◆「スターリングラード 運命の攻囲戦 1942ー1943」        2004.11.8【読書101】
      (アントニー・ビーヴァー著、堀たほ子訳、朝日新聞社刊)



 友人からのメールの中に、映画「スターリングラード」の話があった。去年、たまたま表題の本を買い込んで読んだのを思い出し、本箱の隅で惰眠をむさぼっていたこの本を引っ張り出し、目を通してみた。以下は、この本に描かれた、独ソ戦の大きな転機となったスターリングラードの戦いの有様である。


1941年6月22日(この日はかつてナポレオンがロシア遠征を始めた日)、フランスを制圧したドイツは、イギリス本土上陸をにらみながら、いつかは雌雄を決せねばならない共産主義国との決着をつけるべく、1939年に結んだ独ソ不可侵条約を無視し、無警告で対ソ戦に突入した。ドイツの全兵力の約9割、総勢420万の大軍が一気に攻め込んだのである。連戦連勝のドイツ軍は、翌年の夏、ソビエト南部に大攻勢をかけるブラウ作戦に着手。ヒトラーは南方軍を二手に分け、主力の軍団をカフカスの油田制圧に、もうひとつの軍団をスターリングラード奪取へと向かわせる、同時二面作戦を命じた。
 パウルス将軍率いる第6軍は、スターリングラードに向けて進軍を開始、ここでも当初はやすやすと街を制圧し、年内に帰還できると考えていた。しかし、廃虚と化したスターリングラー
ドの瓦礫の中で、家1軒、数メートルの土地をめぐる戦いなった地獄のような市街戦と、一般市民を兵にしてボルガ川沿いを死守するソ連軍の想像以上の抵抗に苦戦を強いられ、やがて厳しい冬の訪れとともに、第6軍はソ連軍に包囲され孤立する。ドイツ軍はロシアの冬に対する準備を怠っていた。ナポレオンが圧倒的な兵力を誇りながら冬将軍に敗れ去ったように、ヒトラーもまた同じ轍を踏んだのである。

 スターリングラードは、モスクワから南に300kmほどの位置にあるボルガ河畔の街、現在はスターリン批判のなかで、1961年にボルゴグラードと改名されている。 ドイツ側から見れば、本来スターリングラード攻略は、戦略的価値の乏しい戦闘のはずであった。しかし、膠着する対ソ戦を打開するために、ヒトラーはこの共産主義の国の独裁者の名前を冠した都市を制圧して、戦いに弾みをつけたかったのである。
 この本から受けるスターリングラード戦の印象は、まさに殲滅戦そのものである。路地と路地を挟み、家屋の上下階で繰り広げられる死闘の数々。爆撃と砲火にさらされ続ける廃墟の都市で、空腹感とシラミにたかられ、劣悪な環境で戦う兵士たち。ラッテン・クリーク(鼠たちの戦争)とドイツ軍の将校に言わしめた戦闘は、包囲され補給を断たれた兵士たちにとって物心両面での負担を強いていき、計り知れない死と窮乏感が全軍を覆っていく。

 スターリンは、後にソ連の首相になるフルシチョフを防衛の司令として派遣し、現地指揮官に「スターリングラードを守り抜くか、それとも死ぬか」と誓わせて、徹底抗戦を貫く意志を示す。そのソ連軍では、自らの命を省みず銃火の下で負傷兵を助け続けた10代の看護兵の少女たちがいる一方で、そうした助けられた命がボルガ河畔で、消耗品のように見捨てられていく。本来は、ソ連軍の保護下にあってしかるべきはずのスターリングラード市民を 戦闘の邪魔になる非合法分子として機関銃で射殺するNKVD(スターリン大粛清の執行機関として知られる内務人民委員部)。 … いつの戦いでも、悲惨なのは一般市民。特に市街地が両軍の戦闘の中心地となり、無差別の殺戮が続くこの戦いでの一般市民は、にわか兵士に仕立てられ、二人に一つの銃しか与えられずに突撃を命じられる悲惨さである。

 −30℃の極寒の中、20万のドイツ軍がスターリングラードで完全に孤立したまま冬を迎え、多くの兵士が栄養失調や凍傷で命を落としていった。翌1943年2月、ヒトラーの「最後の一兵まで陣地を死守すべし」という命令に反して、ついにドイツ軍は降伏。ドイツ兵9万1千人が捕虜となった。スターリングラードの陥落によりドイツ軍の戦線は大きく後退し、これを機に独ソ戦は完全に攻守ところを変えていくのである。』


 レニングラードの戦いの中で、伝説のスパイナーとしてドイツ軍の将兵を震えあがらせた、映画「レニングラード」の主人公ヴァシリ・ザイツェフは実在の人物である。ロシアの田舎で羊飼いをしていた彼は、毛皮を傷つけないために、羊たちの目を射抜く射撃の技を祖父に鍛えられてきた。地獄の消耗戦を戦う兵士の心を奮い立たせるために、彼はソ連軍の英雄に祭り上げられていく。
 戦後60年以上たった今でも、彼は国家的ヒーローであり、現ボルゴグラードの英雄記念碑には、彼の巨大なレリーフが飾られ、ライフルは市の歴史博物館に保存、戦利品である望遠鏡はモスクワの軍事博物館に展示されている。


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