【122】 中国・韓国が絶対に教えない近現代史 (黄 文雄、徳間文庫) 2006.06.08


 第二次世界大戦の終戦から60年以上を経て、今なお中国・韓国は戦争当時の日本の行為にこだわり、日本の謝罪を繰り返して求めようとしている。中韓は、過去の時点に留まって、将来を語ろうとしない。
 戦後処理は、講和条約の締結により全てが清算されるのが、国際的な共通理解である。従ってサンフランシスコ講和条約締結の各国や、日韓基本条約(1965、昭和40)、
日中平和友好条約(1978、昭和53)を結んだ韓国・中国とは、戦争時の行為は全て解決済みであるが、そこまでだけでなく、近代史上における日本の行為は、中韓が言う謝罪に当たることなのかどうかまで踏み込んで検証してみたい。これからの時代を生きる日本人にとって、中韓とかかわる近現代史を正しく認識することが不可欠だと思うからである。


・大日本帝国は、軍国主義におおわれた、近現代史の闇か


 明治維新から第2次世界大戦の終結までの70数年間、世界史の舞台に忽然と登場した大日本帝国は、大航海時代以来、列強の被植民地であったアジアの中で先駆けてつくられた近代国民国家であり、白人の地球支配を終結させ、異文化の受容と咀嚼を行った、アジアの暁光であった。
 世界の帝国主義が拡大の一途を辿った時代、明治維新を成功させた日本は、大国化・強国化へとひたすら突き進んだ。当時も、内村鑑三・三浦銕太郎・石橋湛山・幸徳秋水・河上肇などは小国主義を唱えたが、その主張がいかに空想的な愚論かは、列強に支配されたアジア諸国を見れば一目瞭然である。
 朝鮮との宗属関係を保護属国にまで強化した清国の朝鮮半島支配を排除し、大中華主義や列国の勢力が日本へ及ぶ危惧を除くために、日本は兵力10倍以上の清との戦い(日清戦争)を決意し、この戦いに勝利した。開戦の詔勅には「朝鮮を属国化し、独立を阻害している清国勢力を排除し」と謳い、「以って、東洋全ての平和を維持せむ」と記している。
 清露国境を定めたネルチンスク条約を侵して、1900年の義和団事件を契機に、ロシアは全満州を占領した。ロシアの南下…やがては朝鮮半島に及ぶであろう勢力拡大を怖れた日本は、日英同盟を締結して、乾坤一擲の日露戦争を戦い、世界の誰もが予想しなかった勝利を手中にするのである。
 日露戦争の日本勝利は、白人のアジア観を一変させ、西欧の武力に支配されていたアジア諸国の目を見開かせた。戦争の前、清国分割は英仏独露の間で決められていたことであり、日本は清国の分割を回避しただけでなく、列強の勢力が大陸から退去するきっかけともなったのである.近代史上、初めて白人が黄色人種に破れたこの出来事は、清国のみならず、アジア各国の書物に最大級の賛辞とともに綴られている。インドのネールは「日本の勝利はアジアの救い」と書き、辛亥革命の指導者として中国で国父と崇められる孫文は「日本がアジアにあることで、アジア人の国際的地位を高めてくれた」と言っている。
 「国家は力なり」と謳われた19世紀の半ばに東洋の片隅で誕生した日本という国が、弱肉強食の帝国主義の世界の中で生き残るために、「殖産興業」に励み、「富国強兵」を進めて行ったのは、歴史の必然であった。「国民皆学」を実践した英知を持って、近代国家の成立に成功した大日本帝国は、まさしく「アジアの奇跡」であり「有色人種の希望」であった。
 戦前の日本が貧しかったとはいえ、20世紀に入ってからも西北大飢饉や大躍進政策の失敗によって1000万人以上の餓死者を出している中国やインドに比べて、近代資本主義を発展させていった大日本帝国では、国内はもちろん、その統治下にあった朝鮮も台湾でも、凶作はあっても餓死者は出ていない。
 日本の敗戦に終わった第2次世界大戦であったが、戦後、西欧諸国の植民地であったアジアの国々が次々と独立を果たしたことは、日本が列強を相手に戦い、支配を受けてきた国々の自立を促した結果であることは、これらの国々の指導者が異口同音に指摘することである。
 戦後日本の驚異的な復興の原動力となったのは、大日本帝国が培ってきた教育的・文化的・精神的・人的な遺産であった。終戦時の焼け野原から、日本はわずか15年で高度経済成長期を迎え、1955年には世界の2.4%に過ぎなかった我が国GNPシェアは,1980年には9.5%に達して、自由主義経済圏ではアメリカに次ぐ第2位の経済大国に成長した。今の日本が、もし同様のダメージを受ける事象に遭遇した場合、再生する力を保持しているかどうか、はなはだ怪しいと危惧するのは杞憂だろうか。
 大日本帝国は、軍国主義におおわれた近代史の闇であるとの指摘がなされることがあるが、アジアの各国が西欧列強の武力に虐げられて、次々と植民地となっていった時代の中で、近代国家を成立させて自国の独立と国民の生命財産を守りながらその社会を涵養してきたこと、また、列強の進出を阻止して、アジア諸国・諸民族の自信を取り戻し、その自立を促してきたことは、世界が認める大日本帝国の偉業であったのである。


