「僕らは、あの言葉が好きで、授業中にあれが出ると、A雄やタツマキと顔を見合わせて、『言うた、言うた』と喜び合ったものです」と笑っている。「今でも、僕たちの間では、ちょっと話が噛み合わないと、『飛んでけ、ブ〜ンと…』と使っています」と笑い転げる。


 「今の塾は、あの頃の教育センターのシステムそのものですよ。うちの子が通っている塾からも、毎月、「成績表、出席率」なんかが送られてきます。先生は、30年前に、やっとったンですね」と感心してくれた。
 「教育センターから届く成績表には、宿題の提出率や正答率も書かれていたなぁ。宿題忘れると、必ず残されて出来るまでやらされたから、12時を過ぎることもあったよ」。「『出来るまで残しますから、先に寝ててください』と、親に電話されてなぁ」と話は尽きない。


 平成元年、三重県教育センターは新規募集を取りやめた。生徒やその父兄が変わってきて、教育センターの厳しさについて来れない子どもたちが現れたし、その父兄には、今まで話さなくても済んできたことがらを説明しなくてはならなくなった。
 女の子に口撃を受けて、泣いて帰った男の子の父親から、抗議の電話が入ったことがある。「女にゃ泣かされないというようになってから、また通わせてください」と言うしかない。
 

 「今は、本気で生徒を叱る先生は居らんな」。「どついてくれるような人は、皆無や」。「先生、もう一度、塾をしてください」と、皆んなが言う。
 「あほか、今の時代、生徒虐待に俺は 3日で 刑務所行きじゃわ」と僕(大笑)。
 

 二次会のスナックでは、居眠りしているママをそっちのけで、午前ン時まで何十曲歌ったことか。初めは、「演歌しかアカンぞ」と釘を刺したのだが、途中で「さだまさしは演歌か」と言い出した頃から、僕も『さだまさし』の在庫は若干抱えているので「OK」を出したところ、エスカレートしてカタカナ交じりの歌が始まった。こいつらに、甘い顔をしてはいけないことは、28年前にわかっていたはずなのに…。
 歌手の名まえにも歌詞にも英語が混じってきた頃に、終了、お開き…。何曲歌ったのか、二次会は僕のオゴリと宣言したのだが、勘定書きがまだ来ないのでわからない。


  寺子屋トップページへ