【119】 昭和史の常識  (渡辺昇一、WAC出版)        2006.05.08
  ―東京裁判が誤れる裁判であったことは、世界の常識―                   


東京裁判の管轄権は、どこに根拠を持つのか
 日本の戦後思想を支配してきた「東京国際軍事裁判(東京裁判)」は、国際法や慣習法、条約などとは一切無関係なく、マッカーサー司令部がこの裁判を開くために作成した条例によって開廷した。
 裁判の冒頭、清瀬一郎弁護人は「世界が理解している戦争犯罪人の定義とは、@戦闘者の不法行為、A非戦闘者の戦闘行為、B略奪行為、Cスパイ行為の4つである。この裁判の法的根拠は、昭和20(1945)年7月26日に発せられたポツダム宣言(第10項)にあるが、その時点においてこの裁判所が裁こうとしている『平和に対する罪』『人道に対する罪』といった類の罪の概念は、国際法にも先進国の法律にもなく、この裁判の管轄権はどこに根源を持つのか」と問うたのである。そもそもこの裁判を開廷することを謳った「ポツダム宣言」が発せられた時点で国際法にない戦争犯罪を裁くなどといったことは、法的根拠がなく、できないことなのである。
 答に窮したウェッブ裁判長は、「あとで回答する」として裁判をそのまま進めたが、回答することはなかった。アメリカのスミス弁護士は「管轄がこの場で明らかにできないのであれば、控訴棄却すべきだ」と強く主張し、裁判長から忌避されてアメリカへ帰国してしまったほどである。
 どの国際法にも定められていない犯罪を、あとになって新しく法律を作って裁こうとするのは、『事後法禁止の原則(法の不遡及)』に抵触する。東京裁判では、絞首刑7名・終身禁錮刑16名・有期禁錮刑2名の判決が言い渡されたが、その法的根拠はおよそ文明国では認められない事後法によるものであった。
 もしも「人道に対する罪」で裁かれねばならない者がいるとすれば、一瞬にして数万人もの市民を殺戮した原子爆弾を投下し、無差別の都市爆撃を続けたアメリカや、一方的に中立条約を破棄して満州に侵攻し、停戦協定成立後も民間人婦女子までを殺害陵辱、60万の捕虜をシベリアに連行、劣悪な環境の中で労働に従事させて6万名にも及ぶ使者を出したソ連こそ、その罪を裁かれなければならないのではないのか。


満州は満州族の土地で、シナが主権を主張できる地ではない
 東京裁判は満州建国を日本の中国侵略と断じているが、そもそも満州は万里の長城以北の地で、中国の領土ではない。古来、満州族(女真族…ヌルハチが出て、その子孫が清朝を建てた)の土地であって、支那を支配した清朝が辛亥革命によって倒壊したあと、父祖の地に逃れた満州族(清朝遺臣)が溥儀を皇帝とし、日本の後押しを受けて自分たちの国を造ったのが満州国である。宰相や大臣に就いたのは、全員が満州人または清朝の遺臣であった。
 しかも、日露戦争前は満州全土と遼東半島は、実質的にロシアの支配地であった。日露戦争によってそれらを清国の手に返し、日本は南満州鉄道の経営権や旅順・大連などを租借する。溥儀の満州建国を助け、指導した石原莞爾は、「日本は満州経営を援助し協調することに専念すべきであって、支那に攻め入る必要はない」と明言し、戦線不拡大方針を明らかにしている。(だから、彼は東京裁判の被告として償還されていない。)
 国際的にも満州国は、1933年に蒋介石が建国を認め(塘沽協定)、第2次世界大戦の終結までには世界23カ国の承認を受けている。満州建国以来、匪賊が跋扈し、外国勢力によって占拠・搾取されていたこの地域の治安は安定し、年間100万人の単位で人口は増加していったのである。
 こうして築いた満州国について、溥儀は東京裁判で「日本の傀儡国家であった」と証言する。このときの溥儀は、満州に侵攻してきたソ連軍に捕らえられ、家族とともにハバロフスクに隔離されていて、ソ連の監視の下に証言台に立ったのである。


サンフランシスコ講和条約締結で、戦犯は名誉を回復した
 日本を自虐的に語る、東京裁判史観の根拠のひとつとして、「日本はサンフランシスコ講和条約を受け入れている」という指摘がある。
 条約の第11条に、『日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷のjudgements(諸判決)を受諾し、且つ日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を執行するものとする』と書かれている。
 すなわち、日本が受け入れたのは絞首刑とか禁錮とかの判決を執行することを受け入れたのであって、裁判そのものや日本が犯した罪を認めて受け入れたわけではない。
 しかも11条には、『これらの拘束されているものを赦免し、減刑し、仮出獄させる権限は、各事件について刑を科した一またはニ以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合のほか、行使することができない』とある。
 すなわち、「一またはニ以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づけば、赦免・減刑・仮出獄させてもよい」のであって、日本政府は直ちに各国政府に働きかけ、全ての戦犯とされた人たちを釈放したのである。東条英機らの絞首刑になった人たちも、もしそこまで生き延びていれば釈放され、A級戦犯であった岸信介・賀屋興宣・重光葵らのように、多くが戦後の日本で活躍したことだろう。
 昭和28年、主権を回復した日本は衆議院本会議において、「戦争犯罪の受刑者の赦免に関する決議」を全会一致で可決し、極東軍事裁判における全ての戦犯は赦免・釈放された。当時の日本の人口は9000万人ぐらい、そのうちの4000万人が… 実際に太平洋戦争を戦い、戦火にさらされた人々の半数近くが…、いや、総人口9000万人の中には子どもや乳幼児もいたことを思えば、戦争を体験した人々の実に半数以上が、国会へ戦犯の赦免釈放を求める請願を出した。それを受けて国会は、戦犯を通常の戦死者と同じに扱うことを、社会党・共産党を含む全会一致で決議し、戦争犯罪人とされた人々の名誉を回復したのである。


マッカーサーが認めた、日本の自衛戦争
 昭和26年、マッカーサーはアメリカの軍事外交委員会で、こう証言する。「日本は8000万の人が4つの島にひしめき、… 固有の産物はほとんどない。… 彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった(日本は自衛のために戦争した)」と。



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