補追
 大日本帝国…と聞くと、中国大陸や東南アジアへ進駐して行った日本軍や、治安維持法によって獄死した大杉栄の姿が思い浮かぶかも知れない。
 しかし、(第2次大戦時の日本軍の進駐理由は別に述べるが、)日本軍は近代法治国家の鎮守として、世界の中でも軍規の厳しい信頼される軍隊であったことは、進駐した台湾・東南アジア諸国の人たちの証言の通りである。
 中国・韓国では、残念ながら、私の現在までの調査ではこの証言は得られていない(あればお教え下さい)が、後述するように、清朝崩壊ののち内乱が続いた中国大陸では、人民を略奪する支那軍や匪賊の虐殺を怖れて町を逃れていた人々が、日本軍の進駐によって治安が回復した町に帰ってきて、人口が増えたという記録はたくさん残っている。もし、日本軍が残虐で、略奪や殺戮を行っていれば、そんなところへ人々が帰ってくるだろうか。
 また、大杉栄、小林多喜二などの反体制者に対する厳しい取調べは、治安維持法の悪名とともに今に伝えられている。国家転覆を図るアナーキストに対する取り締まりは、人権に配慮のなかった時代の行きすぎた部分があったことは残念である(日本だけでなく、この時代は世界各国のことである)けれども、重大事犯の被疑者を厳しく取り調べることは、検察・警察の職務として当然のことであったろう。
 与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」は日露戦争の反戦歌として有名だが、「すめらみこと(天皇)は戦いに、おん自らはいでまさね」と公然と天皇を批判しているこの詩に対して、政府も官憲も何らの規制も干渉も行なっていない。大日本帝国の時代とは、社会が未発達であったがために、一部に基本的人権に対する認識が甘かった嫌いはあるが、議会における議論は活発であり、文化・芸術なども大らかに羽ばたいた時代であった。


・日本は、中国を侵略したか


 歴史を紐解くと、中華帝国を形成した歴代王朝のうち、漢民族の王朝は「漢・南朝・宋・明」のみである。漢人を家奴(家内奴隷)と称した「清(1644-1912)」は満州民族(女真族)による王朝だが、白蓮教の乱(1796年)ののち天下は乱れ、飢饉・匪賊の横行・内戦の頻発が激化し、辛亥革命、国共内戦を経て、今日の中華人民共和国が成立している。
 ならば、現在の中国は、征服者の北方民族である清を打倒駆逐したの新政府であって、法統(法的正当性)道統(道義的正当性)をもつ清朝の後継者なのか…、満州・チベット・ウイグルなど、いわゆる漢外の地は中国が領有権を主張することができるのか…などの疑問が残るところだが、ここではその議論はひとまず置く。
 清朝末期からの中国は、北洋軍閥と西南軍閥・北京中央政府と広東政府の対立闘争などの混乱が続いた。もはや中国国内の勢力では事態を収拾する力はなく、英・仏・独・露ら西欧列強の介入を招いている。日露戦争開戦前の満州は、実質的にロシアの植民地であった。
 清朝末期の中国では、辛亥革命後の20年間で、四川省内だけでも500回に及ぶ内戦が起こっている。混乱の中国へ、列強とともに内乱平定・秩序維持のため出兵した日本軍は、かつて明朝末期の内乱を平定して南京に入城した満蒙八旗軍への歓迎を髣髴させる、提灯を持った民衆の歓迎を受けた。
 内乱平定に腐心していた蒋介石は、日本の援助も要請している。その彼が「反日抗日」に転じるのは、西安で監禁され共産党との抗争を停止して一致抗日を約束させられた「西安事件(1936)」のあとである。1937年、中国保安隊による日本人居留民580人(当時、日本統治下だった朝鮮出身者を含む)に対する襲撃虐殺事件(通州事件)を契機として日本世論は高揚、中国を代表する政府が成立していないため宣戦布告のない日中戦争へと踏み出していくが、この戦闘は戦乱混迷の中国大陸に秩序と安定を築いていく戦いでもあった。内乱の破壊と匪賊の略奪を避けて市街を捨てていた中国人住民が、日本兵の進駐によって町へ戻ってきて、人口が増えたという事例は、至るところで報告されている。


