【読書113】 教師の哲学     (岬 龍一郎著、PHP研究所)     2005.10.28



日本のすべての問題の根幹は教育にあり、日本に求められている答えのすべては教育にある!」と、私は教育問題の重要性を訴えてきたのだが、今日の教育界では、その教育をなすべき教師自身の精神的な拠りどころが示されていないことも、大きな気がかりのひとつであった。
 教師は生徒に対して、「人間に生まれてきたことの意義を説き、人生の素晴らしさを教えて、子どもたちの秘める心霊に点火する」という聖なる役割を負っている。しかし、今の教育界には、教師を教師たらしめる過程においても、「教師は聖なる使命を負う」ことの自覚を促そうとしてはいない。
 「哲学を持たない教師が、子供たちの人生を語ることが出来るのか」。この書は、教育界に対するその問いに、ひとつのかすかな答えをもたらしてくれるかも知れないと思い、ページをめくってみた。


 今日の日本の教育の危機を、著者の岬龍一郎氏は『とくに私が、日本の危機としてもっとも強く感じているのは、精神的価値観の崩壊、すなわち戦後日本人のモラルの喪失である』と書いている。もちろん、従来から再三指摘されてきたことで、その指摘自体は目新しくもないが、それでは戦前と比較して、われわれ平成の日本人は何をなくしてしまったのか。
 この書は、『かつての日本人が持っていた「伝統的精神文化の喪失」ではなかったのかと思っている。もっと具体的にいうなら、人が人として健全に生きていくために持たなければならない、「気概」とか「誇り」とか「道徳」とかいった、日本人としてのバックボーンを喪失してしまったのである。別言するなら、「身を修める」といった自分を磨くための教育や躾が、学校からも家庭からも社会からも消えてしまったことが最大の原因ではなかったのか』と説く。
 また「教育は国家百年の礎である」ことのゆえんを、『国家の存亡を決めるのは、それを維持する国家国民の一人ひとりの「見識」「教養」「道徳的気槻」である』と言っている。『だからこそ福沢諭吉はそれを「一身独立して、一国独立す」と言い換えて、国民の誰もが人格と知識教養を高めるためにと『学問のすゝめ』を書いたのである。いわば教育こそは国家百年の礎であり、どのような教育がおこなわれているかで、国家の命運は決まるということだ。そこに教育の重要性がある』と。
 かつての日本には、国の未来を見据え、日本人としての誇りある教育をほどこした教育者がたくさんいたとして、「米百俵の精神」の小林虎三郎、「修身教授録」の森信三、英文の「武士道」を著した新渡戸稲造、「歴代総理の指南役」安岡正篤、「独立自尊の教育」福沢諭吉、「諸賢の集会、木曜会」の夏目漱石、「アメニモマケズ」の宮沢賢治、「松下村塾」の吉田松陰、「適塾」の緒方洪庵を挙げ、その教育を紹介している。


 日本の教育の問題点を指摘し、再建を図る方策には、もはや新しいものは何もない。要は、それらの指摘を具体化し、再建策を実施に移すことである。ところが、教育界の動きの鈍いことは蝸牛の如しであり、保守的なことは不動如山である。教育委員会も学校も、組織は前近代的だし、責任体制も整っていない。求められることは、教育界に改革者が出現することであろう。


 近年、教育環境の整備や1学級の定員を少なく…などの議論もかまびすしいが、著者は『私はこの松陰先生が好きで、私の関係するある業界の若手幹部社員で構成する「塾生」を引き連れて、毎年、山口県萩市にある松下村塾へ詣でることにしている。その理由は、あの質素な松下柑塾を見せて、学問はけっして潤沢な環境から生まれるのではなく、松陰のいうところの 「
草莽崛起の精神」すなわち「志」と「気概」によってのみ向上するのだということを心に刻んで欲しいからである』と述べて、教育にとって設備や定員数は二次的なもので、教育の実は指導者の「志」と「気概」によってのみ養われることを示している。やはり、教師は哲学を持たねばならない。



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