 満州国建国は清朝(満州民族の王朝)を倒された満州民族の悲願であり、日本はその後援を行ったものである。皇帝溥儀以下の満州国百官は満蒙漢人であり、国家の運営は満州国人の手で執行される仕組みであった。
 満州国建国以前の満州には、義和団事件を契機としたロシア軍が駐留していて、実質的なロシアの植民地であったが、歴史に「if」はないと言われるけれど、日本が日露戦争に勝利していなければ、満州はマンチュニスタン、朝鮮半島はコーリアスタンとなっていたことであろう。あるいは日本も今頃は、国名が「ヤポニスタン」となって、ロシア語を話していたかもしれない。


・日本は、韓国を植民地支配したか


 今、韓国では「韓民族は有史以来、独立を保持してきた。日本の併合の時期を除いて」と主張し、学校教育でもそのように教えている。しかし、韓国は中華帝国の千年属国であったことは歴史の中の事実であり、韓国の古い国旗には「大清国属」とまで書いてあった。ソウル市内には「独立門」という門が建てらているが、昔、その場所には『迎恩門』という門があり、そこで朝鮮王は「清の使者を9回頭を地面につけて迎えるという儀式」を強いられてきたのである。
 1894年、日清戦争に勝利した日本は、清国との間に下関条約を結んで朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮における清国の影響力を排除した。
 1909年、韓国併合は時期尚早とする伊藤博文らによって、日本国内では「世界の最貧国である韓国の併合は百害あって一利なし」とする反対論が強かったが、ハルピン駅で伊藤が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されたことから、世論は一気に併合に傾き、桂内閣が1910年併合に関する条約を調印して、韓国を併合したのである。
 韓国併合の目的は、大陸からの防衛埠頭にしようとする軍事的・地政学的な要請と、領土拡大への要求が合致したものであったが、ロシアの南下をなおも警戒し、東アジアの安定を求める、英・米・独・仏などの列強はこの併合を支持、承認した。朝鮮国内では、高宗や閔妃を始めとする李氏朝鮮高官らの抵抗も大きかったが、一進会や首相の李完用らは列強時代に韓民族が生き残り、国の衰微を食い止めて整備を進めるために、併合に希望を抱いたのであった。日露戦争後の東アジア世界には、日本以外の安定勢力はなかったのである。
 韓国において「日帝支配36年」と悪名高いこの併合に、日本は、植民地的搾取を行ってはいない。むしろ半島の近代化に大量の人的・物的材的資源を投入してきている。
 たとえば地租は、日本国内が25%であったのに対し、朝鮮はたったの3.8%。さらに、朝鮮における1941年の米価設定については、生産者の手取り価格は一石で50円であるのに対し、消費者価格は43円。差額は政府負担とする逆ざや政策を実施して、朝鮮の人々の生活を安定させたのである。
 英国人女性旅行家イザベラ・L・バードは、1894年以降、4回にわたり朝鮮各地を旅して、「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」を著わし、その中でこう書いている。
『(ソウルは)都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。…。
 ソウルの景色のひとつは、小川というか下水というか水路である。蓋のない広い水路を、黒くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に、堆積した排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。…。
 ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。…』
 貨幣制度もなく、人々はワラとムシロの小屋に住み、文明人なら目と鼻を覆いたくなるような、凄まじく貧しい状況だったのである。
 この朝鮮に、朝鮮総督府は、大正8年を除いてずっと15〜20%前後の赤字歳出を行い、中央政府からの財政補填を受けながら、投資を続けていた、京城帝国大学の図書館予算は、東京帝国大学の10倍にものほっている。つまり、「朝鮮から植民地搾取をした」ことはなく、日本国民の税金を投入して、朝鮮の民生を過度に篤く支えていたというのが史実でる。


 皇民化政策は非人道的悪政のシンボルのように言われているが、創氏改名を強要した事実はなく、朝鮮人民自身の希望を受け付けて行ったものである。日本名のほうが、日常に便利であったことからか、改名希望が殺到し、総督府はその受付を規制したほどであった。日本による統治後も韓国名を名乗って活躍した芸能人や日本の貴族院議員になった人もいる。国民の半分にも及ぶ奴婢階級の人々(戸籍さえ許されていなかった)が姓氏を得たのは、日帝の時代になってからである。日本による奴婢の解放は、韓国に近代民主主義国家をもたらすうえで不可欠な、いわばリンカーンの奴隷解放に匹敵する大改革であったというべきだろう。
 朝鮮人の強制移住も、歴史の闇として語り継がれていることであるが、多数の人々を暗黒時代の黒人奴隷のように人狩りして強制的に日本へ連れて来たことはない。戦後の日本人の南米移民事業のように、甘い話や雇用条件に欺瞞があったのかもしれないが、貧しかった朝鮮よりも日本への移住を、人々が希望したというのが事実である(当時、密航までして入国した人も多くいた)。
 また、戦後、朝鮮への帰還事業が行われて、帰還を希望する人には全ての費用を日本が負担して送り届けたけれども、ほとんどの人はそのまま日本に残ることを希望しているのを見ても、強制移住であったかどうかは明らかだろう。さらに台湾の人たちも、朝鮮半島の人たちと同様に徴用工として日本へ来ている。ところが、彼らの中からは強制連行の抗議は出ていないことを見ても、韓国の主張が政治的であることが理解される。
 日本語教育は同一国民として扱う政策の表われであり、むしろハングル文字の使用は中国への反逆であるとして、韓国では長年にわたり封印してきていたが、これを普及させたのは日本統治下においてであった。
 日韓併合ののち、農地の改良、農政の確立によって、生産性はかってないほどに高まった。人口は1906年に980万人しかいなかったのが、30年後の1938年には2400万人に急増している。民生の安定とともに、日本による近代法治国家の確立によって、李氏朝鮮にはなかった、半島の人々の生命財産が守られたことの表われである。


・日本は、正しい歴史の認識を


 中韓には、国家内に激しい対立や不安定要因が内在する。情報の公開も、一党支配の中国ではモチロンだが、驚くことに韓国内にも厳しい規制が課せられている。今なお行われている日本文化の発禁などは、その顕著な例であろう。国内の統一のためにも、対立勢力に対する抗争手段としても、「反日」を声高に叫ばねばならない理由がある。
 日本にとって深刻なのは、中韓の主張が日本国内の進歩的(といわれる)勢力によって、日本国内で増幅され、日本の人々がそう思い込んでしまうことである。
 世界の人々はさまざまで、宗教が違えばもちろん歴史観も千差万別なのは、仏教・儒教・回教の歴史をみれば一目瞭然であろう。人それぞれが違う歴史観を持つことは容認すべきことだが、勝手に歴史を改竄してはならない。歴史改竄は、中国人のお家芸なのだ(正史史観)。
 日本が、世界に公開された資料から、正確な事跡をつむぎ、正しい歴史を確立することは重要なことで、政府としての責務であろう。それを国民に知らしめるとともに、世界に発進し、日本の歩んできた道を正しく理解してもらうよう、努力していかねばならない。


 イタリアの思想家マキアベリは、「近隣の国に手を差し伸べる国は滅びる」と言った。聖徳太子以来の『和』を尊ぶ日本人には絶望的な言葉であるが、こうしている間にも中韓では、「日本をどう思うか」というアンケートに、「好き…12%、嫌い…86%」という結果を出させる『反日教育』が行われているのである。



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